守分寿男とその時代-4

守分寿男をどのように引き継ぐか

大正前期に作られていた、札幌のリンゴ園の絵はがき。かつてリンゴの開花は、道都に春を告げる風物詩だった(札幌市公文書館所蔵)

草創期のテレビの世界に飛び込み、北海道をテーマにした数々の名作テレビドラマを世に送り出した、北海道放送(HBC)の演出家守分寿男(1934-2010)。守分が考え、残したことは、これからの北海道にどんな意味をもつだろう。
谷口雅春-text

補助線としての作曲家伊福部昭

守分寿男らがテレビの草創期に、全国を見すえて質の高い仕事を次々になしえたのにはどんな要因が考えられるだろうか。直接の関わりはないのだが、似たような事象として戦前の札幌の音楽史を並べてみたくなる。

北海道の釧路出身の伊福部昭(1914-2006)は、映画「ゴジラ」の音楽の作者としても知られる作曲家だ。北海道帝国大学農学部林学実科を卒業後、戦前は帝室林野管理局の森林官を務め、戦後は東京音楽学校(1949年より東京藝術大学)の作曲科で指導に当たりながら作曲活動に取り組んだ。教え子には芥川也⼨志、黛敏郎、⽯井眞⽊、⽮代秋雄といった、日本の戦後音楽史に輝く名前が並ぶ。
伊福部は1935(昭和10)年、管弦楽曲「⽇本狂詩曲」でチェレプニン作曲コンクール第一位を獲得。作品は翌年にアメリカのボストンで初演される。このコンクールは、ロシアのピアニストで作曲家のアレクサンドル・チェレプニンが、革命後に亡命していたパリで、日本の作曲家たちの作品を積極的にヨーロッパに紹介しようと行われたもの。チェレプニンには、ヨーロッパ音楽の伝統に東洋から新しい刺激を掛け合わせようという狙いがあった。この時期、オーストリア帝国出身の巨匠指揮者・作曲家のワインガルトナーが同じ主旨で行ったワインガルトナー賞の第一位も、伊福部の友人でありライバルの早坂文雄が獲得する。のちに黒澤明映画の音楽を担うことになる早坂は当別小学校(石狩管内)の代用教員で、才能豊かではあるがまだ貧しい青年だった。当時の札幌に音楽の専門教育機関などあるはずもなく、ふたりは独学。ここに札幌第二中学校(現・札幌西高校)同期の三浦淳史(のちに音楽評論家)が加わり、20歳そこそこの三人は、新音楽連盟という組織を立ち上げていた。彼らが、ストラヴィンスキーやラヴェル、サティといった同時代の最先端にいる作曲家の作品を果敢に取り上げる演奏会を今井記念館などで開いた、といった挿話は、札幌の文化史で名高い一節になっている。商都小樽の文化力に、官のまち札幌がようやく追いつこうとしていた時代。西洋音楽に関する情報や演奏家や人脈が十分に揃った東京ではなく、「北辺」の植民都市からこうした受賞者が出たことはとても興味深い。日本の音楽界がまだ揺籃(ようらん)期だったことがポイントだ。「中央」からの距離がいまほどハンデにはならなかったのだろう。

考古学者瀬川拓郎は『アイヌ学入門』の冒頭で、音楽評論家片山杜秀の論考を引きながら、伊福部昭にふれている。近代スペインの作曲家マヌエル・デ・ファリャに惹かれた伊福部は、ファリャの音楽の魅力は、フランス音楽を規範にしながら自身の出自であるスペインの要素を掛け合わせたことにあると感じた。瀬川はその発想の根には、伊福部とアイヌ民族との交わりがあったという。父が音更村(十勝管内)の村長だった伊福部は、大正期の子ども時代にアイヌ・コタン(集落)によく出入りしていた。言葉から衣食住まで、自分たちと大きく異なる文化をもつ人々の存在が、のちの伊福部の音楽の糧になっていく。一方で瀬川は、伊福部の交響曲『シンフォニア・タプカーラ』(1954年)の第三楽章にあるタプカラというアイヌ舞踊のリズムについて、これはもともと、10世紀ころにアイヌが日本の陰陽道の反閇(へんばい)という行進の呪術と接触したことに由来すると論じて、議論を起こしている。ことほどさように人間の営みは混じり合い、ゆっくりと変容を重ねていく。

