もうひとつのブームタウン - 浜益-1

石狩湾東岸、時間旅行

アイヌ民族の英雄ユカが伝わる一帯にあり、ファミリー登山でも人気の独立峰、黄金山

北海道では、まちの誕生自体が記録に残るケースが少なくない。何もない土地に、あるときを境に突然集落が生まれるからだ。きっかけは、ニシンや石炭などの天然資源。しかし一方で、そんなブームタウンとは成り立ちのちがうものもあった。たとえば江戸時代、幕府が東北諸藩に命じた北方警備が生んだまちだ。
谷口雅春-text&photo

悲願をかなえた国道231号

1882(明治15)年に増毛(ましけ・留萌管内)に丸一本間(現・国稀酒造株式会社)の暖簾をあげた本間泰蔵は、とても勤勉なメモ魔だった。本間家から見せていただいたたくさんの手帖には、呉服や日用品などを増毛で売りさばくために欠かせなかった小樽での仕入れにはじまり、清酒の醸造をめぐるさまざまな仕事や、出身地佐渡と越後の縁者にちなむ忘備録などが混じり、さらには北海道をめぐる明治の中央政界の動きがあるかと思えば、小樽の人気芸者の個人的な寸評までがランダムに書かれている。移住者にとっては、陸の交通インフラが未整備の時代。店を離れた仕事はほぼすべて、所有する汽船で石狩湾を渡り、増毛から小樽へ出かけることからはじまっている。
開拓期の北海道の中でも石狩湾東岸は、とりわけ道路とは縁の浅いエリアだった。

札幌が起点の国道231号を進むと石狩以北の海岸線は、波打ち際までが切り立った山裾だ。厚田(石狩市)へは化石ファンが大好きな堆積岩の層が重なり、安瀬(やそすけ)をすぎると、太古の火山がつくった火砕岩の断崖がつづく。浜益(はまます)を越えて雄冬岬のあたりでは、安山岩の見事な柱状節理があらわれるだろう。

海岸線に沿って地層が露出している石狩市厚田区望来。二枚貝の化石がよく見つかる望来層

断崖奇岩は説話のゆりかごでもある。アイヌの代表的な英雄ユカ(韻文で語られる長篇詩曲)である「虎杖丸(いたどりまる)」では、親のない主人公ポイヤウンペは、兄弟の手で高坏(たかつき)を立てたような山、トメサンペツのシヌタプカという土地の山城で育てられた。言語学者金田一京助(1882-1971)は大正中期の論考「アイヌの詩曲について」で、アイヌの信仰ではこのシヌタプカは浜益の黄金山(こがねやま)と摺鉢山のあたりになる、と論考している。有史以前からこの地に、アイヌ民族の濃密な営みがあったことがわかるだろう。

「いつもながらに、シヌタプカ、高坏の立つに、さも似たる、そのなかば迄、そこに霞を、ひきまとひたり」(金田一訳)

浜益に向かう誰の目にも美しく個性的に写る黄金山(739.1m)は、国の名勝ピリカノカ(美しい・形。アイヌ文化にゆかりの深い景勝地)にも指定されている名峰だ。
金田一が大正のはじめに平取で採録したこのユカは、主人公がもつ「虎杖丸」という妖刀の名を題にしている。その刀は、鞘(さや)から塚(つか)や鍔(つば)までびっしりと彫り物があり、鞘(さや)の口元には毛の抜けた夏熊の異様な姿、そして末端にかけては雷の雄神や狼神、雷の雌神が彫られ、ポイヤウンペが危機におちいるといっせいに躍動して彼を助けるという。物語の冒頭で、石狩の首領は呼びかける。
「石狩川河口に出没する黄金のラッコをつかまえた者には、わが妹と宝物を与えよう」。
黄金のラッコとは、なんと心惹かれる北方のモチーフだろうか。物語は、ポイヤウンペがこのラッコを狩ることで大きく駆動する。彼は石狩の首領や沖の国々から来たさまざまな戦士たちと壮絶な死闘をくり広げるが、妖刀虎杖丸の力もあって、激闘のたびに勝利をおさめていく。

札幌・留萌間を海沿いに結ぶ道路計画は1953(昭和28)年に国道に指定されたが、時代が下っても、峨々(がが)たる難所続きの工事はなかなか進まない。そもそも石狩川河口近くに橋がかかったのはようやく1972(昭和47)年の夏で(第1期工事)、それまでは人と車は渡船が運んでいた。国道231号は、国営の渡船のある道だったのだ。
そして最後まで残った浜益村(現・石狩市)の千代志別(ちよしべつ)から雄冬(おふゆ)までの5.5kmが開通したのは、1981(昭和56)年11月10日のこと。当日の北海道新聞の夕刊社会面のトップには、「悲願ここに 住民笑顔」、「孤立の雄冬に“春”」といった見出しが躍っている。陸の孤島と呼ばれ、増毛から一日一便往復する小型フェリーでしか行けなかった雄冬が(しかも荒天が多くすぐ欠航した)、ついに札幌から直行できる土地になった。

