1907(明治40)年の8月10日、のちの文豪有島武郎(1878-1923)は、父である武(たけし)のお供で、小樽から汽船で増毛(ましけ)を目ざしていた。29歳の夏。札幌農学校を19期生として卒業後、4年あまりにわたるアメリカとヨーロッパでの学びを終えて、武郎はその春に帰国していた。翌年には札幌農学校が改組されて東北帝国大学農科大学となり、彼は同大予科の英語教師として働きはじめることになる。この旅はそのあいだの出来事だ。
小樽を出港した船は、日本郵船の釧路丸(1075トン)。日記(『有島武郎全集11巻』)によれば午前4時に小樽を発って、増毛についたのは朝8時。父に同行していたのは、時の内務大臣原敬を筆頭に、北海道庁長官河島醇、安東警視総監(※安楽兼道のことか?)、高岡(※内務官僚高岡直吉か?)、広井(勇東京帝国大学教授・土木工学)というVIPぞろいだった。
到着すると市中を見物したが、有島は「戸数約二千ト称セラル」と書いている。しかし昼には釧路丸ですぐ発って、留萌に向かった。旅の目的は、地元の請願を受けた、留萌港築港計画の視察だったのだ。留萌に着いた一行は蒸気船に引かれて留萌川を1里半ほどさかのぼり、小さな寺のある山腹で降りて河口全域を遠望した。有島は、「市街地ノ地形ハ増毛ニ比スレバ甚(はなは)ダ広闊(こうかつ※「開けて」の意味)」、川の水運の便も良いと書いている。この視察でゴーサインが出たのだろう。留萌港は北海道第1期拓殖計画の中で、国費で建設が進められることになる。
一行は河口にもどって宿に荷を解いたが、疲れ切っているにもかかわらず風呂にも入れず、隣室には青ざめた病人が寝ていた。おまけに蚊とノミに攻められて2時間しか眠れないままに朝4時半に出発。トラックで内陸に入り大和田炭鉱(留萌炭田)を見てから北竜をめざした。大臣や道庁長官、高級官僚、帝大教授一行の視察としてはなんとも苛酷な道行きだ。
この夏の有島は、社会的にはまだ何者でもない青年だった。ヨーロッパから春に帰国すると父と母は思いのほか歳を取り、渡米前に知り合い心引かれた女性(師である新渡戸稲造の姪)との結婚は父に許してもらえなかった。留萌への旅を終えて滝川から鉄路で札幌に戻ると、母校札幌農学校を訪ね、学友たちと旧交を温める。そして盆過ぎには母も東京から来札して、家族で狩太(現・ニセコ町)の有島農場に向かった。父の武が所有するこの大農場の経営基盤ができた時期。武郎はやがて農場を引き継ぐことになるので、その準備のためだった。そして翌1908(明治41)年の1月から、有島は東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)予科の英語教師として札幌の人となる。
有島武郎の父である有島武は、鹿児島の川内(せんだい)出身の旧薩摩藩士。もとは下級武士(郷士)だが、明治の世に大蔵官僚としてヨーロッパにも赴任して、やがて関税局長や国債局長を歴任したのち、実業界に転じた。十五銀行や日本鉄道の取締役を務めたが、明治30年代にはニセコ(後志管内)に広大な土地の貸し下げを受け、優秀な管理人(吉川銀之丞)と多くの小作人を使って開墾に成功。450ヘクタール(約136万坪)もの農場を無償で付与された。有島武は不在地主として広大な農場のオーナーとなる。これが先にふれた、いまもニセコの地名に残る有島農場だ。ニセコエリアでは曽我、宮田、 藤山、近藤、樺山といった地名があるが、これらもかつての不在地主にちなむ名だ。
背景には、1897(明治30)年に公布された北海道国有未開地処分法という法律があった。これは、北海道の内陸開拓を進めるために資本家たちに大面積をただで貸し下げて、期限内に開墾できた者には無償で与えるという、なんとも大盤振る舞いの法律だ。「中央」から一方的に見れば北海道の大部分はまだ無主の地だから、道内各地でおびただしい数の不在地主が生まれ(そのぶん自作農は減り)、投機をねらうだけの開墾もはびこった。地主と小作という「持てる者と持たざる者」をめぐる主題は、やがて武郎を有島農場の解放(1922年)へと動かしていくことになる。
ニセコに樺山の名を残す樺山資英(すけひで)は、薩摩出身の官僚でのちの貴族院議員だ。この旅の一行を見れば、道庁長官河島醇も薩摩人。外務省、大蔵省のエリート官僚で、ドイツ仕込みの財政家などという枕詞がつく人物。河島は前任の、同じく旧薩摩藩士園田安賢長官の時代に、北海道国有未開地処分法などでゆるんだ綱紀と財政を引き締めろと、内務大臣原敬の期待を担っていた。また日記での安東警視総監が安楽(あんらく)兼道だとすれば(その期の警視総監は安楽)、安楽も薩摩の人。留萌行きは、同郷で大蔵省の先輩でもあった有島武が、内務大臣原敬に予算を認めさせたい後輩河島醇道庁長官のために、骨を折って視察をサポートしたのだろう。広井勇は土佐の人で、この中で南部(岩手)出身の原敬だけが、戊辰戦争での佐幕派(幕府側)だ。
