提督からの贈り物。

函館市指定有形文化財

「ペリー提督寄贈の洋酒瓶」

写真提供/市立函館博物館

写真提供/市立函館博物館

幕末の箱館の町名主であった小島家に伝わった洋酒瓶。
1966(昭和41)年に市立函館博物館が開館した折に寄贈された、花光春之助によって集められた美術工芸品「花光コレクション」のひとつ。

1854(安政元)年5月(新暦)、外輪フリゲート艦ポーハタンを旗艦に、5隻からなるペリー艦隊が箱館港に来航した。日本が開国に同意した日米和親条約が横浜で結ばれたのを受けて、津軽海峡や箱館港を調査するためだった。
しかし幕府役人の到着が遅れたために、一連の外交事情に暗い松前藩は対応に困窮してしまう。
最初の会談は家老の松前勘解由(かげゆ)らが行ったが、さいわい、ともに後に箱館奉行に任命される堀利煕、村垣範正一行が蝦夷地と樺太巡察の途上で津軽に来ていたので、藩は彼らに助けを求めた。そこで若きテクノクラート(技術官僚)武田斐三郎をはじめとした堀の外国通の部下が急派されて、交渉の手助けをすることになる。彼はその前年にペリー艦隊が浦賀に来航したときにも、佐久間象山に連れられて吉田松陰らとともに黒船を見ていた。

翌1855年、蝦夷地全域が松前藩領地をのぞいて幕府直轄になると、28歳の青年武田は箱館奉行所に赴任。日本で最初の洋学の総合教育機関ともいわれる「諸術調所(しょじゅつしらべしょ)」を立ち上げたり、星型の土塁で名高い洋式城郭「五稜郭」を設計するなど、以後10年にわたって箱館の地でめざましい仕事を積み上げていく。

武田らがペリーと面会したさい、幕臣一行を泊めて世話を焼いたのが、雑貨や酒をあつかう大店(おおだな)のオーナーで町名主であった小島又次郎。そして斐三郎はほどなくして、又次郎の妹である美那子を妻に迎えた。
瓶の来歴の詳細はわかっていないが、ペリーがこの洋酒瓶を小島家に直接進呈するとは考えにくいから、斐三郎か松前藩経由で小島家に渡ったものだろう。

斐三郎と美那子の結婚のいきさつも、大恋愛があったのか、上司のすすめなのか、詳しいことは分かっていない。『武田斐三郎伝』(白山友正)では、兄又次郎は、自身が尊敬する「斐三郎の懇望を容れてその妹を配した」とあるが、やや根拠不足の感もある。新たな資料が出てくれば、ドラマチックなラブストーリーが明らかになるかもしれない。
美那子は1863(文久3)年、27歳の若さで病没した。現在は、東本願寺函館別院船見支院に眠っている。

斐三郎は1864(元治元)年、37歳の春に江戸に帰る。そして幕府の洋学教育研究機関である開成所教授となった。明治になって出仕し、陸軍大佐、陸軍大学校教授、陸軍士官学校教授、陸軍幼年学初代校長などを歴任しながら、近代日本の科学技術政策の最前線を歩みつづけた。

五稜郭タワー1階には武田斐三郎の立像が、そして五稜郭公園にはレリーフがあり、レリーフの頭と顔はつねにぴかぴかに輝いている。彼の頭脳にあやかって撫でたがる観光客が絶えないからだ。斐三郎が美那子との結婚を懇望したことが事実なら、そのいきさつを想像してみると、この天才が函館にもつ縁にいっそう親しみがわいてくる。

谷口雅春-text

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