刑事と殺人犯と娼婦の人間模様
1947年(昭和22年)9月20日、青函連絡船「層雲丸」が大型台風の影響で沈没し、多くの死傷者が出た。函館警察署は必死になって遺体の身元確認をした。しかし、二体の死体だけ身元が全く分からなかった。
「身元不明の死体について、どう処置したらいいかということをおたずねしているわけです」
「よくわかるな」
とこのとき、函館署長が組んでいた腕をほどいた。
「弓坂君、きみのいうことには一理ある。きみにその二つの死体の身元調査を受けもってもらおう。
(中略)名簿外の死体の処置はあいまいにしておいてはいけないと思うね」
函館署捜査一課の弓坂吉太郎警部補が、この事件の捜査をはじめたところ、同じ時期に起こった、後志管内の岩幌町の大火の時の質屋一家四人殺しの犯人であることがわかった。さらにその後の捜査で犯人は三人組だとわかり、連絡船沈没の混乱に紛れて、小さな漁船を使って津軽海峡を越え、津軽方面へ渡ったことが判明した。弓坂は、犯人の状況を知ると思われる大湊で酌婦をしている杉戸八重に、湯野川温泉(現在のむつ市川内町)で会って事情を聴いてみたが、人違いと判明した。
弓坂は共同湯の入口に来た時、八重が父親の入っている暗がりへ入ろうとするのへ、ぺこりと頭を下げた。
「東京へゆかれたら、元気で働いて下さい」
杉戸八重は警部補の方をふりかえった。
「わたしは嘘をいわなくてよ、刑事さん。嘘をいったって一文のとくにもならないんだから」
八重は、逃げるように東京へと行った。その後の捜査で、八重の証言が嘘とわかり、弓坂は再度事情聴取するために、闇市が立ち並ぶ東京へ行った。しかし、警察に不信感を抱く人が多くて肝心の証言も掴めないまま、八重の行方は全く分からず、函館へ戻る。この間、八重は職を転々とした後、東京の亀戸の置屋「梨花」で娼婦として、世間から隠れるように生きていた。事件は何の進展も見せないまま月日は流れた。しかし1957年(昭和32年)6月の初め、八重は新聞記事にはっとした。
「刑余者更生事業資金に三千万円を寄贈。舞鶴市の篤志家樽見京一郎氏が発起人で、更生施設の新設運動活発化——」
何げない記事であったけれど、八重の目が吸い込まれるようにその記事に落ちたのは、記事の冒頭部に掲げられた二段の縦位置顔写真であった。たしかに、その人物は、犬飼太吉に似ていた。
〈似ている……〉
八重は思わず息を呑んでその写真をみつめた。(中略)しかし、写真は瓜二つといえるほど酷似している。
〈犬飼さんだわ……きっと!〉
この記事がきっかけで、八重は犬飼(樽見の偽名)に十年前の礼を言うため、舞鶴に行く。だが、樽見に口封じに殺される。さらに樽見は、死体の処理を手伝った書生の竹中誠一も殺してしまう。樽見は舞鶴湾に二つの死体を投げ捨て、心中にみせかけた。しかし、事件に疑問を持った舞鶴東警察署の味村時雄警部補が、樽見の身辺捜査を担当。極貧の生活を余儀なくされた樽見の少年時代から、舞鶴の工場の資産状況、北海道での足跡が判明する。逮捕された樽見は、北海道での二つの事件と舞鶴での事件の真相を、函館から駆けつけた弓坂と味村の前で告白する。
本作品は内田吐夢監督により東映で映画化され、1964年(昭和39年)度のキネマ旬報5位にランクインした。テレビドラマは3回、舞台は3回制作された。