北海道の明治時代。とくに開拓使のころ(1869-1882)は黒田清隆や永山武四郎などを軸にした薩摩閥が北海道の行政を動かしていた。1871(明治4)年に30歳で開拓使長官となった黒田は、73年(明治6)年の屯田兵制導入によって陸軍中将と明治政府の参議を兼任。行政、軍事、警察、司法の長となり、さながら、近代日本の最初の植民地である北海道の総督だった。一方でその反動勢力がのちの国会開設や欽定憲法の制定へと歴史の歯車を回していくのだが、そもそも江戸時代から蝦夷地のコンブは薩摩を通して沖縄から清に渡っていたし、北方の情報にも明るかった第28代藩主島津斉彬(1809-1858)は、蝦夷地開拓に並々ならぬ関心を持っていたことで知られる。
有島ら一行が増毛を歩いた20日あと。今度は仏教哲学者井上円了(1858-1919)が同じように汽船で増毛にやって来た。なんといっても増毛は道北への玄関口なのだ。円了は越後の人(現・長岡市出身)。東洋大学の前身となる私立学校「哲学館」を立ち上げたが、そこに専門科を設けるために、理念を訴えて寄付をつのるための講演を明治20年代からはじめた。この時期は学校から身を引いたあとの、3度目の長い行脚(あんぎゃ)だった。
ちなみに有島が『生まれ出づる悩み』で描いた岩内の画家木田金次郎(1893-1962)は、この少しあとの1909(明治42)年、井上が19世紀末に開いた京北中学(現・東洋大学京北中学高等学校)に学んでいる(開成中学から編入学)。家業が傾いたので翌秋には中退して岩内への帰郷に追い込まれるのだが、木田はこの京北中学時代に本格的に絵に取り組むようになったのだった。
1907(明治40)年8月31日の朝9時、井上円了は増毛に上陸。小樽港を出たのは前日の夜で、彼は日記(『館主巡回日記』)に、「当地は支庁所在地にして、天塩国第一の都会なり」と書いている。3日間で、潤澄寺で3回、小学校で1回、850人に対して講話を行った。それから馬車を使い、留萌に入る。日記には、「留萌は新開の市街なるも、鉄路の予定地なりとてにわかに繁盛の状を現ぜり」とある。
円了はどんな話をしたのだろう。『館主巡回日記』に内容までは書いていないが、その3年前にまとめられた『円了講話集』(鴻盟社)を見ると想像はできる。「極楽論」「禁酒論」「余が観たる英国」「天狗の起源」「日本人の特性を論ず」といった題目が並び、世界の列強と伍していく一等国をめざす日本人に必要な精神を、わかりやすく老若男女に広く呼びかけていたようだ。円了は仏教を近代思想としてとらえなおすことに生涯取り組んだが、講話の旅では、難しい理論を一方的に説教したわけではない。だからこそ人々は集まったのだ。
円了は留萌には鉄道が来ると書いているが、たしかに深川から留萌に鉄路が開通したのは、講話の3年後の1910(明治43)年だ。1897(明治30)年に北海道に支庁制度が敷かれたとき、天塩の中心である増毛に増毛支庁が置かれた。しかし支庁は1914(大正3)年には留萌に移り、支庁名も留萌支庁と変えられてしまう。有島が日記に残したように、留萌には増毛にない広い平地があった。ニシン漁の繁栄をもとに発展を重ねてきた増毛と、新興の留萌のライバル関係は、いまも増毛の人々の心に複雑な影を落としている。
円了は留萌に3泊したが、このとき函館大火のニュースがまちに入った。「その悲惨の情、実に人心をして寒からしむ」。そのあと馬で鬼鹿(現・小平町)、苫前、そこから利尻山を望みながら海岸を進んで羽幌に入った。羽幌では劇場と小学校で講話を行い、ここでも大盛況。そこから有志の厚意で汽船増毛丸(140トン)を借り切って焼尻島に向かう。増毛丸は、丸一本間(現・国稀酒造)の持ち船だ。上陸すると円了は、全島に樹木がないことに驚いた。小学校で話を終えると、夜半に日本郵船の日高丸(735トン)に乗り込んで、今度は利尻島の鬼脇へ。
円了は、焼尻と天売は兄弟で、利尻島と礼文島は姉妹のようだと述懐している。焼尻、天売には山も森もないのに対して、利尻と礼文には自然があって「風景を有す」。
