札幌の真駒内(まこまない)五輪記念公園に、あるデンマーク人一家の足跡を記念したプレートがある。ここは大正から昭和にかけて、デンマークの農業を実践してみせるためにやってきた、モーテン・ラーセンの農場跡だ。日本にアメリカ式の酪農・畜産を伝えたエドウィン・ダンの仕事に加えて真駒内には、北海道の西洋農業受容の興味深い歴史の断面が見え隠れしている。
日本の青年たちに米国の酪農・畜産技術を情熱的に教えたエドウィン・ダンの実家は、オハイオ州にある1万5千エーカー(6070ヘクタール)もの大牧場だった。現在日本一大きな牧場といわれるのが上士幌町(十勝管内)が運営するナイタイ高原牧場で、広さ1700ヘクタール(東京ドーム358個分)。19世紀の米国の一家族の牧場がいまの北海道の公共牧場の3.5倍以上もあった。規模が約束する効率を徹底的に求めるのが米国流だ。明治政府は和人の移民たちの手で北海道を新たに開拓していくために、そうしたアメリカの技術思想を積極的に取り入れようとした。そのために高給で招かれたホーレス・ケプロンやウィリアム・クラークなどお雇い外国人のリーダーたちは、本州以南とはまったく異なる風土のこの島の農業は、米ではなく小麦を中心にすべきだと主張する。なにしろ当時は米が満足に栽培できないのだから、主食はパンにすべしという考えには理があっただろう。幕末に道南の七重(七飯)でプロシア人ガルトネルが取り組んだような、日本になかった北方作物を西洋の農機具を使って栽培する農業を、さらに米国式にスケールアップしていくこと。この志向が開拓使、そして1886(明治19)年に発足した北海道庁の農業政策を動かしていく。道庁の殖民課が大森林の広がる原野に移民団の入植適地を踏査・選定して、入植者一戸あたり5町歩(約5ヘクタール)を貸しつけていくといった殖民政策が、全道で進められていった。
しかし北海道への移民の主力を担ったのは、戊辰戦争から徳川幕府の終焉、明治新政府の立ち上げという激動の中で居場所を失った旧士族や農民層の、いわば負け組の人々だ。札幌農学校を卒業した若者たちなどが中心になった行政のさまざまな施策や支援があっても、彼らがアメリカ式の大規模農業をすぐに実践できるはずがない。土地の広さもアメリカとは比較にならないではないか。道央から道北、道東へと開墾は進んだが、肥料も満足に使えなかったので、やがて見る間に地力が落ちていった。
大正10年代に入るとこうした事態への手当のために、家族単位の小さな規模で家畜を軸にすえた農業への関心が高まる。牛馬の厩肥(きゅうひ・排泄物と敷きわらとの混合)を肥料として活かし、土壌の微生物の働きと生産物の有機的な循環をうまく結びつけようとする「有畜農業」だ。牛は乳を出す。排泄物がやがて畑の糧になるし、死んでも肉や革に価値がある。お手本はデンマークや北ドイツ。デンマークでは酪農家たちが集まって強い協同組合を産業として動かしていた。
エドウィン・ダンの牧童として働いたあとアメリカで学び札幌で独立した宇都宮仙太郎は、道庁の動きに先駆けて私費で娘婿(出納陽一)をデンマークに調査と実習に送り出した。宇都宮の取り組みは、やがて「北海道製酪販売組合連合会(酪連)」を作り出し、雪印のマークによる乳製品の生産・販売がはじまる。戦後立ち上がる雪印乳業の源流だ。
ときの北海道庁長官は宮尾舜治(当時は内務省が知事を選ぶ官選知事の時代)。若き日にデンマークを視察したこともある官僚で、北海道を離れると、後藤新平の腹心の部下として関東大震災(1923年)に処する帝都復興院副総裁も務めた実力者だから、宇都宮らの考えは十分に理解していた。現場を動かしたのは、東北帝国大学農科大学(1918年から北海道帝国大学)で日本初の畜産製造学を講義して、北大農学部付属農場長などを務めた道庁畜産課課長橋本左五郎だ。
