天才斐三郎の直筆図面。

五稜郭初度設計図

写真提供/市立函館博物館

写真提供/市立函館博物館

五稜郭は、ペリー来航以来の動乱の中で、箱館が西欧に開かれた港になったことに伴い、幕府が北方警護と蝦夷地統治のために築いた平城だ。稜堡とよばれる5つの突角がある星形五角形の西洋式土塁が最大の特徴。武田斐三郎の設計により、7年の歳月をかけて1864(元治元)年に竣工した。

5つの突角に大砲を設置すれば、襲撃してくる敵に左右から十字砲火を浴びせることができる。つまりどの方向にも死角がないという、西ヨーロッパ由来の設計思想が取り入れられた。

郭内には奉行所庁舎や25棟ほどの付属施設が配置されていた。20年にわたる準備と構想を経て2010年に復元されたのは、全体の三分の一ほどだ。星形をした水堀の幅は最大30メートル、深さ4~5メートル。

この図面は、幕末に箱館の町名主を務めていた小島家に残されていたもので、斐三郎直筆と考えられている。黒船来航で国難が叫ばれた1855(安政2)年、幕府は、松前藩には任せておけないと蝦夷地を直轄。武田斐三郎は江戸から箱館詰めとなった。箱館に渡ったこの年に彼は、武田らを世話した小島家当主小島又次郎の妹美那子と結婚している。だから図面が小島家に伝わったのだろう。

1868(明治元)年秋、五稜郭は旧幕府軍により占拠され、箱館戦争の決定的な舞台となった。

現在の五稜郭一帯は函館市民や観光客のいこいの公園で、5月初旬には土塁に植えられた1600本あまりのソメイヨシノが咲き誇る。この月には「箱館戦争戦没者供養祭」や「箱館五稜郭祭」が開かれ、7月下旬には恒例の「市民創作函館野外劇」が繰り広げられる。
五稜郭公園は、このまちの成り立ちを深く刻印しながら、市民ひとりひとりの人生とさまざまに交わる、函館にとって本当にかけがえのない公園だ。

谷口雅春-text

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