伊福部らが、自らの興味や創意のままに進むことが期せずして日本の音楽シーンの先頭グループに入ることだった、といういきさつ。これは、テレビの揺籃期に現場に飛び込んだ守分寿男らの、全国に向けて訴求した高いレベルの仕事に通じるだろう。そしてさらに重要なのは、どちらも創作の根底には、自らが暮らす土地の固有の歴史風土をさぐりながら、それを内向きに固めていくのではなく、外へと積極的に開いていく志向を強くもっていたことだ。そのスタートには、自分たちは何者なのか、自分たちが暮らすこの土地ははたしてどんな土地なのか、という根源的な問い立てがあった。

日中合作ドラマ「林檎の木の下で」のロケハン中の守分寿男(右)。となりは脚本家岩間芳樹。後ろの右端に長沼修さんが見える。1988年11月(写真提供:長沼修)

「林檎の木の下で」が作られた1989年

もうひとつ、これも直接にはつながらないのだが、音楽のことから守分寿男の仕事に近づいてみたい。
札幌の夏の音楽シーンを飾る代表的な存在が、レナード・バーンスタイン(1918-1990)が1990年に創設した「PMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)札幌」だ。オーディションを通った才能豊かな若い楽徒が世界から集まってオーケストラを編成して、超一流の講師陣からひと夏の指導を受ける。その成果を市民に贈るのが、Kitara(札幌コンサートホール)を中心に開かれるたくさんの演奏会だ。今年で30回目を迎えるこの大きなフェスティバルの札幌での開催に、中国の天安門事件(1989年6月)が深く関わっていたことは、一部の人々にはよく知られた話になっている。
天安門事件とは、国の民主化を求めて集まった学生や市民のデモ隊に向けて中国人民解放軍が武力をふるい、多数の死傷者を出して世界を驚かせた事件だが、その波紋で開催地が北京から札幌へと変更になったのだ。多様な出自や個性をもつ世界の若者が、オーケストラを組んでひとつの音楽(平和)を奏でるというPMFの主旨に武力弾圧ほど真逆のものはない。バーンスタインらは、基盤の準備があらかた終わっていたこの教育音楽祭を、開催地を変えて開催したのだった。

前回の稿で、守分らが1972年2月の札幌オリンピック開催直前に制作したドラマ「風船のあがる時」にふれた。そんなあわただしいタイミングでよくぞあそこまで完成度の高い仕事をしたものだと感嘆するのだが、守分は同じように、この天安門事件に遭遇しながら、見事に上質な長編テレビドラマを完成させている。
1980年代後半、中国のリーダー胡耀邦は改革開放路線を進め、これに反対する勢力とのあいだで緊張が高まっていた。ほどなくして胡は失脚。そして死去してしまう。このことがもとで事件は起こった。
一方でこのころ、友好が深まる日中関係を背景に、北海道放送(HBC)と瀋陽の遼寧電視台が姉妹局の提携を結び、共同でドラマを作ることになった。それが東芝日曜劇場スペシャルの前後編からなる大作、「林檎の木の下で」だ(日本では1989年7月30日、8月6日放映)。プロデューサーは長沼修、脚本岩間芳樹、演出守分寿男。出演者には、倍賞美津子、佐藤B作、滝澤修、中国からは劉紹華、といった名前が並ぶ。
音楽は、「うちのホンカン」シリーズなど守分作品との関わりも深い廣瀬量平。函館生まれで北海道大学で学んだのちに東京藝術大学に進んだ廣瀬は、伊福部昭や早坂文雄のひと世代後輩となる北海道出身の代表的な作曲家だ。

