小説家の筆が描いたまち。書かれた時代と現在。土地の風土と作家の視座。
「名作」の舞台は、その地を歩く者の眼前に何かを立ちのぼらせるのだろうか。
*この連載は、作家の合田一道氏が主宰するノンフィクション作家養成教室「一道塾」(道新文化センター)が担当しています。
第35回

夜明けの雷鳴ー医師高松凌雲(吉村昭)

あらすじ

幕府の奥詰医師高松凌雲(りょううん)は、榎本武揚の率いる幕府脱走軍に参加して渡道。 箱館戦争が始まると、箱館病院頭取として負傷兵の治療に力を尽くす。戦争末期には、脱走軍降伏への仲介役という難しい役割も担った。戦争が終わると、民間での医療活動に専念する一方、「同愛社」を立ち上げ貧民診療に生涯を捧げる。

崇高な博愛精神に生きた生涯

北国諒星/一道塾塾生

函館市内の五稜郭タワー展望台にのぼると、眼下に堀に囲まれた五稜郭跡の優雅な姿を一望に見渡すことができる。しかし、ここはかって幕府脱走軍と新政府軍の血みどろの戦いー箱館戦争が展開された戦場だった。そして戦う兵士たちの後方には、負傷兵の治療に命をかけた医師たちの存在があった。
小説の主人公高松凌雲は、そうした役割を果たした医師のひとりである。凌雲は、筑後国の古飯(ふるえ)村(福岡県小郡(おごおり)市)の庄屋の家に生まれた。長じて医師を志し、江戸の石川桜所(おうしょ)、大坂の緒方洪庵らに師事した。その後、優秀さを認められ、御三卿のひとつである一橋家の専属医師、次いで幕府の奥詰医師に取り立てられた。
慶応3年(1867)には、第2回パリ国際博覧会に派遣される徳川昭武一行の随行医として、フランスへ渡った。博覧会が終わると、パリ市内のオテル・デュウ(神の宿)という病院を兼ねた医学校に留学して、医学を学んだ。そこで見た貧民病院の存在が、凌雲のその後の生き方を左右することになる。

かれは神の館に貧しい者を無料で施療する病院が附属しているのを知り、院内に入ってみた。貧民病院とは言え、建物は壮麗で、医療設備は十分ととのえられ(中略)一般患者と同じように入念に診療し、看護婦たちも優しく接し(中略)一切の経費は(中略)寄附によってまかなわれていて、国からの援助を拒んだ民間人の病院だという。

その後、王政復古、鳥羽伏見の戦い、江戸城開城など、故国の政治情勢が激変したので、凌雲は急きょ帰国する。しかし、幕府はすでに崩壊し、主君徳川慶喜も水戸で謹慎中だった。
このため凌雲は、榎本武揚の率いる幕府脱走軍に参加することを決意し、開陽丸に乗って渡道。箱館戦争が起きると榎本の要請で箱館病院頭取に就任し、負傷兵らを敵味方を問わず治療する。そうしたある日、新政府軍の兵たちが病院に乱入してくる。

門から数人の者が入って来て食堂の外に立ち、叫んだ。
「斬れ、撃て、なにを容赦している」
その声は凌雲の故郷の訛りで、久留米藩兵であるのを知った(中略)
「騒ぐな。ここは病院だ」
凌雲たちをかこむ薩摩隊の者の中から、声が起った。丁髷に白いものがまじった中年の男であった。

この男は薩摩藩士山下喜次郎で、その一声で入院者、従業員らは助かるが、分院(高龍寺)の方では犠牲者が出る。
戦争末期のある日、凌雲は新政府軍(薩摩藩士)の村橋直衛(久成)、池田次郎兵衛の要請を受け、脱走軍幹部に対する和議申し入れを仲介する。この努力は不成功に終わるが、榎本の返書には海律全書2冊が同封され、凌雲から新政府軍海軍提督に贈ってほしい、と書かれていた。
明治2年(1869)5月、箱館戦争が終結すると、凌雲は開拓使などへの仕官を一切断り、東京へ戻って鷺渓(おうけい)病院を創設し、民間での医療活動を始める。のちに地元医師会の会長となった凌雲は、幹事会の席上、貧民病院の創設を提案する。

「わが国にはこのような貧民病院はない。(中略)諸君、一致協力して、かれら貧しい病者を救うため立ち上がり、将来、貧民病院を創設する一大事業を興そうではありませんか」かれの顔は紅潮し、声はふるえを帯びていた。(中略)「賛成」という叫ぶような声が起り、他の者たちからもそれに和する声がつづいた。

凌雲の運動は多くの支援者を得て、明治12年(1879)には「同愛社」を創立し、自らは社長となって運動を牽引していく。
著者の吉村昭は、この小説で高松凌雲の生涯を丹念に描いている。その契機になったのは、『幕府軍艦「回天」始末』という小説を書いた頃で、凌雲や箱館病院の存在に強く心を惹かれたという。この小説に描かれた、強い意志に裏付けされた凌雲の活躍ぶりからは、感動を通り越して、一種、爽快な感じさえ受ける方が多いのではないだろうか。

高松凌雲(市立函館博物館所蔵)

冬の五稜郭(五稜郭タワー(株)提供)


吉村昭(よしむら・あきら)

1927~2006。東京生まれ。学習院大学中退。1966年『星への旅』で太宰治賞。その後、『戦艦武蔵』で記録文学に新境地を開き、この作品や『関東大震災』などで菊池寛賞。以来、証言、史料を周到に取材し、綿密に構成した多彩な記録文学、歴史文学の長編作品を次々と発表。その他代表作に『ふぉん・しいほるとの娘』、『冷たい夏、熱い夏』、『破獄』、『天狗争乱』など。
この記事をシェアする
感想をメールする