永山武四郎とは-1

「北海道」に生きた永山武四郎の生涯

永山武四郎(1837-1904)。1897年ごろの肖像(北海道大学附属図書館所蔵)

1837年、鹿児島に生まれ、35歳で初めて北海道に渡り、第2代北海道庁長官にも着任した永山武四郎。「屯田兵育ての父」と呼ばれた彼が明治の北海道でどんな一生を送ったのか。その67年の生涯を、かけあしでたどってみたい。
石田美恵-text

北の国に新しい使命を

永山武四郎は1837(天保8)年4月24日、鹿児島郡西田村(現在の鹿児島市)に薩摩藩士の第四子として生まれる。小さいころから剣術、槍術に励み、とくに槍術は十文字鎌槍で知られる宝蔵院流の免許皆伝をうけるほどだった。
1868(明治元)年、戊辰戦争に参加。新政府軍の二番隊小頭として会津の攻略を行い、会津若松城では先頭を切って城に攻め入り勇名をあげる。この戦いでようやく軍部に知られ、1871(明治3)年に陸軍大尉となった。

当時の新政府では、近代的国家にふさわしい軍備を整えようと新しい試みが行われていた。そのなかで、これまで各藩でバラバラだった兵制を統一することになり、イギリス式を採用するかフランス式を採用するかで内部の意見が分かれた。武四郎の郷里薩摩藩では以前からイギリス式で訓練を行っており、武四郎も当然のごとくイギリス式を主張。しかし、結局フランス式に統一された。
主張にやぶれた武四郎は、そのまま職に留まるのを潔しとせず、北海道の防衛と開拓が自分の新しい使命であると考える。このころの北海道は対ロシアへの備えが大きな課題であり、武四郎の決意を知った政府はすぐに彼の北海道派遣を決定。
こうして1872(明治5)年9月、武四郎は開拓使八等出仕として初めて北海道・札幌に在勤することとなった。この前年、札幌に開拓使庁がおかれ、開拓使顧問ケプロンが来日し北海道各地を視察、その後の道筋がつけられ始めたころである。

それからの武四郎の一生は、北海道の屯田兵の育成に終始する、といわれている。
屯田兵は1874(明治7)年から1904(明治37)年まで行われた、北海道の国防と開拓の二つの任務にあたった移民の制度である。武四郎は着任翌年の1873(明治6)年11月、北海道警備の必要性を痛感し、同僚幹部3人とともに屯田兵制度設立の建白書を提案。こうした提案が政府に認められ、1874(明治7)年10月に屯田兵条例が制定された。
武四郎は開拓使に新設された「屯田事務局」に配属となり、本格的に屯田兵の仕事に着手する。入植の第一陣は札幌の琴似兵村で、宮城、青森、山形など戊辰戦争で官軍と戦った士族158戸だった。その後、山鼻、発寒、新琴似、篠路、近郊の江別、野幌などで入植が進み、着実に開墾が行われていった。

1874年11月、札幌琴似村に建築された最初の屯田兵舎群(北海道大学附属図書館所蔵)

屯田兵の父として

1877(明治10)年2月15日、西郷隆盛を中心とする西南の役が勃発する。
西郷は武四郎にとって同郷の大先輩で、屯田兵構想を最初に企画したのも彼であり、武四郎がもっとも尊敬する人物だった。征韓論を主張し破れた西郷が反政府軍を率い鹿児島から北上したこの戦いで、武四郎は屯田兵を率いて出征する。屯田兵の初めての参戦相手が、敬愛する先輩だったことに苦悩したことだろう。
しかし武四郎は私情に流されることなく准陸軍少佐として琴似、山鼻の屯田兵で第一大隊を編成、鹿児島に上陸し果敢に戦った。西郷軍は新政府軍の総攻撃に合い敗北、西郷隆盛は城山で切腹し争いは終わりとなる。
このとき武四郎が率いた第一大隊は、それまで「百姓部隊」と軽視されていた屯田兵の力を広く世に示すこととなった。翌年12月、武四郎は屯田事務局長に昇進し、さらに屯田兵制の整備強化に励んだ。

