北方史の海原に浮かぶバイダルカ。

アリュートの3人乗皮舟

写真提供/市立函館博物館

写真提供/市立函館博物館

1875(明治8)年、懸案だった国境線を明らかにするために、日本とロシアのあいだで千島樺太交換条約が結ばれた(駐露特命全権大使榎本武揚)。このころの樺太は、ウイルタやニブフ、アイヌなどの先住民族に加えて、日本とロシアからの入植者たちが混住して、近代国家の枠組みが一方的にもたらす緊張が高まっていた。この条約は、そうした状況を解決しようと、日本が樺太を放棄する代わりにウルップ島以北の18島を加えて千島列島全島を日本の領土とするもの(エトロフ島まではそれ以前から日本領だった)。とはいうものの、この日露のやりとりに、先住民族たちが参画することはできなかった。
千島樺太交換条約は、日本はもとより函館にとってとても重要な意味をもっていた。以後函館が、千島への拠点港となったのだ。

海獣の皮を使った防水構造のこの大きな舟(ロシア語でバイダルカ)は、千島樺太交換条約の批准にさいして千島へ巡行した開拓使長官黒田清隆一行が、中部千島のシムシル島で収集した一隻。アリューシャン列島の先住民族の3人乗皮舟だ。

当初は開拓使東京仮博物場(芝の増上寺境内)にあったもので、1882(明治15)年に開拓使が廃止されると、函館博物館に移管された。以後行政区分や施設名が変わりながらも、千島列島との深い縁を持つ函館にありつづけている。その意味でこの皮舟は、函館博物館の原点のひとつとも位置づけられるだろう。

アリューシャン列島に暮らす先住民アリュートたちは、海水面がいまよりも100m以上も低かった最終氷期のある時期(2万5千~1万4千年前)にベーリング地峡を通って新大陸に渡った人々の末裔といわれている。彼らはクジラの骨やアザラシの皮でつくったシーカヤックを営々と使いこなしてきた。アリューシャンの島々は、強い海流によって隔てられている。ロシアが進出してくるまでの長いあいだ、アリュートたちは小型のカヤックでこの海域を俊敏に行き交いながら、海獣などを獲って暮らしていた。

キリスト教の宣教師たちによって蝦夷地が「発見」されたのは17世紀前葉。ロシアの軍人・探検家ベーリングが領土拡張をめざしてカムチャツカやユーラシア大陸の東端を踏査したのが18世紀中葉。これ以後ラッコ資源を見いだしたロシアがアリューシャン列島に進出すると、アリュートたちは帝国の経済システムの最下層に繰り込まれていく。清やヨーロッパ各国の王宮にとってラッコのゴージャスな毛皮は権威の象徴であり、交易の独占を図るロシアには膨大なマーケットが用意されていた。
そうしてロシアの国策会社である露米会社は、アリュートたちを千島のウルップ島やシムシル島に強制移住させ、ラッコ猟に従事させたのだった。獲物を運ぶ効率を求めて舟は大型化され、ついには3人乗りタイプが登場。真ん中には、役人や宣教師が乗ることもあったという。

そして一方で千島には、アイヌ民族が先住していた。一隻のこのシーカヤックは、北東アジアの300年にわたる複雑で壮大な歴史の上に浮かんでいる。

谷口雅春-text

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