サイドストーリー

塩狩峠~ふたつの大河を分ける物語-1

桜と塩狩駅 (写真提供:合田俊幸)

開拓とともに延びていった北海道内陸の主要交通網のほとんどは、古来アイヌの人々が踏み分けていた道がもとになっている。そのことの意味を考えてみるのに最適な場所が、天塩川と石狩川の分水嶺である塩狩峠だ。
谷口雅春-text

アイヌの冬の道をなぞった道路と鉄路

道北の和寒(わっさむ)町にある塩狩峠(272.9m)。ここはこの島が北海道と呼ばれるはるか前から、上川盆地と名寄盆地を分ける交通の要衝だった。太古に南側の上川盆地を作ったのは、上川町が位置する石狩川の水系。北側の名寄盆地を押し開いたのは、下川町のある天塩川の川筋だ。
1869(明治2)年、開拓使東京出張所の高級官僚(判官)だった松浦武四郎は、「蝦夷地」に替わる地名「北加伊道」を明治政府に提案した。それが「北海道」となったのだが、同時にこの島を千島を含めて11の国に分けている。それぞれには、日高、後志(しりべし)、胆振(いぶり)といった日本書紀を原典とする国名や、古来その土地で使われていたテシホやイシカリなどの名が振られた。つまり蝦夷地固有の歴史文化を天皇が治める国に接ぎ木したのだ。やがて天「塩」と石「狩」の国境の峠は「塩狩峠」と呼ばれるようになる。

幕府に蝦夷地の内陸のようすが知られるようになったのは、19世紀はじめのことにすぎない。しかしアイヌには古くから、川筋を軸にした縦横の内陸路があった。天塩川と石狩川で見てみよう。
道北の大河天塩川を延々と上ると、士別市の手前で剣淵川(通称和寒川)と分かれる。そのずっと先のあたり(現・士別市内大部)がテシホアイヌのコタン(集落)の最上流だったという。天塩川は南側の支流を上り詰めると石狩川へ通じて上川に下り、東側の支流を上っていくと北見山地を越えて渚滑川の水系に入ってオホーツク方面に行くことができる。塩狩の一帯は、天塩川筋のアイヌと石狩川筋のアイヌたちが行き交った幹線ルートだったのだ。
剣淵川は源流域でふたつの支流に分かれる。東側のマタルークケネプチ川(冬の・道・通る・剣淵川)と、西のサルークケネプチ川(夏の・道・通る・剣淵川)だ。積雪寒冷の蝦夷地では、夏と冬では人の行動がおのずと大きく違っていた。例えば後志の積丹(しゃこたん)の語源はシャク・コタン(夏の村)だし、道北の咲来(さっくる)はサ・ル(夏の・道)。道央の当別の察来山(さっくるやま)や道東にある札弦(さっつる)も、由来はサク・ルだ。「ル」は道のこと。そして冬(マタ)になると、人々は別の村や道を使った。
1898(明治31)年。暫定の道道として天塩川と石狩川の分水嶺となる峠に道が開かれた。翌年には並行して官設鉄道天塩線(現・宗谷本線)も開通するのだが、どちらも多くの部分はこの冬の道(マタルークケネプチ川)をなぞったものだ。

北海道の内陸の主要な道路と鉄路の大部分はアイヌの踏み分けをもとに開かれたものだ。なかでも冬の道筋に作られたものが多いという。地名研究の山田秀三(1899-1992)は、「アイヌ語の内陸交通路地名」でこう考察する。夏ならば苦労するササヤブや灌木、沢などが冬だとすべて雪の下だから、最短距離に近いルートを進むことができる。とくに春先の堅雪のころはとても歩きやすかった。最短ルートを求めて橋やトンネルを駆使する近代の土木工事は、アイヌの時代の雪の役割を近代技術が担ったともいえるだろう。そして山田は、アイヌは山の急斜面でも平気で上ったが、鉄道や自動車道路は勾配を緩めなければならない。そのために遠くから斜めに道をつけるところがアイヌの道とはちがう、と続けている。

同じ論文で山田は、アイヌの人々は北海道という大きな島の各地で自給的に暮らしていたのに、なぜほとんど同じ言葉や生活習慣を持っていたのだろうと考える。「海上交通だけではここまでの文化交流は考えられない。和人の目に触れなかった内陸交通があって、それに伴って文化の交流があったに違いない」。
この考察は、僕たちにたくさんの気づきをもたらす。