こうして1923(大正12)年、北海道庁は5カ年の契約でデンマークからモーテン・ラーセン一家を招き、彼らは真駒内種畜場内で母国と同じような酪農を営むことになる(エドウィン・ダンが開いた真駒内牧牛場は、1886年北海道庁の発足に伴って真駒内種畜場に組織替えされていた)。場所は冒頭でふれた、現在の真駒内五輪公園の一画だ。『郷土史真駒内』などによれば、15町歩(約15ヘクタール)の未開墾地にデンマーク式の住宅と畜舎が建てられ、農耕馬2頭、乳牛6頭、ブタ20頭、トリ50羽が揃った。そしてプラオ、カルチベーター、ジグザグハロー、ヘーレーキ、種子選別器、播種器など、開拓農家が目を見はるようなヨーロッパ製の農機具が揃えられた。まず牛を飼いながら畑作や養鶏もすることで、自給自足を基盤にする複合経営を成り立たせる。そして地力を増してそれを維持していくために、畑を格段に深く耕して家畜が生み出す堆肥を入れ、イモや豆や複数種の飼料作物を輪作でまわしていく。北海道の風土に合ったこうしたデンマーク流の酪農業の実践は、関係者に大きな刺激を与えた。日曜日は休息日として働かなかったし、住宅の敷地には菜園や果樹園があり、牛乳から生クリームをつくってイチゴにかけて味わうといった生活が、人々を驚かせた。
札幌にはもうひと組、エミール・フェンガーの一家がデンマークから招かれた。琴似村(現・札幌市西区八軒)の北海道農事試験場構内の未開墾地に開かれたその名もデンマーク記念農場で、こちらの広さは5ヘクタールほど(フェンガーは戦後1950年代にも再来日して山形県新庄市で営農指導をしている)。
また同時期、道東の十勝にはドイツから2軒の農家が入った。札幌と同じく道庁との5年契約で、十勝清水にフリードリッヒ・コッホ、帯広にはドイツのヴィルヘルム・グラバウの一家だ。十勝ではビート糖をつくる甜菜(てんさい)の栽培と製糖の産業化のモデルが求められた。前述の宮尾長官には台湾総督府で製糖政策の現場にいたキャリアもあり、この分野ではドイツに学ぶ価値を理解していたのだろう。
戦間期の不安定な経済下で、4家族には十分な報酬が用意され、彼らは先進の農機具と高い技術、そして誇りと情熱をもった仕事ぶりで、草創期の北海道農業に少なからぬ影響を与えたはずだ。しかし宮尾長官のあとを継いだ土岐嘉平道庁長官はこの分野に興味を持たず、ヨーロッパの農家の招聘制度は5年で終わってしまった。
文化人類学者の梅棹忠夫(1920-2010)は1960年代に取り組んだ北海道論(「北海道独立論」)で、日本の近代主義は北海道で独特の展開を見せたと論考している。ほかの土地では近代主義は単なる時代推移の一般的原理にすぎなかったけれど、北海道ではそれが風土と結びつけて理解された。そしてよそでは近代主義は工業化や都市化と結びついたが、北海道では農業と結びついたのだ、と。さらに梅棹は、北海道近代主義の花は酪農であり、伝統の重圧を越えていこうとする進歩的な農民たちの心をとらえたのは、「家族単位の小農経営」「徹底した合理的土地利用」「政府管理による重農政策」「農民の協同組合」といった、デンマーク農業を規範としたものだった、と言う。そして彼は、明治的近代主義の伝統を担う北海道主義者たちは、現代においてはデンマーク主義者として現れている、と主張した。道東の戦後開拓地の農家で、『私は見たデンマーク農業・全4巻(太田正治・日本デーリィマン協会)』といった叢書がふつうに読まれていることに、梅棹は驚愕している。
北海道開拓とデンマークをめぐっては、札幌農学校2期生のキリスト者内村鑑三(1861-1930)の言説も繰り返し引用されてきた。北海道人が大好きな、『後世への最大遺物・デンマルク国の話』などだ。
日本では明治維新のころ。プロイセンとの戦いで肥沃な土地を失ったデンマークでは、「外に失いしものを内にて取り戻さん」のスローガンのもとで、不毛のユトランド半島に水を引き、植樹をしながら豊かな森と牧畜の大地を作り出した。またこのころ、哲学者・詩人・宗教家であるニコライ・F・グルントヴィーは、国家を担うのは民衆である強い個としての農民であり、農民が主体的に社会を動かすためには生きた教育が必要だとして、各地の田園から「国民高等学校(フォルケホイスコーレ)」の運動を起こしていた。これらは大正デモクラシーを背景にして日本の教育者たちを強くひきつけ、このデンマーク興国の精神を基盤に据えた学校が全国に誕生した。北海道では、現在の酪農学園大学につながる運動もそのひとつだ。デンマーク人モーテン・ラーセンらの北海道での取り組みの背景には、内外のこうした潮流があった。札幌農学校の流れとはちがうもうひとつのエヴァンジェリスト(伝道者)たちの仕事について、これからもっと知りたいと思う。