北海道の西洋農業前史 -2

七飯から、東アジアの近代が見える

ガルトネルが近郊の山引苗を植えたブナの人工林。ガルトネル農場をしのぶことができる唯一の遺構だ

幕末当時の欧米列強は東アジアや日本、そして蝦夷地をどのように見ていたのだろう——。かつて七飯町にあったガルトネル農場は、北海道のもうひとつの歴史地図を僕たちに考えさせてくれる。
谷口雅春-text&photo

プロシア駐日領事とガルトネルの蝦夷地調査

幕末から明治にかけて、プロシアからやって来て七飯(ななえ)に農場を開いたラインハルト・ガルトネル(以下R.ガルトネル)。彼の農場は開拓使に引き継がれ官園に発展して、国策としての農業フロンティアのひとつになった。R.ガルトネルはそもそもなぜ日本にやってきたのだろう。そこを考えるには、19世紀後半の東アジア情勢にまで構図を広げなければならない。

プロシアとは現在のドイツ連邦共和国の母体になった王国(首都ベルリン)で、オーストリアとの戦い(1867年)や普仏戦争(1870〜1871年)の勝利を経て、分裂していた小国群をドイツ帝国として統一したのが、鉄血宰相ビスマルクだ。時は1871(明治4)年。日本では、欧米社会の成り立ちを広く学ぶ大調査団、岩倉使節団107名が出発した年だ。
日本とプロシアをめぐる歴史のキーパーソンは、初代の駐日ドイツ帝国全権公使となるマックス・フォン・ブラントだ。プロシア軍の将軍の子として生まれたブラントは、陸軍中尉から外交官になった人物。生年の1835(天保6)年は、岩崎弥太郎や福澤諭吉、土方歳三と同じだ。プロシアは、帝国主義の覇権を争うイギリスやフランス、アメリカ、オランダなどを追いかける第2グループにいたから、近代の「坂の上の雲」に手を伸ばそうとする仕事への動機は、ある意味で日本のリーダーたちと共通していただろう。この時代帝国主義の覇権は、南米やインド、アフリカなどにつづいて東アジアにまで拡張されていた。

イギリスが清国に仕掛けたアヘン戦争(1840〜42年)以降、中国は欧米への開港と不利な貿易を強いられ、ほどなくして北ドイツの都市群(ドイツ統一前のハンザ諸都市)も参入することになる。そして1850年代になると列強はいよいよ日本にも攻勢をかけて、鎖国体制の扉をこじ開けた。プロイセン王国は1860(万延元)年、中国と日本、そしてシャム(タイ)と通商条約を結ぶ目的で、軍艦に守られた使節団を派遣した。その一員に、マックス・フォン・ブラントがいたのだ。当時のプロシアのアジア政策を詳しく論考した『プロイセン東アジア遠征と幕末外交』(福岡万里子)によれば、彼らは日本に、貿易相手というよりもむしろ、中国市場に近い上にオーストラリアや米国西海岸への中継寄港地となる価値を見いだしていたという。

日普通商修好条約が調印され、1862(文久2)年に初代駐日領事として横浜に赴任したブラントは、1872(明治5)年には駐日ドイツ帝国全権公使となっている。その後は清国大使となっているから、ドイツ有数の東アジア専門家だ。
ブラントは蝦夷地の調査を自ら二度も行っている。二回目となる1867(慶応3)年の旅は長大なもので、箱館から東蝦夷地(太平洋側)を北上して室蘭から勇払まで進み、石狩低地帯を西蝦夷地(日本海側)に抜けた。これは、勇払川をのぼって分水嶺を越えて千歳川最上流部に入り石狩川を下って石狩に出るという、アイヌ民族が古来使っていた勇払越えのルートだ。日本海に出ると、小樽を通って茅沼(岩内)、江差、上ノ国、松前と南下して、20日あまりで箱館に戻った。徒歩や各地の会所(松前藩時代からの交易拠点)が管理している馬、そして漁民の舟を利用した長く困難な調査行だ。そしてこのとき、全行程の案内役を務めたのがR.ガルトネルだった。ガルトネルはこの旅のことを記録しているのだが、七飯町歴史館の学芸員山田央(ひさし)さんが、翻訳されたそのテキスト(翻訳/奥村博司)と行程をなぞって作った地図を見せてくれた。
紀行には、サケ漁の大拠点である石狩に着くと役場(箱館奉行所の出先)の建物に泊まったが、役人たちが私の弟(C.ガルトネル)を知っていると話しかけてきた、などとある。石狩にいる幕吏(ばくり)は、箱館奉行所から転勤してきた者たちなのだ。江差まで来るとそこは2万人を数えるまちで、広い通りには大きな倉庫や商店が並び、倉庫には帆船が着船できる船着き場があった。江差は海産物の取引では箱館をはるかに凌駕している、と書かれてある。

 

