小説家の筆が描いたまち。書かれた時代と現在。土地の風土と作家の視座。
「名作」の舞台は、その地を歩く者の眼前に何かを立ちのぼらせるのだろうか。
*この連載は、作家の合田一道氏が主宰するノンフィクション作家養成教室「一道塾」(道新文化センター)が担当しています。
第27回

不運な名前(松本清張)

あらすじ

1980年代初頭、月形町にある樺戸行刑資料館(現在の月形樺戸博物館)に、3人の訪問客がやって来た。一人はルポライターの安田。もう一人は福岡の元高校校長の伊田。京都の私立女子大学助教授の神岡。偶然出会った3人は、熊坂長庵の「観音図」の前で、明治時代最大の贋作事件でもある「藤田組贋札事件」の真相にせまる。

明治時代最大の贋作事件と熊坂長庵

大渕 基樹/一道塾塾生

3月末のある雨の日に、安田は樺戸行刑資料館へタクシーでやって来た。資料館の展示物を見ていると、少し経って神岡と伊田も入ってきた。今はなくなったが、当時の資料館では、訪問客のために7分程度の館内放送を流していた。この放送の内容に納得のいかない伊田は、資料館の職員に猛烈な抗議をした。

「やめろ、やめろ。あれほど云ってもわからぬか!」
これは男のナマの怒声であった。
「熊坂長庵先生は、絶対に贋札犯人ではない。立派な教育界の先覚者だ。贋札犯人にさせられたのは無実の罪だ。明治藩閥政府の陰謀だ。あれほど手紙で再三云ってやっているのに、まだこんな嘘をテープで流している。(中略)もう、そのテープから熊坂先生の部分を削れ、改めて吹き込み直せ!」

熊坂長庵が収監されていた樺戸集治監(現在の月形樺戸博物館)

かねてより、独自に贋札事件を推理する安田と熊坂長庵冤罪説を主張する伊田は神岡と三人で、「藤田組贋札事件」のあらましや、当時の薩長の権力闘争をおりこませながら、なぜ熊坂が犯人になったのか、真犯人は誰なのかを、様々な仮説を立てて推理をする。その中で安田は、井上馨(後の初代外務大臣)の次の点に注目する。

「世外井上公伝」(第二巻)によると、(明治)九年十二月に井上はクリスマスの季節を利用してドイツに遊ぶこととし、二十四日にロンドンを発ってベルリンに赴いた。(中略)
井上の伝記には、「青木(周蔵)はその頃独逸の一貴婦人と婚姻を希望して頻りに我が政府と交渉中であったが、公(井上)もそれについて相談を受けた」とあるのみである。しかしこれがドイツにおける井上の全行動になっている。

このドイツでの井上の不可解な行動が疑われたため、井上が贋札事件の黒幕と噂になった。当時の日本の紙幣はドイツのナウマン社の技術力なしでは、印刷できなかった。もちろん、個人で作れるものでもない。閉館まで長い時間かけて3人は事件の真相に迫ったが、これといった確証は得られなかった。しかし、最後に伊田はこのように言った。

「贋札造りの経路がどうあろうと、長庵先生に無関係だという結論に満足します。これまでもそう確信しとりましたが、今日に安田さんのきわめて綿密なご調査による科学的なお話によって、それがますます明確になりました。ありがたいことです。」

それから、ひと月後、安田の元に神岡からの分厚い封筒が送られてきた。なんと、この手紙の中で、安田も伊田も想像もつかなかった事件の真相が語られていたのだ。

松本清張は1980(昭和55)年5月6日に当資料館を訪れた。清張も小説に出てくる伊田と同様、福岡出身である。また、樺戸集治監の初代典獄の月形潔は福岡士族出身である。そのようなことから、清張自身も事件への関心もあり、さらに冤罪説を強く考えていた。不運にも平安時代の野盗熊坂長範と一字違いのために、贋札事件の濡れ衣を着せられた気の毒な人物ということで、この短編小説を通じて熊坂の無罪を訴えたかった模様だ。翌年の2月に「オール讀物」にて発表。しかし、作品発表後も熊坂に対しての無罪を求める再審請求裁判が行われた形跡はない。問題の贋札は日銀に保存されていないばかりか、今後、見つかるかどうか不明である。
熊坂は今も「ニセ札をつくった謎の画家」として紹介されている。獄中で描いた「観音像」の他に「かに」、「ざくろ」、「梅花女人の図」の四点が展示されている。熊坂の収監中より冤罪説が囁かれていたものの、現在も資料館では熊坂長庵を事件の冤罪という認識はない。

藤田組贋札事件で話題となった明治通宝の2円札


松本清張(まつもと・せいちょう)

松本清張 1909(明治42)年―1992(平成4)年。福岡県小倉市(今の北九州市)出身。朝日新聞の広告部に勤めながら、1953(昭和28)年に「或る『小倉日記』伝」にて第28回芥川賞受賞。3年後に退社して本格的に作家活動に入る。「砂の器」、「西郷札」、「ゼロの焦点」、「日本の黒い霧」など推理小説や古代史、昭和史の謎に迫った作品を数多く残す。
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