しかしなんということか。
翌12月の19日。雄冬トンネルの雄冬側入り口付近(巻出し部)が崖崩れによって激しく崩壊。交通は完全にストップしてしまった。復旧作業に2年をついやし、除雪が届かない冬季の閉鎖が明けて231号が再び全通したのは、1984(昭和59)年5月のことだった。

山がそのまま日本海に入る断崖がつづく国道231号。濃昼(ごきびる)漁港近くの新赤岩トンネル入り口付近

ラッコとロシアが動かした北方の近世史

ユカの時代から昭和晩期までの短い旅をしてみたが、本シリーズのメイン舞台は幕末の石狩湾東岸だ。『浜益村史』や『増毛町史』などをベースに、浜益エリアの地誌をつづけよう。
北東アジア史を俯瞰すれば、石狩湾東岸の歴史を大きく動かしたのは千島列島や樺太へのロシアの進出だった。ヨーロッパの王侯貴族に絶大な人気を誇ったクロテンなどの高級毛皮を求めて17世紀以降、ロシア帝国は国策として北東シベリアを猛烈な勢いで東進した。やがて、のちにオホーツク海の名のいわれとなった海沿い、オホーツクに拠点を構える(北緯59度東経143度)。彼らは北東アジアのいくつもの先住民族を武力で巻き込みながら、そこからカムチャッカ半島や北米大陸、アリューシャン列島へとあくなき前進をつづけたが、そこにはさらに価値を呼ぶ毛皮があった。
前述のユカ「虎杖丸」にも登場する、ラッコだ。
ロシア人たちはアリューシャン列島から海獣猟に長けたアリュート民族を強制移住させて使役したり、北千島のアイヌにもラッコなどの毛皮を税として徴収するようになる。酒やロシア正教も強いて、民族の生活の柄を一方的に変えていった。
彼らはやがて、拠点オホーツクを離れた地での物資の補給や新たな交易を求めて、日本との接触を求めるようになる。ロシア船がカムチャッカ半島から北千島のシムシュ島やパラムシル島に進出したのは1710年代のはじめ。江戸城には徳川家光の孫、6代将軍家宣(いえのぶ)がいたころだ。

他方で、クナシリやエトロフのアイヌが松前藩の交易の網に入り、樺太のアイヌがニヴフらとともに清朝の交易体制に繰り込まれるのが1730年代。1750年代になると松前藩もカラフトやクナシリに交易船を出し、アイヌを通して北東アジアの経済システムに参入していく。そこからは当然、蝦夷地周辺のロシアの動向と直面することになるだろう。定常社会で生まれ育った藩の首脳たちは、大きな変化のきざしが見える時代潮流に危機感を深めていった。
ロシアが中部千島のウルップ島まで南下してアイヌとの接触や摩擦を深める18世紀後半は、こうした北方の動きをいよいよ幕府が察知して懸念するところとなり、「中央」からの本格的な蝦夷地調査がはじまる時代だ。
1799(寛政11)年、幕府は千島から太平洋側の東蝦夷地を松前藩から取り上げて、8年後には日本海側の西蝦夷地も含めた蝦夷地全島を直轄。松前藩を梁川(現・福島県伊達郡)に移封した。津軽海峡をのぞむ蝦夷ヶ島の南西端に位置する小さな松前藩では、北方世界で起きている巨大な潮流に対処できないという判断だ。
その後幸いなことに、ロシアの極東戦略を足踏みさせるナポレオン戦争などヨーロッパの激動もあって、北方の脅威は薄らいでいった。幕府の蝦夷地直轄は1821(文政4)年にいったん終わり、松前藩は、家老であり画家の蠣崎波響らのロビイングの成果もあり、復領となった。

石狩川河口からは、雄冬岬まで石狩湾東岸が一望できる

浜益をめざした、庄内藩の移住団

しかしそれから四半世紀。
大陸では、阿片戦争(1840~42年)以降に列強による清の半植民地化が進み、ペリー艦隊の浦賀来航(1853年)から一気に歴史が動く。幕府はアメリカにつづいてロシアなどとも和親条約を結んで開国を余儀なくされ、箱館にも奉行所を開設して蝦夷地を再直轄。東北諸藩に蝦夷地警固を命じた。蝦夷に新たに領地を与えるから、そこを開拓して自活しながらロシアに備えよ、というわけだ。新領地は魅力だが、なにしろ極寒の未知の土地。農業や漁業はもとより、衣食住のすべてに新たなノウハウが必要だし、先立つ資金や人材の手当ても急務となる。どの藩にとってもそれは厳しい重荷だった。