蝦夷地は絶好の植民地ターゲット

R.ガルトネルは、「中央」からはるばるやってきた領事をしかたなく案内したわけではない。山田さんはそこを強調する。ビジネスに役立てるために、本人も蝦夷の奥地に並々ならぬ関心を持っていたのだ。ではブラントの目的はそもそもなんだったのだろう。ブラントも『ドイツ公使の見た明治維新』という日本語訳のある回想録を出している。タイトルのとおり、戊辰戦争で幕府軍が敗れて明治新政府が立ち上がる激動の日々が興味深く綴られているのだが、惹かれるのはなんといっても、先にふれた調査行の報告、「蝦夷の旅」と題した章だ。
彼は蝦夷に向かった動機を、その少し前に病に倒れたことから、まず仕事場を遠く離れたところで転地療養の時間をもちたかった、と説明する。その上で旅は、「ロシア人の樺太進出によって、にわかに重要性を帯びてきた観のあるこの蝦夷島ついて情報収集の機会」だったという。勇払越えを行ったことでわかるように、蝦夷地の概略はすでに下調べがついていたのだ。幕末の蝦夷地のようすがうかがえる一般書としてこの本はとても興味深いのだが、中にとりわけ印象的な一節がある。
「私は蝦夷を旅行する間に、この土地はヨーロッパ人の植民地として格別に適していると確信することができた」
蝦夷は気候が北ヨーロッパと似ている上に地味は肥え、石炭もある。魚類も豊富で、海藻(コンブ)や硫黄などはすぐ輸出できる。
「土着のアイヌと本土からの移民は数が少ないので、ヨーロッパ人の入植に障害となりうるものではないし、また、島に置くべき守備隊や駐留地のことは問題とするに足りなかった」
ブラントをめぐっては昨年、戊辰戦争で新政府軍と戦った会津藩と庄内藩がプロシアから軍資金を調達するために、北方警備を担っていた蝦夷の領地を担保として99年間貸与する申し入れをしてきた、という報告がベルリンで見つかってニュースになった。日本側の裏付けは見つかっていないが、ブラントが本国のビスマルクに送った書簡だった。

欧米のパワーエリートたちにとって、蝦夷地は人口も極端に少なく、まるで手つかずの天然資源の宝庫に見えたのだろう。R.ガルトネルが七飯に拓いた農場もこうした文脈の上にあった。さらには、ペリーの箱館来航(1854年)以来つぎつぎとこの島にやって来たロシアやイギリスなどの商人や行政官、軍人たちの認識も、まったく同様だ。ペリー艦隊はおよそ3週間にわたって、箱館湾の測量にはじまり動植物の詳細な調査までを行って大部の報告書をまとめているし、植物や鳥類の研究者であるイギリスのアンダーソン兄弟や、箱館で150種以上の植物を採集して英国王立植物園に送った初代英国領事ホジソン、1883(明治16)年まで函館に暮らした商人にして博物学者のブラキストンなど、箱館を舞台に蝦夷地の自然に科学というツールで分け入ろうとした外国人は少なくない。そうしたふるまいには、この島をヨーロッパ文明の「辺境」に正確に位置づけて母国の益にしようという、強い植民地主義がはらむ動機があった。
太平洋戦争が日本の敗戦に終わった時点(1945年)で、北海道の北部がソ連に占領される可能性があったとはよく語られる戦後史の挿話だが、幕末の蝦夷地もまた、歴史の歯車の構成が少しちがっていたら、どうなったかわからなかっただろう。

ガルトネル農場に話をもどそう。
R.ガルトネルの弟は兄に先駆けて箱館に入り、プロシア領事館の副領事となった。そして弟を追いかけるように兄が農場主として箱館近郊に入る。七飯町歴史館の学芸員山田さんによれば、ガルトネル兄弟の父は知識人層の建築家で、13人もの子どもがいたという。だから兄弟は農業の専門家ではない。祖国を遠く離れてはるか東の辺境の島にやって来たふたりは、「しっかりとした教養と時代の流れを読む才覚、そしてねばり強く大胆な精神をもったひとかどの人物だったと思います」

七飯町歴史館の学芸員山田央さん。同館の活動には、季節を追ってきめ細かなアイデアがあふれている

あるときは国を背負い、激動する歴史の渦中で機敏に商機を見いだし、時至れば打って出ることに躊躇しない。ガルトネル兄弟や、幕末に箱館にやってきた外国人たちはみな、そんなタフな国際人だったのだろう。そこにからむ箱館奉行所の若い幕吏たちや榎本武揚や永井玄蕃をはじめとする旧幕府軍の幹部たちも、人並み秀でた才気に満ちていたし、明治新政府の官僚たちも同様だ。彼らが複雑に奏でた社会の深く大きな変化は、時代の熱を帯びた緊張と高揚に満ちていた。そのひとコマから、僕たちはいま何を学ぶことができるだろう。
「その土地を世界の中心に据えると世界はどう見えるか——」。特集のサイドストーリーでは毎回そのテーマをめぐって北海道を歩いているが、七飯町から見える幕末から明治の風景は、とびきり豊かでスリリングだ。

現在ガルトネル農場の施設は何も残っていない。しかし農場の存在を雄弁に語る森が国道5号沿いにある。気候が似通った故国をしのぶように、ガルトネルが近隣の山から幼苗(ようびょう)を移して作った、ブナの人工林だ。樹齢百年を超えるブナの人工林は全国にもほとんど例がないという。

ガルトネル・ブナ林
北海道亀田郡七飯町桜町
問い合わせ/七飯町歴史館
北海道亀田郡七飯町本町6丁目1番3号
TEL:0138-66-2181
rekishikan●town.nanae.hokkaido.jp ※●を@に置き換えてご利用ください

この記事をシェアする
感想をメールする
ENGLISH