江差追分という生き方

「魂の唄」に魅せられて

江差追分会館前に置かれた石には本唄の歌詞が刻まれている

初めて江差追分を「生」で聴いたとき、からだがゾクッと震えた。空気を伝って届く声の質感に圧倒されたからだ。言葉とは違う回路を通って、心の中心へまっすぐに入ってくる、哀調を帯びた独特の唄。江差追分はなぜ、こんなにも人を魅了するのか。なにが特別なのか。追分を極める師匠に教えを請うた。
井上由美-text 伊田行孝-photo

思いがけなく訪れた、江差追分との出合い

江差追分会館で出迎えてくれたのは、正師匠の浅沼春義さんと上席師匠の浅沼和子さんのご夫婦、その弟子である安澤望さん。挨拶もそこそこに、まず江差追分との出合いから尋ねてみた。
「高校で音楽部に入っていたのですが、追分部で部員が足りないというので、頼まれて練習に出たのがきっかけ。指導に来てた師匠に『あんた、追分に合ういい声をしてる』と言われて、その気になって習い始めたんです」と言うのは浅沼和子さん。50年以上、追分を唄い続け、今は上席師匠として後進を育てている。
一方、浅沼春義さんは和子さんと結婚してから追分を始めたそう。「夜に一人で道場に通うのは怖いから」と頼まれ、一緒に行ったのが発端だった。
「師匠に『ちょっと声を出してみなさい』と言われて、よく分からないまま息を切らずに2節まで唄って驚かれた。普通の人はそこまで長く息が続かない、と。声は悪声でも、肺活量なら負けないと思ってね」
それからは夫婦揃って追分に夢中になった。
「寝ても覚めても唄ってました。職場へも『かも〜め〜』と唄いながら出勤する。追分が聞こえると『浅沼が来たな』と分かる(笑)」と春義さん。習い始めて9年目、第15回の江差追分全国大会で、見事優勝を果たした。
和子さんは一足早く第12回の全国大会で準優勝していたが、「和春会」という道場を開き、弟子の指導を始めるにあたって大会出場からは身を引いた。

浅沼春義正師匠。「血が出るほど練習しなさい」という言葉を真に受けて、本当に血が出るまで実践。翌日から声が出なくなり、5年ほど通院した経験があるそう

北前船で海を渡ってきた唄

そもそも江差追分は、江戸時代、信州の中仙道で唄われていた馬子唄がルーツ。越後に伝わった馬子唄が北前船の船頭たちに舟唄として唄われるようになって江差に運ばれてきたといわれている。山の唄が海へ出て、波の音、風の音、蝦夷を行き来した人々の思いが融合し、独特の調べを持つ江差追分が誕生したらしい。
当初は、詰木石節、浜小屋節、新地節の三派の唄い方があったが、1908(明治41)年に「正調江差追分」として統一され、現在のかたちに定着した。前唄・本唄・後唄のうち、江差追分の命とされるのが本唄で、数多くある歌詞の中で最も親しまれているのが「かもめの なく音に ふと目をさまし あれが蝦夷地の 山かいな」というもの。このたった27文字を、2分30秒から2分40秒かけて唄うのが現代の一般的なスタイルである。
「北前船は進むも止まるも風まかせ。危険を覚悟で何日も波に揺られてきた人たちが唄ったのが追分です。ふと目を覚ますとかもめの声がする。かもめが鳴くなら陸は近い。命を落とさずに蝦夷地へたどりつくことができた。そんな安堵の思い、加えて海で亡くなった人たちへの鎮魂の思いも込められているんじゃないでしょうか」
なるほど、和子さんに解説してもらい、唄の背景が少し理解できてきた。
「聞いてもらうと分かる通り、江差追分は同じような音がずっと続くんです。海の上を渡ってきた唄だから、波に揺られているように唄われたんじゃないでしょうか」と和子さん。確かに、耳にするだけで潮の匂いがしてきそう気がする。