円了は印象として焼尻にはひと株の樹木もないと書いたが、中央部にはのちに天然記念物に指定されるオンコの自然林があった。江戸時代後期、焼尻島と天売島に和人が渡ったのはもちろんニシン漁のためだった。和人の定住は焼尻島の方が古いが、ニシンを煮上げて肥料の〆粕(連載1参照)を作るために、島の森は片っ端から伐られて燃料になった。明治10年代前半には早くも伐採が禁じられたが、盗伐もあり、明治半ばには焼尻の樹木の大半は失われてしまう。天売島に和人が定住するようになったのは明治10年代。焼尻が禁伐となったのでそのぶん天売の森が伐られた。1884(明治17)年ころには大部分の樹は伐られ、1886年の山火事が森の息の根を止めてしまった。両島とも植林が試みられたが強い潮風にはばまれ、裸地状態の天売島で森づくりの成果が形になってきたのは、昭和40年代以降のことにすぎない。動物学者犬飼哲夫は1970年代のインタビュー集で、焼尻に入った中心は秋田衆(男鹿半島の戸賀)で、ふるさとの佐竹藩は森を大事にする伝統があったので山を大事にしたと言っている。一方で天売は山形衆。水田地帯で山のことを深く知らないので、百年たってその差が大きく現れたという(『わたしの北海道』)。
利尻島で円了は、小学校で講話すると馬で鷲泊(わしどまり)に入って劇場でも一席。この日は風雨が激しく、帆船数隻が遭難して50人以上もの溺死者が出てしまった。会も中止となる。人々は現在よりもはるかに苛烈に、海と向き合う日常に翻弄されていた。
はじめに増毛に入ったのは8月31日だったが、ここまで10日あまり。9月12日に礼文島の香深に渡る予定だったが波浪が高く船は出せない。仙法志の小学校で演説すると、利尻島を一周したことになった。14日の早朝は日高丸で礼文島香深を経由して稚内へ。稚内では劇場や小学校、寺院で計4回講じた。天候が不順で二日以上足止めを喰ったが、21日には釧路丸が入港したので、乗り込んで宗谷岬をまわり、オホーツク海沿岸の枝幸をめざした。この釧路丸は、有島らも乗った船だ。そのあとは紋別、網走、根室、釧路と道東に入っている。日記によれば、この北海道の旅で61町村115カ所で206回の講話を行い、聴衆は4万1千人を超える。
たくさんありすぎて増毛に来る前の旅程は省いたが、小樽から増毛に入る前に円了らは、函館から寿都や岩内、小樽、軽川(現・札幌の手稲)で講話をして、さらに小樽から日本郵船の上川丸(1464トン)を使って樺太に4日間渡り、大泊(おおどまり・現コルサコフ)などで講話会を開いていた。その気力体力は計り知れない。
円了らが増毛から焼尻に向かうのに使った増毛丸が、丸一本間(現・国稀酒造)の所有船だったことは述べた。この船はまた、丸一本間の創業者本間泰蔵の出身地佐渡と増毛を往復したし、道庁指定の「移民乗船船賃割引船」でもあった。これは北海道への移民は運賃(荷物分含む)が半分ですむ割引で、増毛丸は越後や佐渡からの移民をさぞやたくさん運んだことだろう。
北海道史で1907(明治40)年はまず、先にふれた函館大火で知られる(8月25日)。弥生小学校の代用教員の職を得ながら函館日日新聞社でも筆を取っていた石川啄木を、「奥地」の札幌に追いやることになった大火事だ。
しかし大きくとらえれば、この年には北海道が新たな時代に入ったような希望や活気が見えかくれする。9月には北海道を東西に分ける狩勝峠を鉄路が越えて、函館・札幌・旭川・帯広・釧路がついに鉄路で結ばれた。また北海道炭礦汽船(北炭)と英国の二つの兵器会社の共同出資で室蘭に日本製鋼所が設立されたのもこの年(室蘭製鉄所はその2年後)。日露戦争の勝利(1905年)を受けて日ロ間に漁業協約が結ばれ、北洋漁業が本格的にはじまったし、樺太に樺太庁が設置されて、大泊に本庁が置かれたのも1907年だ。円了の樺太行きはこの機を狙ったもので、以後日本海を北上して、樺太にたくさんの日本人が渡ることになる。日本がいよいよ欧米列強を勢いよく追いかける時代がはじまり、国力の増進とともに北への移民も活発化。北海道の人口は1905年からの10年間で71万9千人も増えている(1915年の北海道人口は191万1千人)。
有島青年が父たちのお供で増毛にやって来たころ、陽の当たる場所を見れば北海道もまた伸び盛りの青年だった。いよいよ近代的な港作りがはじまる留萌の人々の心には光が満ちていただろう。一方で壮年の井上円了は驚異的なペースで町や村落をまわったが、人々には、衣食足りて精神の糧を求める余裕や思いがあったのだと思う。なにしろ61の町村で、日記によれば4万1千人もの動員があったのだ。まだ何者でもなかった有島の旅を入り口にすると、日本がロシアに勝利した明治の終盤、希望にあふれた北海道の青春時代の一断面が見えてくる。