また、ちょうどこのころ武四郎は札幌に土地を買い、1881(明治14)年ころ自邸を建築している。当時開拓使の官邸は充分に整備され、不自由はなかったはずだが、彼は自ら札幌に家を建て、文字通りここに骨を埋める覚悟であったことがうかがえる。
1882(明治15)年に開拓使が廃止され、札幌、函館、根室に三県が設置されると、屯田事務局は陸軍省に移管される。その名称は1885(明治18)年に屯田兵本部、1889(明治22)年に屯田兵司令部、1896(明治29年)年に第七師団本部へと変わっていくが、武四郎はこの間ずっと最高責任者として仕事にあたった。

屯田兵村は明治20年代に次々と誕生し、拡充期を迎える。
武四郎は1887(明治20)年3月から翌年2月までの約1年間、ロシア、アメリカ、清国に長期出張し、アメリカでは開拓移民の状況を、ロシアではコザック兵の駐屯状況を、清国では寒冷地の農業などを幅広く視察し、帰国後に屯田兵の重要性、その拡充の必要性を述べた。
その後、1888(明治21)年に屯田兵本部長と兼任して第2代北海道庁長官となった武四郎の提言をもとに、1890(明治23)年、屯田兵条例が大改正される。これにより、以前は士族中心だった屯田兵員の募集が大きく広げられ、いわゆる平民屯田となり各地に兵村が作られた。
とくに武四郎が尽力した上川地域は、1888(明治21)年に武四郎が天皇に拝謁した際、「おまえが力を尽くす村だから、おまえの姓をとって永山村と名づけるがよい」と言われ、その名がついたことはよく知られている。

1887年にアメリカ、ロシア、清国を視察した一行。前列中央が武四郎。出発直前の記念写真と思われる
(北海道大学附属図書館所蔵)

明治時代末の永山屯田兵村兵屋(北海道大学附属図書館所蔵)

「北海道の土になれ」

1894(明治27)年8月1日、日清戦争が始まると屯田兵も動員されることとなり、翌年に臨時第七師団を結成。武四郎が師団司令官となり、東京に向かって出征の時を待つが、戦線に出ることなく終戦を迎え師団は解散する。
その2年後、国内の軍備拡張により北海道にも師団を置くことになり、札幌に第七師団が創設されると屯田兵はその管下に入り、長年屯田兵を指揮してきた武四郎が初代師団長となる。師団の基礎固めが終わり、1900(明治33)年に師団が札幌から旭川に移転するにともない、武四郎は63歳で休職。現役生活を終えた。
屯田兵の入植は、その前年の1899(明治32)年に行われた剣淵、士別が最後で、それまでに道内37兵村、7337戸、約4万人の兵員とその家族が北海道の土を踏んだ。
武四郎の生涯約30年をかけた大仕事が、この土地にもたらした影響は計り知れない。

退官後、武四郎は貴族院議員に選ばれ、1903(明治36)年12月議会に出席するため上京するが、長女の嫁ぎ先の家で病に倒れる。病床で「わしは屯田の兵たちに、北海道の土になれ、わしも北海道の土になると言ってきた。東京で死ぬわけにはいかん。札幌に帰って死ぬのだ」とくりかえし言っていたが、その願いは叶わず1904(明治37)年5月27日に67歳で亡くなった。
遺体は武四郎の意志通り、ひつぎのまま上野から札幌に汽車で運ばれた。
6月2日に札幌で葬儀が行われると、永山邸から豊平橋の沿道に別れを惜しむ長い人垣が続いたという。墓は生前の言葉——「おれの遺体は札幌の豊平墓地に北に向けて葬れ。北海道の土となってロシアから守るであろう」に従い、豊平墓地(現在は里塚霊園に移転)に埋葬された。
武四郎が生前、各地にできた兵村を思って詠んだという句がある。

我ゆかばなでて育みむらむらの
けぶりゆたかにたたまほしけれ

歴代の北海道庁長官で、札幌に自邸と墓があるのは武四郎一人である。

札幌市中央区北2条東6丁目に現存する旧永山武四郎邸。
2018年6月23日にリニューアルオープンの予定

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