小説家の筆が描いたまち。書かれた時代と現在。土地の風土と作家の視座。
「名作」の舞台は、その地を歩く者の眼前に何かを立ちのぼらせるのだろうか。
*この連載は、作家の合田一道氏が主宰するノンフィクション作家養成教室「一道塾」(道新文化センター)が担当しています。
第10回

母(三浦綾子著)

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あらすじ

秋田の小作農家に生まれたセキは7人の子どもを生み育てる。優しく親孝行だった 多喜二は1928(昭和3)年に起きた三・一五事件を題材に『一九二八年三月十五日』を『戦旗』に発表。作品中の特高警察による拷問の描写が、特高警察の憤激を買い、後に拷問死させられる引き金となった。 愛してやまない息子の理不尽な死を乗り越えて生きていくセキ。母と子の愛と慈しみにあふれた物語は、秋田弁で語られていることで、悲しみと優しさをいっそう深く伝えている。

多喜二を生み育て慈しみ抜く

斉藤康子/一道塾塾生

『蟹工船』の作者で、プロレタリア文学の旗手とされる小林多喜二の母セキを描いたこの作品は、セキが亡くなる1カ月前に話を聞いたという設定でのもと、全編やわらかな秋田弁の語り口調で書かれている。

わだしはね、再来年は数えて九十になるんですよ。こったら年寄りが、こうしてみんなに、大事に大事にしてもらってねえ。もったいない話です。これもみんな、多喜二があったら死に方ばしたからかも知れないねえ

セキは1873(明治6)年、秋田県釈迦内村の小作農家に生まれ、わずか16歳で隣村の小林末松に嫁ぎ、7人の子どもをもうける。末松の兄の計らいで一家は小樽に住まいを移し、街の中心部から少し離れた若竹町でパン屋を営みながら細々と生計を立てた。
一家が転居する前にひとりで伯父を頼って小樽に移住していた長男は、12歳で病死する。8歳違下の次男多喜二は、パン工場で住み込みとして働きながら小樽高等商業学校(現小樽商大)へ進学。在学中から文学活動に積極的に親しんだ。
卒業後は北海道拓殖銀行に就職する。多喜二が決まった給料をもらえるようになったことで、一家はやっと金の心配をせずに暮らすことができた。
多喜二は銀行に勤務するかたわらプロレタリア文学に傾倒し多くの作品を発表するが、このことが原因で5年間勤めた銀行を解雇される。

小説に書いていることが問題になったのか、いつだらかつだら特高に尾けられてねえ、銀行にやって来るもんだから、とうとう銀行ば馘になった。…辛かったなあ、あん時は。まじめにまじめにいきているのに。馘になってなんぼか口惜しかったべな。

「母さんはいい母さんだ。体はちんこいけど、心のでっかい母さんだ」と多喜二に言わしめたほど、セキは自分の子どもたちをおおらかに信じ抜き、愛し抜いた。
親を敬い、兄弟を思い、明るく優しい孝行息子だった多喜二は、1933年2月20日非合法組織の同志と会うために都内の路上にいたところを、スパイの通報によって逮捕される。この時、逃げようと走り出した多喜二に向かって、特高は「泥棒!」と叫び、周囲にいた人間が正義感から彼を取り押さえたという。
思想を変えることをあくまでも拒否した彼は1933(昭和8)年2月に特高警察の拷問によって29才の若さで虐殺された。
むごたらしい息子のなきがらに慟哭しながらセキは「あんちゃん、それ、もう一度立たねか、みんなのためにもう一度立たねか」と抱きすがった。

わだしはねえ、なんぼしてもわからんことがあった。多喜二がどれほどの極悪人だからと言って、捕らえていきなり竹刀で殴ったり、千枚通しでももだば(ふとももを)めったやたらに刺し通して、殺していいもんだべか。警察は裁判にもかけないでいきなり殺してもいいもんだべか。これがどうにもわかんない。

読み書きができなかったセキは、豊多摩刑務所に入っていた多喜二に手紙を出したい一心で、57歳になってから独学でいろはから文字を手習いした。愛する息子を理不尽に奪われた母としての悲しみ、怒りを一篇の詩に託している。遺品の中から見つかった鉛筆書きのたどたどしい言葉で書かれたこの詩は、読む者の心を揺さぶってやまない。

あー またこの二月の月か(が)きた
ほんとうに この二月とゆ月(いう月は)いやな月
こいを いパいに(声をいっぱいに)なきたい
どこい(どこに) いても なかれない
あー ても ラチオで(でもラジオで) 
しこし たしかる(少し助かる)
あー なみたか てる(涙が出る)
めかねかくもる(眼鏡がくもる)

多喜二の非業の死を乗り越えてプロテスタントを受洗したセキは共産党に入党し、1961(昭和36)年、波乱に満ちた生涯を小樽で閉じた。
作者の三浦綾子は「明日の食事もままならない貧しさの中でも、多喜二の家庭はあまりに明るく、あまりに優しさに満ちていた」「多喜二の死の惨めさと、キリストの死の惨めさに、共通の悲しみがある」と、あとがきに記している。
多喜二が学校へ行くのに通った地獄坂を上り、小樽商業高校向かいの道を1.5kmほどさらに上った所にある旭展望台には本郷新による文学碑が建てられていて、多喜二の肖像レリーフと彼が友人の妻に宛てた手紙の一部がはめ込まれている。
小樽市街と石狩の海を一望できるこの高台で、多喜二はセキに優しく見守られながら、人々の幸福を今も願い続けているに違いない。
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三浦綾子(みうら・あやこ)

1922-1999。旭川市出身。長い結核の闘病生活の後で受洗し、三浦光世と結婚。1963年に朝日新聞社懸賞小説公募に応募し、『氷点』を投稿し、入選する。『氷点』は71万部のベストセラーを記録し、何度もテレビ化、映画化される。綾子は、その後も度重なる病魔に冒されながら『塩狩峠』『道ありき』『泥流地帯』などを次々と発表。夫の光世の口述筆記に支えられての作家活動だったことはあまりに有名。亡くなるまで旭川を離れることはなかった。
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