北海道の気候風土をいかして、おいしいものを生産したり、
開拓期からの技をいまに伝えたり、世界に誇れるものを生み出したり、
道内各地を放浪して出会った名人たちに、その極意や生き方を聞いてみた。
【時計職人】

「医者のように、生まれた状態を理解して直したい」

vol.20 
石橋時計店 石橋昭市さん/札幌市
91歳の現役時計職人がいると聞いて、真っ先に石橋昭市さんの顔を思い浮かべた。30年ほど前、「まるやまいちば」の一角で時計を修理している姿を覚えていたからだ。時計職人として、どのように昭和、平成、令和と生き抜いてきたのか、終戦直後の札幌の街並みが想像できるほど臨場感あふれる証言を聞くことができた。
矢島あづさ-text 伊田行孝-photo

小学校3年生でベアリングの仕組みを知った

石橋さんの生まれ故郷は、道東の白糠町庶路。夏は農業、冬は山から伐り出した木材を馬橇で運び、荷車を引く「馬追い」の家に生まれ育った。小学校3年生から、ニンジンを砕いたり、寝床のワラを入れ替えたり、馬の世話を手伝っていたが、家業を継ぐつもりは全くなかったという。

今でも忘れられない当時の思い出がある。ある朝、家の木戸を修理することになり、戸車が外され土間に置かれていた。車を回すとカラカラと音がする。気になって仕方がない昭市少年は、大工見習の青年に「どうして音がするの?」と質問した。けれど、答えてもらえない。「教えてくれない」と泣いていると、親方がその戸車を金槌で叩き、分解してくれた。中から小さな球がポロポロと出てきたのを見て、昭市少年はようやく音の正体を知り納得。それは、摩擦を減らして軸を滑らかに回転させるベアリングという仕組みだった。現在も“機械産業の米”と呼ばれるほど重要な部品として、世の中の精密機械、身近なものでは自動車や飛行機、家電や時計などに使われている。

どうして? なぜ? どうやって? 物が生まれる過程を知りたくて、親に内緒で目覚まし時計をバラバラに分解するほど、小学生の頃から機械いじりに興味を持った。やがて釧路工業学校(現・釧路工業高校)機械科に進学したが、「学徒出陣」を鼓舞していた戦時下である。学生らしい日々を過ごすことなく、終戦を迎えた。

「これは3歳頃。昭和2年12月22日生まれで、父親と同じ誕生日。上には姉が2人、初めての男の子だったので木馬を奮発したんでしょうね」と石橋さん

3年半勤めた最初の時計店「札幌精密機械商会」は大通西4丁目にあった。通勤途中、大通公園の聖恩碑前で。札幌での学徒出陣の式典は、ここで行われた

戦後は進駐軍の親子時計も修理した

卒業後、函館どつくに就職が決まっていたのに、敗戦の影響で内定が取り消された石橋さん。先生から札幌精密機械商会の求人を紹介され、飛びついたという。1946(昭和21)年5月、釧路から夜具1組と柳行李のトランクを抱えて夜行列車に乗り、翌朝6時、札幌に到着。「先輩に連れられて会社に行ってみると、2階建ての小さな時計店でした。びっくりしましたね…」と笑う。あの時、精密機械という社名に勘違いしていなければ、時計職人の道を歩むことはなかったという。

当時、腕時計は1カ月の給料では買えないほど高価なもので、ひっきりなしに修理の仕事が入った。特殊な時計も扱う店で技術を身に付けた石橋さんは、豊平館のドイツ製ホールクロック、米国進駐軍の病院の親子時計、気温や積雪量を観測する気象時計、カードに出勤時刻を記録するタイムレコーダーなども手掛けた。「進駐軍の病院は、北1条西6丁目にあった電電公社の建物を接収していたので、電話交換室に親時計があり、電気の配線で48の子時計を動かす仕組みでした。ハロー、アイムウォッチメーカー、クロックメンテナンス…と片言でも英語で話さなければ通用しないわけですよ。あの頃、グランドホテルは進駐軍の食堂として使われ、夏はパンとバターの匂いが街中に広がり、道路を歩きながら腹をすかせたものです」と振り返る。

朝昼晩飯は店で食べ、南1条西9丁目のアパートに兄弟子と3人で暮らした。仕事が終わると大通公園を横切り、庶民的な商店が並ぶ狸小路を通り抜けて帰宅した。酒も飲まず、煙草も吸わず、休日の唯一の楽しみといえば、映画だった。すすきのに洋画ロードショー館「松竹座」があり、ゲイリー・クーパーとイングリット・バーグマン主演の『誰が為に鐘は鳴る』や第二次世界大戦後の米国復員兵が直面する社会問題を描いた『我等の生涯の最良の年』などが忘れられない。

