岩﨑真紀-text
vol.14

書けなかったTGR2017の総括 ~明日のために植える林檎-1

この「客席の迷想録」vol.14は、予定ではvol.12の続きとなるTGR2017を総括した内容を、1月上旬に公開するはずだった。けれどちょっとした出来事があって気持ちが折れ、私はTGRの後半を盛り上げた魅力的な作品についてのテキストを仕上げることができなかった。
以来、私は今更ながら、客席から(演劇人や関係者に届く形で)札幌の演劇作品についてアレコレ書くことの意味を考え続けてきた。

いささか長くなるのだが、2回にわたって私の思考の旅にお付き合いいただければ幸いだ。

私が札幌演劇の「作品」について書くようになったきっかけは、札幌演劇シーズン(演劇シーズン)と札幌劇場祭(TGR)、この2つからの依頼にある。

最初は演劇シーズン。2013年末に「公式HPに劇評コーナーを作りたい、書いてもらえないか」と事務局に打診されたのだ。私は少し考えてから「自分に劇評を書く力はないが、感想という形で良ければ書かせていただきます」とお答えした。演劇シーズンHPの感想コーナー「ゲキカン!」は2014ー冬からスタートし、私は2017ー冬までの7回に渡ってお手伝いさせていただいた。

TGR主催者である札幌劇場連絡会(以下、劇場連絡会)の依頼で、TGR大賞の審査員となったのが2014年11月。この年の審査員に義務づけられた観劇は1カ月で28作品だ。9つの劇場を文字通り駆け回って見るうちに、作品のテーマや展開の類似・相違などが見えてきた。TGR審査員の任期は3年。作品をよりよく理解しようと札幌で上演される作品全般を観るようになった。シアターZOOが企画する【Re:Z】大賞の選出にも関わらせていただき、2016年には年間100本近い数の演劇・ダンスなどの舞台作品を観た。

TGR審査員の任期を勤め上げた2016年度の終わり、【Re:Z】大賞も終了し「ゲキカン!」もそろそろお役御免の予感があって、「演劇を観て書く仕事はこれで卒業かな」という気持ちがあった。
だが、ふと気が付けば、「札幌演劇を継続的に観て記録し、感想・意見などと共に発信する」という役割が、書き手の病気や高齢化などにより手薄になっている状況があった。

原稿用紙の時代から文章を書く仕事をしてきた人間は、書いて記録を残すということに義務感のようなものを持つ傾向があると思う。少なくとも私はそうだ。ましてや演劇は、特定の時間と空間に立ち会った人間だけが受け取ることのできるイリュージョン。いま奇跡のように成立している札幌演劇の活況、その先のデザインがあるのなら、作品の記録や継続的に観たことで持ち得る視点は有用だろう。

私は「札幌演劇を観て書く」という役割のバトンが、いつの間にか自分のところに来ているように感じていた。だが依頼されていた役目を外れた以上、これまで同様に観て書くことは諸々の点で難しい。
誰か他にいないかと周囲を見渡せば、それなりの数を観劇してブログやSNS等に感想を書いている人たちがいた。これらの感想が一つのプラットフォームに集まり整理されたなら、アーカイブとなるのではないか。量が充実すれば、読んだ人が俯瞰的な視点を持つことも可能だろう。また、一つの作品には多様な見方があることも示せるのではないか。

劇場の客席でよくお会いする方々にこの構想を投げかけてみたところ強い賛同を得、2017年5月1日、舞台に上がらない人たちが作品の感想を自由に投稿できるサイト「札幌観劇人の語り場」が誕生した。

私は有志の一人として語り場の運営に参加しながら、いち観客としての観劇を楽しんできた。11月に実施されたTGR2017は、力ある作品・個性的な作品が全体の流れの要所要所で登場したことに加え、多様な感想を読み他の観客と語り合うことができたという点でも、イベントに関わった方の想いを知ることができたという点でも、盛り上がることができた。

その気持ちがしぼんだのは、TGRの公式HPに審査員の講評が掲載され、それについての参加者(作演家)のSNSへの投稿を読んだことがきっかけだ。


「表彰式で講評をせず、サイト(※引用注 公式HP)でも自分の気に入ったものしか感想(講評ではなく感想)を書いてなくて、これで審査員は責任を果たしたと言えるのか。これでは何のためにみせたのか分からない。」

「結果を目指してとてつもない労力を注いだ作品をあんな稚拙な講評でまとめられては全く報われない。
『審査なんてそういうもの』とか、『審査員が素人だから』とかこちらが冷めてしまってはイベント自体が意味のないものになってしまうし、それが全体の質を下げてしまう一端になりかねない。こちらが意見を言うことで今後の審査員のなり手に支障がでるようなら、そんな審査方法ごと変えてしまえばいい。
全員を納得させようとはしなくてもいいと思うが、せめて責任を果たしたと思わせてほしい。」


