375年前から続く姥神大神宮渡御祭ものがたり

江差人はなぜ、これほど血が騒ぐのか

(写真提供:江差観光コンベンション協会)

江差人にとって、正月や盆休みより待ち遠しい日がある。
375年の歴史を誇る「姥神大神宮渡御祭」が行われる8月9~11日。
人口約8000人の町に、その3日間は5万人近い熱き思いが集まり、
神輿を担ぎ、13台の山車(やま)を引き、町中を練り歩く。
数知れないエピソードの中から、3人の江差人の渡御祭ものがたりに耳を傾けた。
矢島あづさ-text 伊田行孝-photo

「ただのイベントじゃない。江戸時代から続く祭りなんですよ」

「江差の五月は江戸にもない」とうたわれるように、江戸時代から明治期にかけ、ニシンの漁場として栄えていた江差は、日本海航路を結んだ北前船の交易により、関西・北陸地方などの文化や祭礼の影響を受けている。姥神大神宮渡御祭は、神輿の渡御に町内の山車がお供をし、豊作・豊漁、無病息災を祈念して巡行する。人形や豪華な装飾を施した山車を「だし」ではなく「やま」と呼ぶのは、京都祇園祭の系統をひいているからだ。

江差観光コンベンション協会会長の西海谷(さいかいや)望さんは、その山車に載せる人形を作る人形師の顔を持つ。江差で生まれ育って62年、仕事で5年間故郷を離れたが、幼い頃からずっと渡御祭を見続けてきた。「人口は年々減っている。でも、昔は5台ほどしかなかった山車が、いまは13台に増えている。他の地域では減ったり、無くなっているのに」と笑う。かつては、町内の豪商が京都や大阪の職人に山車を作らせ、自分の店の働き手に引かせていた。現在は、町内会が1台ずつ運営管理している。年間180~190万円の維持費がかかり、改築となると1千万円は超える。それを町内の住民をはじめ、江差出身者やゆかりのある人々が惜しみなく負担するのだから驚きだ。今年は1911(明治44)年に製作された中歌町の山車「蛭子山」が新調され、お披露目される。

「息子が高校生の頃、私と父が作った人形の写真を部屋に飾っていた。ほとんど口はきかなかったけど、自分の誇りが伝わっていたんでしょうね」と西海谷望さん

西海谷さんの父、巌さんは「北龍」の名で、13台あるうちの5体の人形を製作した人形師だ。山車を引く祭りは江差町のほか、福島町、松前町、八雲町熊石、せたな (旧・大成) 町、奥尻町など、渡島・檜山エリアに広がり、巌さんは戦後まもなくから40年間、50体もの人形を製作した。江差で最初に手掛けたのは1947(昭和22)年、上野町の山車「源氏山」の人形「武蔵坊弁慶」である。1985(昭和60)年、福島町の大黒様の完成間近に父が脳梗塞で倒れ、望さんは弟と一緒に仕上げて祭りに間に合わせた。望さんが二代目北龍の名を継いで製作したのは、2004(平成16)年、新地・緑丘・円山町の山車「政宗山」の人形「伊達政宗」である。「財産も何もなかった父だけど、これだけの伝統文化を残してくれたことは、西海谷家の誇り。この渡御祭が続く限り、亡くなってからも、地域の中で父親が生きている。本祭の10日、13台の山車が姥神大神宮の前に集まり、自分と父が作った人形が年に1度並ぶ。この感慨深さは、ちょっと他では味わえないかな」

8月9日は姥神大神宮で「魂入れ」をし、自分の町内を巡行。本祭となる10日は下町を、11日は上町を巡行する。姥神大神宮前に勢揃いする山車の姿は圧巻(写真提供:江差観光コンベンション協会)


江差山車会館の展示ホールには、13台ある山車のうち2台を1年交替で常設展示。今年は初代北龍(西海谷巌)作の人形「武蔵坊弁慶」と「水戸黄門」が見られる


「父が作った人形は、出来る限り自分の手で守っていきたい」と、豊川町の山車「豊栄山」の人形「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」を直す西海谷さん(写真提供:夏原茂樹さん)


