小説家の筆が描いたまち。書かれた時代と現在。土地の風土と作家の視座。
「名作」の舞台は、その地を歩く者の眼前に何かを立ちのぼらせるのだろうか。
*この連載は、作家の合田一道氏が主宰するノンフィクション作家養成教室「一道塾」(道新文化センター)が担当しています。
第30回

花摘む野辺に—夕張追憶(菊地慶一)

あらすじ

本作品は、三部構成からなる。昭和末期から三度にわたる現在までの夕張訪問を通して、日本随一の炭鉱都市と言われた夕張の衰退を、釧路の炭鉱街に暮らしたことのある筆者の視点から見ていく。

炭鉱都市の悲劇と哀愁

大渕 基樹/一道塾塾生

第一部:夕張保険金殺人事件を歩く
1984年(昭和59年)5月5日に夕張で保険金目的の放火殺人で、筆者の幼馴染の大山満(愛称ミイ)が亡くなった。その死をきっかけに、ミイの国民学校高等科(当時)卒業後の人生を知ろうと、夕張での訪問を通して筆者の人生と共に振り返ることにした。この時の訪問は、事件から3年後の1987年(昭和62年)11月初旬。まさに、日本がバブル景気に沸いていた時である。

11月2日。夕張に入ったのは夜であった。(中略)ようやくというほど夕張は遠い所であった。北海道に生まれ育って、全道に足をのばしていたつもりだったが、これまでただの一度も夕張を見たことがなかった。国鉄(当時)があると言っても支線であり、ついでには来られない行き止まりの街であったためか。それだけに夕張というのは、遠い謎めいた場所として私の胸の中にあった。

ミイはアルコール依存症の体で、炭鉱の下請け会社社長の高村康正(仮名)の元で働いていた。そこは、広域暴力団にも関係するフロント企業で、下請けの会社が狙われたために、彼は最初のターゲットになった。

「当日、食堂で一杯会をやれ。(中略)そして、大山のおとうの部屋からやかんを使って火を出せ。おとうの部屋から火を出すことがだめだったら、食堂でもかまわないぞ」
「犠牲者が出てもかまわないですか」
「いるやつは仕方ない」
康政ははっきり言った。

この放火事件で子供を含めた6人と消防士1人の合計7人が死亡し、まもなく犯人の高村夫婦ら3人は逮捕された。高村夫婦に死刑、山川孝(仮名)に無期懲役の判決が確定した。夫婦は札幌拘置所で1997年(平成9年)8月に死刑執行された。

第二部:夕張ルポ
1990年(平成2年)10月初旬に夕張を3年ぶりに訪問した。夕張最後の炭鉱である三菱南大夕張炭鉱が3月27日に閉山。その時の夕張の街のくらしや風景をルポという形で見ていく。

道内では炭鉱の街の面影を残しているのは夕張だけと言っていいだろう。
この夏、定年前に職を辞したわたしは、炭鉱の面影に執着して夕張へ行って見ようと思い立った。わずかひと月だったが、夕張に暮らして出会った人々の片々を書いてみようと思う。

筆者は、「思い出の家」(映画『幸福の黄色いハンカチ』のロケ地)や、「浜松理容院」、「はまなす会館」など、夕張市の日吉地区と宮前町を歩いて回り、そこで暮らしている人々の様子を丹念に取材した。その中で、次の表現は印象的である。

「炭鉱がなくなれが、なんもかんも変わってしまうもんだな」と、つぶやいた。
この一言が、炭鉱の街の今を表している。閉山とはいえ、夕張はなんもかんもかわらないで、何かが少しでも残らなければならないのに。

訪問から17年後の2007年(平成19年)3月6日に夕張市が財政破綻するとは、誰一人想像していなかった。

幸福の黄色いハンカチのロケ地:2014年(平成26年)頃撮影

第三部:鹿が泣く
2015年(平成27年)、三度目の夕張訪問。今回の訪問で筆者は鹿ノ谷にある夕張鹿鳴館に泊まった。ここで、三部作の最後にこのように締めくくった。

すべての炭鉱閉山、いくたびもの坑内事故で地底に閉じ込められたまま、息絶えていった多くの労働者たちの憤怒、夕張の財政破綻の悲劇、夕張を離れざるを得なかった人々の悲哀、そして渡り組夫としての放浪の末、焼き殺された同級生ミイのために。鹿ノ谷の鹿たちは泣いている。

夕張鹿鳴館(旧北炭鹿の谷倶楽部):1913年(大正2年)に建築


菊地慶一(きくち・けいいち)

1932年(昭和7年)~。旭川市出身。終戦直前に釧路で空襲に遭い、オホーツク管内の山村に疎開。同管内の小学校や高等学校に勤める。児童文学や戦後開拓、庶民の記録を発表。主な作品に、「オホーツクの歌」、「語りつぐ北海道空襲」、「街にクジラがいた風景」など。網走市文化賞、北海道新聞文化賞受賞。
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