守分寿男とその時代-2

創造の水位が高まる昭和30年代

1958年、札幌市民会館開館に合わせてその前庭に据えられた、山内壮夫の「希望」。札幌都心を代表する野外彫刻だ

テレビ演出家・プロデューサーの守分寿男(1934〜2010)が北海道放送(HBC)に入社したのは1957(昭和32)年。それがどんな時代であったのかを見渡すと、守分の仕事や北海道におけるテレビ放送誕生の背景がいきいきと見えてくる。
谷口雅春-text

札幌史のターニングポイントで

敗戦国日本がようやく主権を回復した1952(昭和27)年。電波法などの公布を受けて、北海道新聞を母体とした北海道放送(HBC)は、まずラジオ局として開局した。守分寿男が北海道放送に入りテレビの制作現場に立ったのは、その5年後、1957(昭和32)年の春だ。この春、HBCは北海道の民間放送局としてはじめてテレビ放送を開始した。守分たちは、テレビ時代の最初の新卒入社となったのだった。
北海道でもいよいよテレビの普及がはじまるこのころ、札幌のまちづくりも大きなターニングポイントを迎えていた。修業時代の守分が暮らした札幌を俯瞰することで、僕たちは守分寿男の世界をよりリアルにとらえることができる。

守分が入社した翌年の1958年、豊平館が大通西1丁目から中島公園へ移築された。そして館の北側にあった札幌市中央公民館(旧・札幌市公会堂)も取り壊し、ふたつの跡地に札幌市民会館が誕生した。開拓使が皇室やお雇い外国人をはじめとした要人のために1880(明治13)年に建てた施設を都心から移し、そこに市民が主役となる公共ホールができたことになる。中島公園に移された豊平館も、ほどなくして市民の結婚式会場として人気を博していく。またこの秋、都心に札幌農学校が開学(1876年)したことを唯一伝える時計台が、創建80年を迎えていた。日本住宅公団が急増する人口の受け皿として、リンゴ園をつぶして平岸に木の花団地の建設を始めたのもこの年。一帯はまだ札幌市ではなく、豊平町だった。西の手稲も札幌ではなく手稲町で、札幌市の人口は50万人に満たない。藻岩山ロープウェイと藻岩山観光道路もこの58年に開業している。
そして豊平館の移築に合わせて、北海道経済の発展と産業振興をテーマに開かれたのが、同じく1958年夏の北海道大博覧会だ。中島公園と桑園、小樽(祝津)の3会場で、中島公園には科学館、電波館、アメリカ館など18ものパビリオンが建てられた。道内初登場の大型遊具が揃った「子供の国」も大人気を博す。いまも公園にある札幌市天文台は、このときの雪印乳業館だ。旧ソ連が人類初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功したのはその前年の秋。地球文明はついに宇宙への小さな一歩を踏み出していた。
敗戦によって満州や樺太、千島などの外地を失った日本は、残された希望の島として、農地や石炭資源に恵まれた北海道を再発見する。閉会後にまとめられた『北海道大博覧会協賛会誌』の巻頭では、同会会長で札幌商工会議所会頭の広瀬経一(北海道拓殖銀行頭取)が、この時代に「広大なる土地、稀薄なる人口、豊富な未開発、未利用資源に恵まれている北海道の急速かつ計画的開発が、重要なる国策の一環として強力に推進されて」いることをふまえ、この博覧会は「躍進北海道の全貌を広く内外に紹介する目的」で開かれた、と総括している。

大通公園から移築され、北海道大博覧会でお披露目された豊平館。1階が郷土館、2階は美術館としての展示があった。左は郵政館(『北海道大博覧会協賛会誌』より)