守分のエッセイ集『北は、ふぶき』からこの作品について説明しよう。
守分は、1980年代はじめから社会問題になっていた中国残留邦人を主人公にして、中国東北部、旧満州にある農村(熊岳鎮・ユウガクチン)のリンゴの花の盛りを背景にドラマを作ることを構想した。戦時中の熊岳鎮には北海道大学の農業試験場があり、南満州鉄道の委託を受けて枕木の研究が進められていた。研究者たちは同時に、北海道に似たこの土地の気候風土がリンゴ栽培に適していると研究を深め、札幌から苗木を取り寄せて移植した。それがいまや、広大なリンゴ園をなしているのだった。明治初頭、開拓使はお雇い外国人の園芸技師ルイス・ベーマーの主導でリンゴやワイン用ブドウの栽培に力を入れ、札幌は日本のリンゴ栽培の中心地のひとつになった歴史がある。

ドラマの主人公は、第二次世界大戦末期にソ連軍の侵攻で日本へ帰国できず、10歳のときに中国大陸に残されたまま大人になった男。その数年前。彼をどうしても連れて帰ることができなかった父(滝澤修)は、39年のときを経て痛切な思いではるばる息子を訪ねた。しかし面会は無残にもきっぱりと拒絶される。リンゴ農園を成功させた息子にとって、両親と国家に捨てられた絶望感や父への憎しみこそが、生きていく原動力になっていたのだ。ドラマは、自分に兄がいて、彼が中国にいることを父の死後はじめて知ることになった娘(倍賞千恵子)が、熊岳鎮を訪ねることで大きく動き出す。
熊岳鎮で見渡す限りのリンゴの花が見られるのは、5月上旬。そのタイミングを狙ってロケ隊が入ったのだが、なんとしたことかその年は異様に早い開花で、花はほとんど散っていた。さらにほどなくして民主化運動を抑えるために北京には戒厳令が敷かれ、各地で抗議集会が開かれる。実は一行は入国のときから機材の持ち込みが禁じられ、どうしても使いたいのなら機材全部の分の金額を担保として支払えという理不尽な要求が突きつけられていた。ロケ隊には公安警察がはりついたり、突然の停電など、襲いかかる難題を中国側スタッフと協力し合ってひとつひとつなんとか解決していくさまは、このエッセイの読みどころのひとつだ。直前まで盛り上がっていた日中友好の気運の中で守分らは、札幌の風土のかつてのシンボルでもあるリンゴをモチーフに、日中戦争が置き去りにしたたくさんの問題をえぐるドラマを作ろうとした。

東アジアに限っても、平成とはなんと深く大きな変化の時代だったのだろう。この30年間の中国の変容はすさまじい。経済指数でみれば、1989年の日中のGDP(国内総生産)比は、日本が中国の6.6倍以上。しかし2010年に中国が日本を逆転してからはその差は逆に一気に広がり、いまは中国のGDPが日本より2.6倍もある。「林檎の木の下で」は、舞台裏も含めて20世紀の日中史の一断面を札幌を主語に描いて見せた、とりわけ北海道にとって意義のある作品といえるだろう。

守分寿男の資料の調査・研究を担っている、伊藤大介さん(ニセコ町有島記念館)