観光という視点から、西海谷さんは渡御祭をどのように捉えているのだろう。「都会から来た人が最も感動するのは、山車の豪華さじゃない。夜遅くまで太鼓を叩く子どもたちの真剣な顔や、この祭りにかける江差人の熱い思いなの。江戸時代から受け継がれた町民文化を守っていこうとする意識が強い。これは行政からやらされているイベントではないし、身銭を削ってでも守り育てている祭文化。よく、観光のために俺たちは祭りをやっているわけじゃない、と言われるよ」。それでも、西海谷さんは祭り文化を後世に残すために、観光客の受け入れも必要だと考える。宿泊施設の充実、体験ツアーなどの仕組みづくりも検討している。

 

「江差から出て行っても、祭りには必ず帰って来る若者がいる」

江差の子は、言葉を話せない幼い頃から山車の上に乗せられ、お囃子を子守歌代わりに育つ。歩けるようになると山車を引き、小中学生になれば笛吹きや太鼓打ちに夢中になる。やがて、山車を電線から守る「線取り」に憧れ、成人する頃には山車行列を誘導する「舵取り」を目指す。段階を踏んで世話役となり、最終的には山車の総責任者「頭取」に就きたいと願う。

山車の上で太鼓を叩けるのは小学校3、4年生から。それまでは「ヨーイ、ヨーオイ」「エンヤ、エンヤ」と山車の綱を引く(写真提供:江差観光コンベンション協会)


「なぜ、これほど祭りにのめり込んでしまうのか…」。夏原茂樹さんも、根っからの江差人

姥神大神宮渡御祭は神事だが、各山車をスムーズに運営するための祭典協賛実行委員会がある。その副会長を務める夏原茂樹さんは、小学校に勤務しながら江差の祭りや伝統文化を研究している。江差人が、どれほど祭りに一途なのか、おもしろいエピソードを語ってくれた。「ある高校生が都会での就職試験の面接で、お盆前の夏祭りに休むことができるか質問したそうです。姥神大神宮渡御祭の話をとくとくと説明し、とにかく若いのがいないと山車が動かないので、休みをもらえないかと社長に訴えた。普通は面接で「頑張ります。会社のために働きます」と言うけれど、「休みをください」と言う学生は初めてだと社長は驚いた。自分の故郷のことを、それほど熱く語る若者はまずいないと、迷わず、採用したそうです」。こんなエピソードもある。祭りの最終日、札幌の息子に、せめてお囃子だけでも聞かせたいと電話をした母親がいた。それを耳にした息子は「いまから帰る」と電話を切った。札幌から4時間かけて、祭りが終わる夜11時直前に到着。半纏を羽織り、山車に駆け上り、バチを握って太鼓を力一杯叩き、息子は満足したという。

神輿が神社に帰り宿入れを終える頃、全山車が揃って人々の熱気と歓喜が夜空に渦巻く。クライマックスは、荘重な「キリ声(沖揚音頭)」で締められる(写真提供:江差観光コンベンション協会)

江差の祭りは、小さい子どもから年寄りまで関わる。どの家も訪れた人を接待するため、女たちは酒や料理を用意し、宿(神輿や山車が休憩する場所)の支度に奮闘する。夏原さんは「あまされる(方言:仲間外れにされる)人がいない。すべての人が関わる文化が江差の中にできている」と言う。西海谷さんは「この祭りは、母さんたちの世界、食の文化を伝える場でもある。それぞれの家に昔から伝わる郷土料理を出すわけ。たとえば、この家は煮しめがうまい。あの家はクジラ汁がうまい。漁師の家はやっぱり刺身だぞ、とか。外から来た人は、いろいろ知っている人と一緒に回ること」と、祭りを楽しむコツを教えてくれた。

夏原さんは、NPO法人樹木環境ネットワーク協会の澁澤寿一(しぶさわ・じゅいち)さんの講演を聞いて、腑に落ちたことがある。「江戸時代の人間には、“稼ぎ”と“仕事”があった。稼ぎは、自分たちの生活のために金を稼ぐこと。仕事は、金にはならないけれど、その地域が運営されるために必要な働き。稼ぎと仕事の両方ができて一人前。最大の仕事が、祭りなんじゃないか」。その言葉は、稼げなくて江差を出たとしても、祭りには必ず戻って来る心情を言い当てていた。

 

「外からやってきた大学生も、祭りを経験して変わります」

姥神大神宮渡御祭の起源は、375年ほど前、江差の人々がニシンの大漁を神に感謝したのが始まり。当時の蝦夷地は冷涼で作物が収穫できず、餓死する者も多数出ていた。神宮の創立は、天変地異を事前に知らせることから、折居様と神のように敬われた姥の伝説に由来する。姥神町の津花岬の一角に「折居の御井戸」と称する遺跡がある。折居姥が暮らしていた場所で、姥神社の古社地とされている。姥神大神宮が現社地に移されたのは1644(正保元)年のことだ。