実はTGR2016と2017では、TGR大賞の審査と発表の方法が異なっている。決定したのは主催者である劇場連絡会で、審査員はその依頼に基づいた仕事をしている。

2016までは、7名の審査員が全エントリー作品を観て話し合い、事前審査で大賞候補5作品を選出。翌日の公開審査会では審査員が分担して全作品について講評、その後大賞候補について討論し、投票で大賞と各賞を決定していた。また、公開審査会のラストで審査委員長が総評を述べるほか、後日公式HPに各審査員の講評が掲載されていた。

2017は、事前審査会で大賞と各賞を決定。公開審査会は授賞式とし、全作品講評を廃止して結果発表と審査委員長の総評のみとなった。公式HPの講評は審査委員長が代表して全作品について書き、その他の審査員は「書きたいことがある人は書いてもいい」とされた。

投稿者は①についたコメントに返信する形で「審査員は公平に審査をしたかどうかを説明する責任がある」とも書いている。審査や講評に関する変更が参加者に周知されなかった結果、主催者決定に従った審査員が批判される形になった。


審査とはいえ何かにもの申した以上、それを批判されること自体は仕方がない。
2016年にTGR審査委員長を務めた後、私も様々な形で批判された。実のところ2017の審査方法の変更は、私が任期終了時に「主催者はTGRの定義と審査員の立場を明確にすることで、いわれのない批判からは審査員を守るべきではないか」と申し入れたことがきっかけとなっている。
審査に関する変更の検討・決定は劇場連絡会によるもので私とは無関係だが、自分の行動の結果がむしろ審査員の責任を問うような投稿に繋がったことは、とても悲しく、悔しかった。

そして、その後の劇場連絡会の審査員への対応は、私をさらに悲しい気持ちにさせた。

上記投稿については劇場連絡会の中で共有されたが、審査員に対して「私たちの依頼でいやな思いをさせて申し訳なかった」と言った関係者は一人もいなかった。

また、投稿者は①・②の他にも講評に触れる投稿をしている。それらへの抗議の表明として、2018年の審査委員長と目されていた映像界の方が審査員を辞退したが、特に話し合いも遺留もなかったという。抗議内容の詳細は知らないが、その方は私にはこう語っていた。

「健全な批評を受けることが表現者の義務、『たかが素人が、演劇のなんたるかも知らないくせに』と言うような文化から脱皮しないと、札幌の演劇作品に成長はない。審査員の言葉尻を捉えての確信的な書き込みは、自ら賞にエントリーしておいて公に発信する内容ではない。ましてや、言葉で世界を紡ぐ作家自身が、言葉で他者を非難し傷つけ排斥することはあってはならないと思う。私自身は批判されても平気だが、システムとして審査員という立場にいる以上、こういった批判に対する抗議の意思をはっきり示すべきだと考えている」。

これは札幌演劇界の片隅で起こった、小さな出来事だ。何も血相を変えて怒ることでも、深く嘆き悲しむことでもない。

劇場連絡会は札幌の10の劇場(2018年5月現在)による組織だ。運営にあたっている方々は存じ上げているし、親しくさせていただいている方もいる。個々の劇場運営で手一杯のところに「札幌全体の演劇振興を考えた取り組み」としてのTGRの運営は、とても大変だろう。それぞれの劇場の思惑も熱意も異なる中での意志決定と運営であり、諸々が後手に回るのも仕方がない。

とは思うのだが。
TGR審査員は「観客として面白いと思うものを選び、それについて話してくれればいい」と言われて審査を引き受けている。その結果としてステージの上からいわれなく吐かれた唾は、招かれて客席に座った人々に貼り付き、誰にも拭われないままになっている。そのことが私の心を重くしている。

大人なら黙って自分で拭い、その場を立ち去るしかないのだろうか。

唾を吐いた本人には関係者からあれこれと言葉がかけられたことを思うと、演劇イベントの内側に足を踏み入れたために味わったこの思いをどうすればいいのか、私はわからないままでいる。

(次週へ続く)


岩﨑真紀(いわさき・まき)
情報誌・広報誌の制作などに携わるフリーランスのライター・編集者。特に農業分野に強い。来道した劇作家・演出家への取材をきっかけに、北海道で上演される舞台に興味を持つ。TGR札幌劇場祭2014~2016年審査員、シアターZOO企画・提携公演【Re:Z】2015~2016年度幹事。サンピアザ劇場神谷演劇賞2017年度審査員。