そんな生真面目な石橋さんは、創業者の高木清三さんに目を掛けられた。「僕が入った時はすでに隠居の身でしたが、周囲に誰もいないと、こっそり秘訣を教えてくれました」。たとえば、学生時代から「焼きは鋼。軟鉄には焼きは入らない」と教わってきたが、清三さんは「鉄に焼きが入らないのは、炭素が足りないから。炭素をつけてやればいいんだ」と、釘に味噌を塗って紙で包み、真っ赤になるまで焼いてから水で冷やし、鉄の表面に炭素をつける方法を教えてくれた。「私の職人人生で最初のありがたい出会いでしたね」と懐かしむ。

「人間の鼓動は1分間に60回、時計の秒針は一回りで60秒。ね、人間と時計は似ているのさ」と、いとおしむように修理する石橋さん

さまざまなサイズの芯棒をはじめ、細かい部品を作るときに必要な工具コレットチャック

修理する時計によっては分解して、客にルーペで中を見せながら説明するようにしている

石橋さんは道具も自分で作る。自動巻き時計のゼンマイを巻くワインダーは、廃材を利用して人の動きを再現した

開業して64年、衰えない探究心

その後、石橋さんは南4条西6丁目にあった誠光堂に移り、道庁の地下にあった福利厚生会の売店の一角で時計修理の受付を担当した。「昭和24、25年頃でしたからね。新庁舎はまだできておらず、赤れんが庁舎でした。地下には理髪、洋服直し、食料品などの物販店が並んでいました。修理する時間も場所もありませんでしたから、私の主な仕事は接客。おかげで、その頃知り合ったお客さんが、独立してからも通ってくれました」

自分の店を構えたのは、1955(昭和30)年5月。当時、北1条西24丁目にあった「まるやまいちば」の理事長から声が掛かり、市場に2坪ほどの石橋時計店を開業した。「蓄えもなく、開業なんて全く考えていませんでしたから、資本金はマイナスからのスタートです。兄弟子が保証人になってくれたおかげで、商品は問屋から月末払いで借りることができ、なんとか店を構えられたのです」。市場に来るお客さんは、大半が家庭の主婦。高価な時計はそれほど売れなかったが、夜業するほど修理の仕事が多く繁盛した。

石橋さんの凄いところは、時代に流されない探究心だ。「人間の医者だって、体の構造を覚えてから治療するわけですよね。私たちも時計の構造や作った過程をきちんと知っておくべきだと感じました。何人もの修理の手が入ると、アレンジされて原形がなくなってしまう可能性もあるわけだから」。そこで、アメリカ時計学会「公認高級時計師」の試験を受けるため仲間と一緒に猛勉強し、1960(昭和35)年、大阪まで出かけて6日間の試験を受けた。試験内容を聞いて驚いた。故障した懐中時計や腕時計を直し、サイズの違う芯棒を作る実技、さらに時計の理論に関する学科330問、しかもすべて英文だったという。見事合格したのは、言うまでもない。

やがてクオーツ時計が主流になり、機械式時計の需要が落ち込み、状況は大きく変わった。2010(平成22)年、市場の閉鎖と同時に閉店も考えたが、常連の声に励まされて、すぐ近くで店を続けることを決意した。「私は目で見える仕事をしてきました。芯棒や歯車があって動いていた時計が、いまは電気、ソーラー、マグネットなど、見えないもので動く。餌をやるようにネジを巻き、手術するようにオーバーホールをして、昔の時計は人間が手をかけることで寿命を延ばすことができた」と嘆く。「ただ、どんなに時代が変わっても、親から子へと引き継ぎ、思いを込められるのが時計。だから、職人にとって真理の追究は大切。生まれた状態を理解して直すことを目標にしてほしい」というのが後輩たちへのメッセージだ。

開業して64年、修理に一番困った時計は? の問いに、少し考えて「昔の五番館で店飾りとして使われていたホールクロックでしょうかね」と答えた。現役を終えて何十年も経ったその時計を骨董好きのマニアが、振り子も分銅もなく、外側もボロボロの状態で入手した。「一度はお断りしましたが、東京の輸入元に確認したら、札幌の石橋なら直すかもしれないと紹介された、と泣き落とされましてね。振り子の長さ、分銅の重さをあれこれ試作しながら、2、3カ月かけて修理しました。その方とは今でもずっと、お付き合いしています」。最後に「私にとって、時計は命の恩人」と、91歳の時計職人は顔を輝かせた。

「まるやまいちば」に開業した頃。看板代わりのシンボルにしていた柱時計は、現在の店舗でも正確に時を刻んでいる

時計職人としてルーペをのぞき続けて73年。「はこだて未来大学を出て、うちの職人になり、専門知識を生かして近代時計の修理を消化してくれる」と、若き弟子に感謝している

80年ほど前のドイツ製の置時計の中身。歯車と芯棒を修理し、正確な時報チャイムが鳴るかどうかをテスト中

アメリカ時計学会「公認高級時計師」の証明書。「部品を交換するだけの、歯車の計算もできない職人でいたくなかったから。ここまで勉強したという自信につながった」という


石橋時計店
営業時間/9:30~18:30
定休日/月・木曜日
北海道札幌市中央区大通西23丁目1-14
TEL:011-611-6522

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