小説家の筆が描いたまち。書かれた時代と現在。土地の風土と作家の視座。
「名作」の舞台は、その地を歩く者の眼前に何かを立ちのぼらせるのだろうか。
*この連載は、作家の合田一道氏が主宰するノンフィクション作家養成教室「一道塾」(道新文化センター)が担当しています。
第29回

優駿(宮本輝)

あらすじ

北海道の南部、静内町の小牧場に一頭の雄の仔馬が生まれた。馬産地の雄大な自然に育つ漆黒のサラブレッド、オラシオンと競走馬に夢を託す人間たちとの日本ダービー出走に至る3年間を描く。

人生を駆ける

望月 洋那/一道塾塾生

札幌市を南下し海岸に沿う国道235号を東へ進むと、広がる草原に幾頭もの馬の姿を目にする。競走馬の一大生産地日高地方に入り、やがて静内町と三石町が合併した新ひだか町に着く。
著者は、小学生のころ1冊のサラブレッドの児童書を読み、その血統のロマンに強く惹かれた。のちに小説家になると、ギャンブル小説ではなく「サラブレッドという不思議な生き物それ自体を書きたい」と執筆、雑誌の連載を経て1986(昭和61)年に『優駿』を刊行した。物語は、オラシオンを軸として、章ごとに牧場の跡取り渡海博正、馬主で大阪の企業家和具平八郎、その娘久美子、平八郎の秘書多田らの視点で語られていく。
競走馬の長距離レース、ダービーなどは雄が圧倒的に有利とされる。トカイファームでは、博正の父仙造の夢の掛け合わせによる出産が迫り、博正は優れた牡馬の誕生をシベチャリ川に祈った。牧場には、和具親子と多田が滞在していた。博正が大学生で同い年の久美子に話す。

「もうじき生まれる仔馬はねェ、血量が三×四なんだ」
「三×四…?」
「(中略)近親の血量が十八.七十五パーセントの、つまり〈奇跡の血〉って呼ばれる交配ってわけさ」

その日の夜中、無事に誕生した待望の雄の仔馬は、購入した平八郎に委ねられた多田にスペイン語で「祈り」の意味のオラシオンと命名される。馬体には気品が漂い、申し分ない骨格のバランスが表すとおりよく走り、大牧場吉永ファームで育成されデビュー、勝ち鞍を重ねた。博正は、トカイファームを小規模でも日本有数の牧場にしようと夢を抱き、十年単位の目標を立て草づくりから始めるが、まもなく仙造が余命宣告を受ける。一方、和具工業が吸収合併され、社長の平八郎が失脚、平八郎を欺いた形で会社に残った多田は存続の危うい部署に配属される。オラシオンが手に残った平八郎は、廃業する牧場を入手し、共有馬主システムの会社設立を構想する。
オラシオンのダービー出走が決まるが、仙造が亡くなる。葬儀の翌日、平八郎は計画と協力を博正に切り出すのだが、成功のためにはオラシオンのダービー優勝が外せない条件だった…。

彼は、オラシオンが仔馬だったころ、何度も何度も話しかけた言葉を思い出した。
-俺も父ちゃんも、お前が走るダービーを観に行くからな-。(中略)父と一緒にダービーを観に行くということ以外は、すべて現実となりつつあるのに一種の戦慄に似たものを感じた。世の中、そんなに自分の願ったとおりに事が運ぶ筈がない。
「ダービーなんて、もういいじゃねェか」。

オラシオンに乗る奈良五郎は、自己の妬みから発した一言で、ライバル騎手とかつての愛馬の落馬死亡事故を引き起こしたという負い目を抱え、命知らずと言われるほど変貌した。
新緑の5月観衆12万余の府中東京競馬場、23頭立て2400mの大レースを激走し、オラシオンは最初にゴールするも走路に斜行があったと審議されるが入着順で確定、ダービー馬に輝いた。多田が表彰式を見つめる。

〈生産者〉と書かれた台の上に、渡海博正が直立不動で立っていた。(中略)多田の心には、オラシオンが勝っていたか負けていたかについて佐木と話しているときから、あるひとつの想念が生じていた(中略)勝ったのは、トカイファームという静内の小さな牧場の青年だけだ、と。(中略)風の渦巻く夜のトカイファームが心に広がり、人間の深い一念の力にひれ伏した。

著者は、随筆にこう記している。「一頭の競走馬を中心にして、それを取り巻いている人のそれぞれの人生をつづって行くことで、サラブレッドという生き物の不思議な美しさと哀しさをあぶり出せたら」。本書には、平八郎が認知した息子の病死や多田の複雑な生い立ちなども書き込まれ、生命や血を巡る物語としても深みを増している。
人工的に淘汰されてきた生命、美しいサラブレッドの物語が結実した。

町を流れる静内川〈旧 染退川(しべちゃりがわ)〉(新ひだか町提供)

馬産地日高の牧場の風景(新ひだか町提供)


宮本輝(みやもと・てる)

1947~。兵庫県神戸市生まれ。1977年小説家デビュー、翌年『蛍川』で芥川賞を受賞。吉川英治文学賞を受賞した本作は、『優駿-ORACION-』として映画化もされている。2010年紫綬褒章受章。
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