伝説の「現代音楽祭」札幌公演

札幌の文化史でこのころ特筆されるのは、なんといっても札幌交響楽団の誕生だ(1961年7月)。1950年代末から動き出していた「わがまちにプロのオーケストラを!」という運動は60年にオーケストラ設立世話人会の創立につながり、北海道放送社長の阿部謙夫(しずお)はその会長を務める。オーケストラが地域に及ぼす多様な価値を確信していた阿部は、北海道銀行初代頭取の島本融らと力を合わせて、戦前にヨーロッパで学んだヴァイオリニストで指揮者の荒谷正雄を助け、札響の初代理事長を担うことにもなる。
そして1962(昭和37)年の10月。開館4年目の札幌市民会館(2007年閉館)で、北海道放送の主催による「現代音楽祭」という演奏会が開かれた。東京で行われた前衛コンサートの札幌公演で、いまでは伝説として語り継がれるものだ。出演者の顔ぶれに息を飲む。
まず米国からジョン・ケージとデビッド・テュードア(共に作曲家)。日本からは、一柳慧(作曲家)、武満徹(作曲家・解説)、高橋悠治(ピアノ)、黒沼俊夫(チェロ)、小林健次(ヴァイオリン)。ゲストにオノ・ヨーコ。指揮は小澤征爾。一般にはまだまったく無名だが、その後の日本の音楽シーンを切り拓いていく名前が並ぶ。自らのヨーロッパ体験を熱く綴った『僕の音楽武者修行』を書いたばかりの小澤征爾は、27歳。前年にニューヨークフィルの副指揮者に就いていた。一柳は、ケージに師事した米国留学から帰国したばかり。偶然性の音楽を持ち込んで日本の楽壇に一柳ショックを巻き起こしていた。最年長で32歳だった武満も、1958 年の芸術祭賞奨励賞受賞を皮切りに、その才能を開花させはじめていた。
どんなプログラムがどのように演奏されたのだろう。
2001年のことだが、北海道放送でこの事業の担当だった山本俊郎さんにいきさつを聞いたことがある。山本さんは、HBCの東京支社が内容を理解しないまま、最先端の「前衛音楽」を北海道に紹介しようと張り切ってしまった、と語った。札幌側は、まず準備の段階で驚愕する。トイレットペーパーを10個、自転車、ドラ、大中小の木箱を3 コずつ用意してほしい、などと言われたのだ。そして一行が札幌に入りピアノの調律に立ち会ったジョン・ケージは、まだ新品に近いスタンウェイのフルコンサート・ピアノの弦にネジや歯ブラシを挟みだして、市民会館の管理係長を激怒させる。ピアノの音色を大胆に変えるプリペアード・ピアノという手法を、札幌で知る人はいなかったのだ。山本さんは楽譜を見てまたびっくり。オタマジャクシがどこにもない、ただの図形だった。
当日幕が上がると、楽器ではなく自転車やほうきが活躍する曲や、プリペアード・ピアノの連弾など、摩訶不思議なアンサンブルが続いた。小澤が振ったのはタクトではなく、当時出たばかりの手巻きの8 ミリカメラだし、高橋悠治が奏でたのは自転車だった。黒い網タイツ姿のオノ・ヨーコは、トイレットペーパーを引っぱり出しながらマイクにこすり付けて、奇声をあげたという。あまりの脱線ぶりに、半分以上の聴衆が途中で帰り、ふざけるな!金返せ!と捨てぜりふを浴びせる人もいた。終演後に出口で来場者を感謝とともに送り出すはずの山本さんら主催者は、2 階のロビーの隅に隠れるほかない。当時の入場料千円は、いまの感覚では1万円以上。このためにアルバイトをしてチケットをやっと手に入れた若者もいたが、現代音楽の最先端に触れられると楽しみに来場したそんな聴衆に、会わせる顔がなかったのだった。一方で出演者たちは、客が途中であきれて帰ったので大成功だ!とはしゃいでいた。

1960年の札幌都心。テレビ塔の向かいにまだ消防望楼が見える(写真:札幌市公文書館所蔵)

若い才能を集めたテレビ放送

この現代音楽祭を高校生のときに聴いたのが、やがてテレビマンとなり守分寿男に就くことになる長沼修さんだ。後年にはHBCの社長を務めることになる長沼さんは、札幌西高校のオーケストラでコントラバスを弾いていた。今回うかがったところ、音楽の世界に全く新しい動きが起こっていることに強く惹かれ、測量のアルバイトをしてチケットを手に入れたという。
「コンサートにはずいぶん驚かされました。そして私は、こういう音楽がこの先主流になるのか、これから見極めてやろうと思いました。いまでは、まったく主流にはならなかったことがよくわかるのですが(笑)」
長沼さんが北海道放送に入社したのは1967(昭和42)年。守分のちょうど10年後輩になるが、制作現場では開局以来ほとんど採用がなかったので、守分がすぐ上の先輩であり直属の上司となった。なぜ採用が少なかったのか。長沼さんは、守分が入った開局の時代に人を取り過ぎたからだ、という。
北海道放送は開局10年で『北海道放送十年』という社史をまとめている。わずか10年の歴史をまとめるのに要したボリュームは、電波を社会の共有ツールとする電波法の施行の背景からはじまって、860頁以上。大部の十年史は北海道放送の知性や胆力のなせる技で、この時代の政治経済と文化の密度そのものでもあるだろう。長沼さんは、テレビ放送という新しいメディアの可能性に若い才能が敏感に反応したことを強調する。
「テレビ放送は、それまでは映画しかなかった映像表現のメディアに突然現れた、全く新しい可能性の世界でした。何か新しいことに挑戦してみたいという守分さんのような学生をはじめ、それまで音楽や演劇や美術の世界にいたような若い才能がHBCにたくさん集まったのです」。
その分野における常識やセオリーもまだ定まらなかった時代。現場の人々は自らの意欲とセンスでさまざまなことを体験的に学んでいった。入社して守分が師事した演出家小南武朗も、大学で演劇や放送について学んだわけでもなく、東京方面からの情報をどん欲に吸収しながら、人のネットワークをさまざまに織り上げながらキャリアを積んでいた。