守分寿男作品がもっと観られる環境を

この連載も最後の節を迎えた。
ここで改めて、僕を守分寿男に導いてくれた伊藤大介さん(ニセコ町有島記念館主任学芸員)に聞いてみたい。伊藤さんは2011年の秋、没後1年と少したったころから守分邸に通い、学芸員の目と手法で資料の整理・研究に当たってきた。きっかけは、道立文学館に勤めていた時代の上司・平原一良さんから、守分の資料と蔵書の整理を持ちかけられことにあった。子どものころから映画やテレビドラマに関心を寄せてきた伊藤さんだが、まだ30代。守分寿男の仕事は文字では知っていたものの、作品群を観る機会はなかった。だから観られる環境が得られてうれしかったし、じっくりと観るたびに守分への興味がいっそうふくらんでいった。
「まず北海道のテレビ局が、全国で放映されるドラマを年間5〜6本も作りつづけていた時代があったことに驚きます。しかもどれもクオリティが高く、企画の立ち位置には、北海道の人間が北海道をどうとらえていくか、という問題意識がありました。資料を読み込むうちにいろいろ目を開かれました。そしてこのことをいまの人たちにもっと知ってほしいと思いました」
僕もまさにそこに守分の仕事の今日的な価値があると思い、この連載を進めてきた。北海道をテーマにした映像作品は膨大な数にのぼるだろう。しかし、外部の目が都合良く消費していくだけの北海道像ではなく、あくまで内発的なまなざしをもって北海道を描こうと取り組んだ作品は、少ない。守分の作品群は、そうした少ないものの中で重要な位置を占めるものだ。
伊藤さんは、映画とテレビでは演出家の位置がちがって、それはなぜかと考えてきた。映画のクレジットでは演出家たる監督の方が脚本家よりも序列が上なのに、テレビのクレジットでは脚本家の方が上になる。インターネットの時代になった近年は少しちがうだろうけれど、テレビは映画に比べて一回性の強いフローのメディアだからだろうか。一般にはテレビドラマの脚本類は仕事が終われば廃棄されることが多かった。脚本だけではなく、作品自体もビデオテープが高価だったため、放映後は繰り返し使用されて、消失した守分作品も多い。しかし守分は、脚本はもとよりスケッチやメモの類まで、かなりの量を保管していた。それが幸いして伊藤さんは守分の世界に踏み入ることができたのだ。
「東芝日曜劇場でほかの系列局の作品と比べると、守分さんの仕事は、圧倒的にロケが多かったり、作りの細かさで際立っています。もう失われてしまって、守分作品でしか見られない北海道の風景がたくさんあります。当時はいまよりもはるかに重たい機材を縦横に駆使した、現場の技術陣のレベルや意欲がとても高かったのだと思います」

守分寿男のもとで演出家となった長沼修さん(元・HBC社長、現・株式会社ラファロ代表)は、その通りだと言う。演出陣と共に、現場の技術陣の技術力とチャレンジ精神が旺盛だったのだ。
「当時はテレビ番組で芸術は創造できない、という考えが強くありました。でも守分さんは、できるという信念をもっていました。だから現場ではとても厳しくて、一面でわがままな人だったのです。私は演出助手として、数限りなくたいへんな目にあいました(笑)」
東芝日曜劇場は、キー局の東京放送(TBS)を中心に北海道放送(HBC)、中部日本放送(CBC)、毎日放送(MBS)、RKB毎日放送(RKB)の5局が持ち回りで制作していたが、1993年の3月をもってこの体制は終了した。
長沼さんは言う。「多いときで年間6本のドラマを作っていましたから、社の内外に映像や美術、衣裳や音楽など、関わる専門家がたくさんいました。そうした人的な裾野もHBCの財産でした」

守分の資料を整理・研究しながら伊藤さんは、蔵書の幅広さや深さに感銘を受けた。
「演出とは単に脚本をなぞってする仕事ではありませんが、資料を通して守分さんの知識や感性の一端にふれると、そのことがさらに実感できます。蔵書の整理は、守分さんの思考の構造や中味を解いていくことでもあります」
伊藤さんは2017年にニセコ町有島記念館で、「三浦綾子『母』と演出家・守分寿男の仕事」展を開き、守分寿男の世界の再発見に取り組んだ。僕の守分への関心もそこからはじまったのだが、守分邸などでの資料の調査・整理はまだ継続中だ。いま伊藤さんは、守分作品がもっと手軽に誰でも観られる環境がほしいと強く願っている。そして次の企画では、映像をふんだんに使った展示も実現させたいと考えている。守分寿男をめぐる僕たちの思考は、次の段階へ進もうとしている。