小説家の筆が描いたまち。書かれた時代と現在。土地の風土と作家の視座。
「名作」の舞台は、その地を歩く者の眼前に何かを立ちのぼらせるのだろうか。
*この連載は、作家の合田一道氏が主宰するノンフィクション作家養成教室「一道塾」(道新文化センター)が担当しています。
第31回

ひかりごけ(武田泰淳)

あらすじ

小説の取材に羅臼町を訪れた作家が、戦時中に起きた事件を知る。その事件とは、冬の知床沖で軍の徴用船が難破し、船長だけが奇跡的に生還したものだ。しかし、船長は死んだ仲間3人の肉を食べた疑いがもちあがり、裁判にかけられる。前半部は紀行文、後半部は戯曲の構成をとっている。 この小説は、昭和19年に知床半島で実際に起きた「知床食人事件」をモデルにしている。「世界でも唯一」とされる人食を問われた裁判で、船長は死体損壊の罪で懲役1年の実刑判決を受けた。ただし、船長が食べたのは1人だけであり、この作品によって、誤った風評が広がった一面もある。

人間の原罪を問う

坂野 秀久/一道塾塾生

知床半島のつけ根にある羅臼町。世界自然遺産に含まれるが、自然の厳しさも世界遺産級だ。季節を問わず激しい風が打ちつける。まして、真冬は連日の吹雪に、海には流氷が覆いつくす。自然の前では人間は無力であることを思い知らされる地だ。
町の中心部のすぐ近くの切り立った崖にマッカウス洞窟がある。小説の中で、船長、西川、八蔵、五助の4人が避難した場所だ。激しい吹雪で洞窟から出られず、食べ物もない中で、五助が餓死する。船長と西川は五助を食べるが、八蔵にはできなかった。

八蔵 おめえにゃ見えねえだ。おらには、よく見えるだ。
西川 おめえの眼の迷いだべ。
八蔵 うんでねえ。昔からの言い伝えにあるこった。人の肉さ喰ったもんには、首のうしろに光の輪が出るだよ。緑色のな。うッすい、うッすい光の輪が出るだよ。何でもその光はな、ひかりごけつうもんの光に似てるだと。

マッカウス洞窟には、ヒカリゴケというエメラルドグリーンに輝くコケが自生している。
自ら発光するのではなく、薄暗い場所で日光の反射によって輝く。小説の中では、その光が、人食をした者の罪深さを象徴するものとして表現されている。
その後、餓死した八蔵も船長と西川に食べられる。そして、船長は喧嘩の果てに海で自殺しようとした西川を殺害し、その肉も食べて、生還を果たすが、罪に問われることになる。

検事 答えなさい。何ももったいをつけることはない。
船長 私は我慢しています。
検事 何を我慢しているのか。
船長 いろいろのことを我慢しています。
検事 いろいろじゃわからんよ。例えば何を我慢しているのか、遠慮なく言ったらいいじゃないか。
船長 ・・・・・例えば裁判を我慢しています。

船長は法廷で「我慢している」を繰り返し、多くを語ろうとしない。「我慢」こそが、船長にとって最も大事にしている信念なのである。人を食べるという罪を犯しながらも、生きる。それはあたかもわずかな光で輝くヒカリゴケのようでもある。国家のために従事して、生き延びたのに、国家に裁かれる。その不条理を受け入れることが、我慢なのか。船長は「人を食べたこともなく、人に食べられたこともない検事には裁いてもらいたくない。西川、八蔵、五助の3人に裁いてもらいたい」とさえ主張する。

船長 そんな馬鹿なこと。もしそうなら、恐ろしいこってすよ。そんなはずはありません。もっと近くに寄って、私をよく見なくてはいけませんよ。きっと見えるはずですから、いいかげんにすませることはできませんよ。もっと真剣に、見えるようになるまで、見なくてちゃいけませんよ。
(裁判長、検事、傍聴の男女の一部、船長の周囲に集まる。そのむらがる姿、処刑のためゴルゴダの丘に運ばれるキリストを取巻く見物人に似たり。船長の姿、人垣にかくる)
船長 見て下さい。よく私を見て下さい。
(船長を囲む群衆の数増加し、おびただしき光の輪、密集してひしめく)
(「みなさん、見て下さい」の船長の叫びつづくうち、幕しずかに下りる)

船長は自分の首の後の光の輪をみんなに見せようとする。しかし、裁判長も検事も弁護人にも見えない。傍聴人にも見えない。そのうち、人を食べていない全員にも光の輪があることがわかり、物語は終わる。
人は誰でも、罪を背負って生きている。小説・ひかりごけは、人間の原罪にどう向き合えばよいのかを、私たちに問いかけている。

小説の舞台となったマッカウス洞窟


武田泰淳(たけだ・ たいじゅん)

1912-76。東京生まれ。1933年、中国文学研究会を創設。1943年「司馬遷」刊行。人間への鋭い洞察力で、聖と悪を多元的にとらえ、戦後派の代表作家となる。他に代表作として「森と湖のまつり」「富士」「快楽」などがある。
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