現在の浜益の地になるハママシケを担ったのは、まず秋田藩。積丹の神威岬から利尻・礼文、知床岬、樺太までの長大な海岸線を担当させられ、元陣屋(拠点)を増毛に置いた。カラフト西海岸南端のシラヌシと、アニワ湾中央のクシュンコタンにも出先を据える。
しかしやがてハママシケの担当は、庄内藩に替えられることになる。1859(安政6)年の秋だ。
この交替には、ロシアのカラフトでの動向が要因となった。1857(安政4)年6月、西蝦夷地の北の延長にあるカラフト西海岸のクシュンナイにロシア軍艦が来航して、兵が上陸した。翌年も再訪して建物を建てはじめる。さらに1859(安政6)年の夏にはロシア東部シベリア総督ムラヴィヨフの艦隊が江戸湾に来航して幕府首脳と会談をもち、カラフトがロシア領であると主張していた。
この事態に幕府はたまらず、1859(安政6)年秋、庄内藩と会津藩も蝦夷地警固に加えることにしたのだった。庄内藩は、秋田藩が担当するマシケを除く、西蝦夷地の歌棄(うたすつ)から天塩(てしお)までの広大な海岸線の警固を担うことになる(会津藩は千島列島への入り口となる現在の標津エリアを担当)。当時の庄内藩は、江戸品川湾五番台場の警備を担当していたが、蝦夷地を優先させるために、そちらの任はさすがに解かれた。
そうして庄内藩は、現在の石狩市浜益区川下に本陣を設け、テシオ、トママイ、ルルモッペ(現・留萌)に脇本陣を据えることになった。

もともと松前藩は石狩湾東岸に、イシカリ、アツタ、マシケという3つの「場所」(アイヌとの交易拠点)を設けていた。1780年代にはマシケ場所を割ってハママシケ場所が設けられたが、18世紀末には再び一体化。伊達林右衛門が交易の経営を請け負った。林右衛門は陸奥の伊達郡出身で、松前に伊達屋という大店(おおだな)を構えていた大商人だ。
庄内藩の役目は兵備と漁業、そして開墾だが、漁業の経営は場所請負人の仕事になる。林右衛門は今度は庄内藩ご用達として、アイヌや出稼ぎの和人を使って漁場を経営することになった。この場所では、春のニシン、秋のサケのほか、ナマコ、アワビ、タラ、マスなどが主要な産物で、作業の人足のために、藩から毎年15俵の米が給与された。

ニシン漁期には和人の出稼ぎ者でふくれあがるが、定住する和人がほとんどいなかったこの時代に、ある日突然、庄内藩の武士と農民、そして職人などがやってきてまちをつくることになった。藩は箱館にも留守役を置き、国元と幕府(箱館奉行所)、そしてハママシケとの調整を行う。
総奉行としてまずこの拝領地の現地調査を行ったのは、亀ケ崎城代家老だった松平舎人(とねり)。日本海の物流拠点、庄内の酒田港を統治する家老松平の調査をもとに、浜益川河口から数百m入ったゆるやかな丘陵に拠点をすえることを決める。それから浜益川から陣屋までのあいだの平坦地に運河を掘って、建設資材をはじめとした、海路からの物資を小舟で運び入れることにした。この運河は、膨大な予算が費やされたために「千両堀」と呼ばれたが、現在も農業用水路として痕跡が残っている。

浜益川から海路の物資を荷揚げするために掘られた運河のあと。現在は豊かな田をうるおす

本陣屋は周囲を木柵で囲み、地形に合わせて南を向いた大手門には門番の営舎があった。柵の内側には、沢を軸にしてその両側に目付や足軽が暮らす長屋が建てられ、全体を一望できるずっと奥の小高い地には、これも南面した総奉行所。その下に元締役の建物や米蔵が設けられた。建物の土台には、庄内鶴岡から花崗岩の丸石が大量に運ばれたという。そして陣地の柵の外には人夫や農民の住まいが建てられていく。
翌1861(文久元)年には、庄内からいよいよたくさんの郷夫や農民、職人が移住してくる。郷夫とは、足軽で永久移住を望む半農半士のこと。また農民だけで農業はできないので、大工や桶屋、瓦職人、葺(ふき)師、壁師、炭焼、石屋、味噌醤油の作り手など、まちを動かすためのたくさんの移民を募った。募集の規模は、計画で総勢1365人。これをルルモッペやトママイにも割り当てるから、ハママシケに移住する者は500人程度だった。
動き出したまちづくり全体を率いたのは、松平舎人を継いで蝦夷地副奉行となった酒井了明(のりあき・1817-1883)。戊辰戦争で勇名をとどろかせることになる、酒井了恒(のりつね・通称玄蕃・げんば)の父だ。庄内藩家老職にあった酒井家は代々玄蕃を名乗ったがとりわけ名高いのが、蝦夷の開拓を担ったこの了明の長子だった。
さてここまでの話で紙幅が尽きてしまった。移住とまちづくりの顛末については、次稿でつづけよう。

庄内藩陣屋研究会の手で今年新たに建て替えられた、「荘内藩ハママシケ陣屋跡・大手門」

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