『北海道放送十年』では、会社設立に至るまでの財政の問題が詳述されている。大企業もなく自律的な経済活動が少ない北海道では、企業の広告だけで放送事業をまわすことは考えにくかった。そのために株式の募集は困難を重ね、機器の発注やスタジオの建設がはじまっても銀行は融資の扉を開けない。計画した必要資金4千万円のうち、北海道拓殖銀行からようやく受けられた1千百万円の融資は、会社の創立委員会7名の個人連帯保証と引き替えだった。同書には、「拓銀は全国の民間放送設立計画を調査研究して、企業として成功し得ないという結論が出ていた」、とある。
現在では到底考えられないこうした状況も、インフラさえまだ整わなかった時代背景に目をやれば理解できるだろう。大きな河川でも橋が架からず、冬期間は国道の4割が雪で途絶したのが当時の北海道だ。放送関係者は、だからこそ北海道にはラジオとテレビの放送網が不可欠で、北海道は電波によってひとつの島としてまとまっていけるのだ、と訴えた。

『北海道放送十年』の巻頭で社長の阿部謙夫は書く。

北海道は総合開発によって、人が好んで住む土地としなければならない。それに伴って北海道の文化が形成されることが望ましい。これらに対し放送を業とするものの使命と責任は、重く大きい。

開館直後の札幌市民会館(1958年)。左下に山内壮夫の「希望」(写真:札幌市公文書館所蔵)

北海道人が描き出す北海道を

守分寿男は、1960年代末から80年代にかけて、「東芝日曜劇場」などの枠で数々の名作テレビドラマを演出して全国に知られた演出家だ。守分が一貫して取り組んだのは、北海道で暮らす北海道人が、自前の力で北海道をどのように表現できるのか、という挑戦だった。そしてそれはまた、阿部謙夫の文章とも響くように、北海道で最初の民間放送局として北海道放送が見すえた針路でもあった。1959(昭和34)年には、中央三紙(朝日新聞、毎日新聞、読売新聞)が印刷工場を設けて北海道での本格的発行をはじめる。中央から旅され、語られるだけの北海道ではなく、自分たち自らが語り出し描き出す北海道を、という思いは、守分たちに深く共有されていく。守分寿男は、歩き、学び、考えつづけた。「そもそも北海道とはどんな土地なんだ?」

1958(昭和33)年。札幌市民会館の開館に合わせて、その前庭にひとつの彫刻が据えられた。作者は、岩見沢出身の山内壮夫(やまのうちたけお・1907-1975)。「希望」と題された、ホワイトセメントで創られた作品で、ひとりの女性が平和の象徴である鳩を伸びやかにかかげ、羽ばたかせようとしている。過去から来たのか未来から訪れたのか分からないような、山内の作品世界を代表するような傑作だ。
この彫刻も、時代背景を見すえればさらに魅力が増してくる。つまりこのころは米ソの冷戦が緊張度を増し、史上最も核実験が行われた時代でもあった。なかでもこの年のアメリカは、中部太平洋のエニウェトク環礁やビキニ環礁で、21回も核爆弾を実際に爆発させている。その少し前には(1954年)、第五福竜丸がアメリカの水爆実験の死の灰を浴びてしまう事件もあった。「希望」の女性がかすかに浮かべる微笑みと大空を目ざす鳩は、生々しいリアリティをもって誕生したのだ。
「希望」の制作には、大通公園をはさんだ老舗百貨店丸井今井の大きな支援があった。台座のプレートにその名が記されていないのは、売名行為を良しとしない創業者由来の社風に依るものだという。

守分寿男がテレビの世界に入ったころ。札幌のまちは大きな変貌を遂げようとしていた。そして北海道は、産業と文化の分野で自らをあらためて定義しようともがいていた。さらに世界を見渡せば、人類ははじめて宇宙船を手にした一方で、核戦争の具体的な影に脅えている。北海道でテレビというメディアは、さまざまな分野の水位がいっせいに高まった緊張感の上に生まれたのだろう。守分寿男は、そうした高揚感の中でキャリアを拓いていくことになる。