姥神大神宮の絵馬。ある日、白髪の翁のお告げ通りに、与えられた瓶の水を海に注ぐと、江差にニシンが群来(くき)るようになり、人々の飢えを救ったという伝説が描かれている


1774(安永3)年に建てられた姥神大神宮の拝殿。敷地内の奥にある「折居社」には、折居姥の神霊が祀られている


「私は函館出身。もともとはよそ者でした」と遠慮がちに語る大古正平さん


オオフル建築設計事務所の大古正平さんは、姥神大神宮の宮司をサポートする責任役員を務める。函館の建築設計事務所に勤めていたが、江差出身の女性と結婚し、移り住んだのは1981(昭和56)年。妻の実家は4代続く家具店で、そのルーツを紐解くと1907(明治40)年には法華寺のある地域(現・本町)の世話役を務め、山車を購入した時代もあるという。その家業を継がない代わりに、妻の姓を継いで建築設計事務所を開業した。しかし、当初は祭りより仕事を優先。「9日はほとんど出ない。10日は夜の5時から、11日は3時くらいから出たかな。その時間まで普通に仕事をしていたので、ずいぶん文句を言われました(笑)」。子どもが祭りに出るようになって、徐々に町内会と関わりを持つようになり、頭取を務めた経験もある。

2006(平成18)年、神社の責任役員に就いた大古さんは、行列全体の責任者となった。主な仕事は、渡御祭のタイムスケジュールづくり。神社の神輿行列から、それにお供する各町内会の山車行列まで、ルートを定めてきっちり時間通りに進めるように調整しながら組んでいく。「姥神の御霊を神輿に入れて、各町内会にある枝宮を巡行するのが、そもそも渡御祭の目的。この道は神輿が入れないから猿田彦命(神様の道案内役)だけ行かせよう。今年はどの宿で神輿を休ませようか。子どもの体調はどうか。全体を通して細かいことを考えるのが、神社の仕事です」

少子高齢化、人口減少が続く中で、祭り文化を伝えたくても伝えられない危機感はないのだろうか。大古さんは「最近は、神輿を担ぐのは札幌から来る大学生にも担ってもらっている。その窓口も私が担当してきた。たとえば、北海道大学よさこいサークル『テクス&祭人』。函館からは、はこだて未来大学の学生、教育大学の研究室が参加している」と、すかさず答えた。本町や中歌町の山車にも、毎年10~20人ほどの学生たちがやってきて祭りを盛り上げる。いまどきの学生たちは、どんなメリットを感じているのか。担当教授によると「今の学生は自分と同年代とは話せるけれど、違う年代とは話せない子が多い。ところが、世代を超えたコミュニティが成り立っている江差に学生を放り込むと、確実に変化する。社会に出たときに、江差での経験が役に立つ」と言う。そんな中、「地域づくりに関わりたい」と江差町役場に就職した都会の若者も出てきた。

「江差の誇りは、大きくなったら、この町で働きたい! と言う子がいること」と胸をはる。右から西海谷さん、大古さん、夏原さん

姥神大神宮渡御祭

北海道最古の祭りとされる姥神大神宮渡御祭。毎年8月9日は宵宮祭・御霊代奉遷祭、10日は本祭(下町巡行)、11日は本祭(上町巡行)の日程で行われる。3基の神輿のお供をし、宝暦年間(1751~1764年)に製作された「神功山(じんぐうやま)」や舟形の「松寳丸(まつほうまる)」など、由緒ある13台(17町内会)の山車が、それぞれ違う祇園囃子の調べにのって町内を練り歩く。北海道遺産、北海道初の日本遺産に関連する文化財として認定されている。
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江差町役場追分観光課観光係 TEL:0139-52-6716 FAX:0139-52-5666
江差観光コンベンション協会 TEL:0139-52-4815

姥神大神宮
北海道檜山郡江差町姥神町99-1
TEL:0139-52-1900
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江差山車会館・江差追分会館
北海道檜山郡江差町字中歌町193-3
開館時間/9:00~17:00 
定休日/11~3月 月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始 ※4~10月無休
入館料/大人500円、小・中・高生250円 ※15人以上の団体は1割引
TEL:0139-52-0920 
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