シャクシャインの戦いの全貌に迫る
物語は、マコマイ(苫小牧)付近に上陸し、仮小屋で酔い潰れていた鷹師船(たかしぶね)の乗組員が、突然襲われる場面から始まる。
深夜、武装したアイヌ三十人ほどがどこからか現われ、(中略)仮小屋に襲撃を仕掛け(中略)、槍で突いたり栓木(せんのき)の棍棒で殴りつけたりして十二人全員を殺した。
このあとアイヌ達は沖合の船に火を放って立ち去る。これがアイヌ民族史上最大といわれた反松前戦争の発端となった。
この戦いの前、日高地方では二つの部族―シベチャリ川(静内川)の東部に住むメナㇱクル(東の衆)と西部に住むシュムクル(西の衆)―が、生活領域などを巡り対立抗争を繰り返していた。メナㇱクルの首長(シベチャリの総首長)カモクタインがシュムクルの首長(ハエの総首長)オニビシの手勢に殺されると、副首長シャクシャインがあとを継ぎ、寛文8(1668)年4月、オニビシを殺害して勢力を拡大した。
(オニビシは)槍を奪って再び走りだしたものの背後から激しく毒矢を射掛けられ、空堀の底に転落したまま二度と起き上がることはできなかった。
翌年3月、オニビシの姉婿ウトマサ(サルの総首長)は、松前藩の支援を得ようと松前に赴くが、藩庁は両集団に講和を約束させてウトマサを帰した。帰途、ウトマサは病死する。
その直後、シャクシャインは勢力下のコタンの首長らをシベチャリに集め、「松前藩のアイヌに対する仕打ちが目に余り、しかもアイヌを毒酒で皆殺しにすると公言している。全島のアイヌが立ち上がり松前藩を倒すべきだ」と呼びかけ、行動に移る。
シャクシャインの使者はマコマイ、ウス、シズカリから日本海側のスッツ、オタルナイなどにも至り、決起要請に応じて和人の交易船を襲撃するところも出た。まもなく、シべチャリで陣立てが決まり、先発隊をクンヌイに差し向けた。
しかし、鉄砲を備えた多数の松前軍の前に、先発隊はシズカリであえなく敗れた。本隊もエトモから動けず、離脱する集団も出てきた。このため本隊はシベチャリに後退、松前軍は近くのピポクまで進攻する。
シャクシャインは自分が息子一家とともに道東へ立ち去る構想を抱くが、松前藩から和睦交渉を持ち掛けられたあげくに謀略の罠にかかり、ピポクの陣屋付近で取り囲まれる。
「権左衛門、よくも騙したな、汚い手を使いやがって。卑怯だぞ」激昂した彼は姿を見せぬ相手に向かって怒鳴った。(中略)倒れた彼の体は、二度と立ち上がることはなかった。
シャクシャインの死後3年を経て、アイヌの戦いは完全に終息する。
著者は北海道生まれの移民三世だ。子供の頃、アイヌの人びとに対する認識は、漠然としたものだった。しかし、大戦末期に宗谷岬の要塞重砲隊で兵役に就いていた頃、雪の降りしきる海辺でアイヌの兵士がトッカリ(海豹)の死体に縄をかけて、懸命に砂浜へ引き上げようとしている姿を目撃し、不思議な感動を抱いた。
戦後、この体験をモチーフにして『海獣』(三田文学)という短編を書いたが、アイヌ民族のことをもっと知りたいという願望はさらに強まった。まもなく、アイヌ民族抵抗史の頂点をなすシャクシャインの戦いを書こうと決心し、執筆にとりかかった。
その後、資料不足などに悩みながらも平成14(2002)年、出版に漕ぎつけたのだが、その間の心情を「執筆にはかなりの困難がともなった(中略)その大部分は筆者の貧弱な想像力に頼るしかなかった」と吐露している。
激戦地となった国縫川ほとりに最近設置された「シャクシャイン古戦場跡碑」を見ると、350年前の彼らの無念さが伝わってくる。