浅沼和子上席師匠。女性と子ども専門に追分を教える「萌和会」を主宰するほか、江差追分会館の追分道場の指導員も任されている

ふるさとを離れて分かった、江差追分の魅力

今度は、弟子の安澤望さんにも同じ質問をしてみる。追分と出合ったのはいつですか、と。
「7歳です。昔は鴎島ではいつも追分がスピーカーで流れていて、それを聞いて『かもめ〜を唄いたい』と母親に言ったらしいです。浅沼先生の道場がすぐ近所だったので、母親が練習に連れていってくれたのが始まり」
それにしても、これまでやめずにずっと続けてこられたのはなぜなのか。
「子どもの頃はうまく唄って褒められたいという一心でしたけど。江差を出て函館の高校に進み、そのあと東京の大学に入ると、満足に練習もできないし、自信もなくなって、やめようと思うこともあったんです。でも、あるとき埼玉の一人暮らしの部屋で先生の唄の録音を聞いたら、突然涙がボロボロと出てきて…。鴎島に沈む夕日とか、静かな凪の海とか、江差の情景が次々と浮かんで、泣くつもりがないのに泣いてしまう。あ、これなんだ、人の心を打つというのはこういうことなんだ、と分かったような気がして。そこから本当にやる気スイッチが入りました」
卒業後は江差に戻り、2008(平成20)年、第46回の全国大会で優勝を勝ち取った。追分を始めて21年目、28歳のときだった。

ふだんは中学校の英語の教員をしている安澤望さん。仕事と子育てに加え、時間の許す限り追分の伝承に関わっている

時代と世代を超えて、唄い継がれる江差の文化

江差追分は町民に広く親しまれている。小学校や中学校の授業でも習うし、部活動で取り組む高校もある。安澤さんのお子さんが通う保育園では、週に一度、追分の師匠が来て指導をしてくれるというから本格的だ。「年長の子が唄い、年中の子がソイ掛け(掛け声)をします。うちも兄妹二人、お風呂で唄っていますよ」と安澤さん。子どものうちから郷土の芸能に触れ、自然に体得していける文化があるのは、なんと幸せなことだろう。
「江差ではどこからともなく追分が聞こえてきたりするんですよね。私の実家の隣のおばあちゃんも、私の練習する声が聞こえていたんだと思います。窓ごしに『うめぐなったなぁ』『あじっこ出てきたなぁ』と褒めてくれて。もっとうまくなりたい、と思わせてくれました」
安澤さんの話を聞くと、江差追分が地元でどれほど親しまれているかがよく分かる。でも、江差追分が特別なのは、愛好家が町内だけではなく、全国に広がっているということだ。いま江差追分会は江差本部のほか支部が国内に154、ハワイやブラジルなど海外に5カ所。国内外に3600名ほどの会員がいるというから驚きだ。

江差追分基本譜では、独特の記号で節回しを表現している。本唄27字を7節に区切り、息継ぎなしの7声で唄う

道外へ海外へと広がる、魂の唄

「死ぬまでに3級を取りたい」と、遠方から東京の支部に通う90代のおじいさんがいる。日本語を話せないのに現地で熱心に追分を習うブラジルやハワイの日系2世がいる。こうした熱狂的な愛好家の声に応え、浅沼春義さんと和子さんは指導や格付け審査で全国を飛び回る日々を送っている。
白熱する追分人気を受けて、1982(昭和57)年には町内に江差追分会館も誕生した。それまでは追分の道場といっても師匠の自宅がほとんど。観光客が気軽に追分を聞いたり唄ったりできる場所を用意したいと、町民が屋根瓦一枚分の寄付を募る「ひと瓦運動」で建てた会館だ。御年73歳の春義さんも、ここの100畳敷きホールで定期的に唄っているという。
「ひと月に6〜7回、唄っていても、追分を初めて聞いて『涙が出て止まらない』という観光客の方がまだまだいるんですよ。私が声を出せるのは年齢的にあと5〜6年だとは思っていますが、1回でも多く唄いたいし、追分の唄い手も育てたい」と春義さん。形あるものはいつか壊れて消えてしまう宿命にあるが、江差追分は人の口から口へと伝わり、新しい命を吹き込まれながら、きっと愛され続けていくに違いない。

追分資料室では、明治から昭和にかけて活躍した名人や、全国大会の歴代優勝者の唄を楽しめる


江差追分会館
GWから10月末までは1日3回、百畳敷きのホールで江差追分を実演しているほか、追分道場では誰でも江差追分の指導を受けることができる(10:00〜16:00)。
北海道檜山郡江差町字中歌町193-3
TEL:0139-52-0920
開館時間:9:00〜17:00
休館日:4〜10月は無休、11〜3月は月曜・祝日の翌日・12/31〜1/5
入館料:大人500円、小・中・高生250円

第56回 江差追分全国大会

1963(昭和38)年から始まった江差追分全国大会。全国の支部予選を勝ち抜いてきた約350名が一般、熟年、少年と3つの部に分かれ、日本一を目指して自慢の喉を披露する。
開催日:2018年9月21日〜23日(毎年9月の第3金曜〜日曜に開催)
会場:江差町文化会館

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