幕府にも見えてきた、蝦夷地内陸の要所

和人が本格的に蝦夷地の内陸を知る時代のことを俯瞰してみよう。
17世紀初頭、徳川家康に蝦夷地の統治と交易を独占的に認められた松前藩は、藩の領地(和人地)の外(蝦夷地)に和人が行くことを厳しく制限して、定住も許さなかった。蝦夷地に公式に入ることができた和人は、春のニシン漁や秋のサケ漁にやって来る、許可を受けた出稼ぎ漁師たちだけ。砂金や鷲鷹などを求めて密かに入る者たちがいたものの、内陸のようすは江戸にはほとんど知られなかった。松前藩は和人とアイヌの接触を最小限にすることで、本州以南の列島と蝦夷地の差異を際立たせ、その仲介役として自らの特権的な価値を高めようとしたのだ。
状況が変わったのは18世紀末。アイヌ交易での松前藩の不当なふるまいやいよいよ現実になったロシア南下の情勢を受けて、幕府は蝦夷地の本格的な調査に乗り出す。ここで幕府は、大陸ともつながったアイヌ交易には利が多く、蝦夷地の開拓の可能性を見いだした。調査事業の中心に居たのは、老中田沼意次。このあたりは蝦夷近世史のドラマチックな一章だが、先を急ごう。

10代将軍徳川家治(いえはる)の死によって、後ろ盾をなくした田沼が失脚。蝦夷地調査は一端中断されてしまう。しかし道東でアイヌと和人の激しい戦い(1789年クナシリ・メナシの戦い)が起こり、さらにはラクスマン率いるロシア軍艦が根室に出現(1792年)すると、復活していく。そうしてロシアとの国境であるカラフトや千島のエトロフの漁場開発などが計画されていった。一方でイギリス軍艦プロビデンス号が噴火湾に現れたり(1796年、98年)、カラフトやエトロフの幕府の拠点がロシアの攻撃を受ける(1806、07年)といった事態から、幕府は蝦夷地のすべてを直轄することにした。

松浦武四郎が蝦夷地を歩きはじめる50年ほど前。幕府の蝦夷地調査隊の一員だった近藤重蔵は、1798(寛政10)年から何度も蝦夷地を踏査した。1802(享和2)年には「蝦夷地図式」(乾・坤)という北海道と千島列島の地図を作成している。「乾」を写真で見るように、現在の地図とさほど変わらず、興味深いことに石狩川から天塩川に抜けるルートが点線で描かれている。塩狩峠を越えるルートを近藤が実際に歩くのは5年後だが、この地図をつくる時点ですでに上川から天塩の内陸について、近藤らはかなりの情報を集めていたのだ。

「蝦夷地図式」(乾)1802年近藤重蔵(函館市中央図書館所蔵)


上記地図を拡大。天塩川水系と石狩川水系のあいだに点線のルートが描かれている。「(石狩川の)カムイコタンヨリ四日路上リテ七日目ニイベツ(士別)ニ下ル 山中ニ一泊」の文字も

1807(文化4)年。幕府の蝦夷地直轄につながる大調査の一環で、近藤重蔵は天塩川水系を上って分水嶺を越え、アイベツ川から石狩川に下りていった。近藤らはこのときの経験をもとに、「蝦夷地図式」をさらに発展させた「蝦夷地図」を作成している(1809年)。このあたりのいきさつは『新旭川市史』に詳述されていてとても興味深い。地図の前文には、これではじめて蝦夷地の内陸地理の形成をつまびらかにした、とある。以後近藤は、上川盆地を蝦夷地開拓の中心にすべきだと主張するようになった。
蝦夷地の経営をもはや松前藩には任せておけないと幕府が決断した19世紀初頭(第一次幕領期)。遠い蝦夷地の内陸のようすが、幕府の指導者たちに見えてきた。蝦夷地の日本海側(西蝦夷地)の海路は難所が多いため、ソウヤやカラフト方面へのルートを内陸にも見つけておかなければならない。石狩川と天塩川の分水嶺は、その象徴的な要所として「中央」に見いだされたのだった。

現在の塩狩峠を越えるのは、国道40号とJR宗谷本線だ。この季節の塩狩駅のまわりは、道北有数のエゾヤマザクラの名所。近藤が歩いた2百年後を生きる地域の人々は、これを「一目(ひとめ)千本桜」と名づけて大切に愛でている。

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