美術誌「美術手帖」は2018年2月号で、「テレビドラマをつくる—物語が生まれる場所」という特集を組んだ。山田太一のロングインタビューや、人気脚本家同士の対談、現在のドラマ制作の現場紹介などがあり、オンデマンドのネット配信がドラマをどのように変えていくかといった興味深い記事も続く。しかし一方で、いま俯瞰すると1950年代末からはじまった北海道放送(HBC)の守分寿男の仕事が、こうした特集には収まらないユニークなものであったことが見えてくる。
どういうことか。多くのテレビドラマはその時代の類型の「一般」的なテーマや事象に根ざしがちなのに対して、守分は企画を脚本家たちと練り上げながら、あくまで北海道の「固有」の土地とそこに生きる人々、そして彼らを動かす時代の断面を丸ごと描こうとした。内地に向けての、いわば地誌としての道産テレビドラマだ。その上で守分のまなざしは、「特殊」な人生の日常から、人間の「普遍」的な生を見すえようとしていた。
残念なことに、守分のたくさんの作品をいま観る手段は限られている。まず横浜市にある放送番組のアーカイブ施設「放送ライブラリー」(横浜情報文化センター内)では、「風船のあがる時」「ばんえい」「りんりんと」「幻の町」など、東芝日曜劇場の作品が10本ほど無料で観ることができる。
自宅で観る手段としては、TBSチャンネルというCS有料放送があり、守分寿男で検索すると21件がヒットする(放送日が決まっているのでいつでも観られるわけではない)。
またビデオマーケットというインターネット動画配信サービスもある。ここでは、プロデューサーや演出家として守分が担当した、18本の作品を観ることができる。いつでも確実に観られるこちらでオススメしたいのが、1973年制作の「ばんえい」だ。1973年度の文化庁芸術祭優秀賞を受けた、北海道のテレビドラマ制作史上代表的な作品で、脚本は倉本聰。岩見沢競馬場で開催されるばんえい競走をモチーフに、老いを意識しはじめた男が、一時代を築いて引退が近い老名馬に自分を重ねながら人生を思索するドラマだ。
小林桂樹と八千草薫が演じる札幌に暮らす夫妻には、高校一年生の息子がいる。市役所職員の定年が近づいている夫には海軍での戦争体験があり、この時代になっても、大滝秀治演じる戦友とのつきあいが心の拠りどころとなっていた。友は勤めていた炭鉱の閉山などで意に沿わない転職を繰り返している。職場では上司に脅える臆病者だが、家に帰れば内弁慶の気分屋。不器用でも戦後を必死に生きてきた夫は、ささいなことで息子と取っ組み合いのケンカになり、あろうことか完敗を喫する。翌日夫妻は、ケンカの遠因にもなったばんえい競馬を見に行くのだった。
20代前半で戦地に行った男たちはこの時代50代前半で、当時の定年は55歳だ。劇中では、妻も好きな人を戦争に奪われた過去が暗示される。1970年代前半とは、戦争が終わってまだ30年も経っていない、そういう時代だ。それはまた北海道にとって、経済の屋台骨を支えた炭鉱がつぎつぎに閉山に追い込まれる日々でもあった。夫婦は、岩見沢競馬場に行く前に幾春別(三笠市)の炭鉱跡を訪ねている。妻は、主をとうに失い雑草がはびこった炭住(炭鉱住宅)跡に、かつてその家族が愛でたであろうホオズキを見つけた。
競馬場のシーンは実際のレースがもとになっている。夫は、芦毛の老名馬ダイセツを一点買いしたが、前半でリードするも、最後の障害で顔をゆがめて呻吟。やはり勝利はかなわない。戦友と酒を酌み交わして遅くに帰った夫は、ソファの上の浅い眠りの中で、背づりや重いソリや頸輪も負わないダイセツが、草原に解き放たれて裸で快走する夢を見るのだった。
うち捨てられた炭住のシーンを守分は、人々が去ってぽっかりとあいた空気感ごと、望遠レンズを巧みに使って描き出した。アップで写る夫婦の表情の前景と背景はつねにボケてゆらいでいる。ばんえい競馬での老馬のモチーフにしても、あらすじだけをなぞれば通俗に陥ってしまうところを守分は、脚本の余白を奥行きのある北海道の風土と、そこに暮らす人間の実像として描いてみせた。ラストに草原をかけるダイセツの映像もテレビドラマとは思えない、劇場映画のような迫力と抒情に満ちている。
脚本倉本聰、演出守分寿男のコンビは、HBC制作の「東芝日曜劇場」の看板のひとつだった。倉本が富良野に移り住む前のことで、倉本の移住には、こうした北海道での仕事と守分の存在が大きくあずかっていた。倉本の脚本でのちにフジテレビで制作された「北の国から」のシリーズ(演出/富永卓二ほか)も、守分との仕事の見事な変奏として見ることができるだろう。倉本が守分とはじめて組んだドラマが、「ばんえい」の1年前に制作した「風船のあがる時」(1972年)だ。
これは札幌オリンピックの開会式で、演出に風船を使う責任者になった男(フランキー堺)とその妻(南田洋子)をめぐる、とりわけユニークなドラマ。五輪の開会式で小学生たちに風船をあげてもらうという、壮大なオリンピック事業の中のあまりにも些細なひとつの挿話を軸に、その時代に札幌や小樽に暮らす人たちの一日を愛すべき物語に織り上げている。放映は実際の開会式の5日前だから、当時の視聴者はいまからは想像しにくいリアリティをもってテレビのチャンネルを合わせたことだろう。
あらすじを説明しよう。主人公は札幌市役所からオリンピック組織委員会に出向している係長。仕事は、真駒内屋外競技場(札幌市南区)で開かれる開会式で800人の子どもたちに1万8千個の風船を持たせ、それを式典のハイライトシーンで一斉に放つことだ。しかし彼は人並み外れた心配症の小心者。本番を直前にして、もしうまく行かなかったなら国家行事が吹っ飛んでしまうと、緊張で心が張り裂けそうになっている。そのため翌日に迫った結婚記念日のことも心にまったくないのだが、そのことに拗(す)ねた妻は、いまは小樽で医院を開業する学生時代のボーイフレンド(高橋昌也)を、かすかな浮気心とともに訪ねた。しかし、かつて妻をめぐって係長とゆるい三角関係にあった友人は彼女に、目の前の仕事に国家的責任を抱いて打ち込んでいる男って素晴らしいじゃないか、と説くのだった。
全編を通してドラマの背景には、オリンピック開幕を直前に控えた道都の表情がリアルに記録されていて、とても興味深い。苫小牧から真駒内へ向かう聖火リレーのニュースもドラマと現実の境界を豊かにふくらませていて、そんなタイミングで屋外競技場を使ったロケが実現していることに驚くほかない。小樽のシーンでは、運河埋め立ての反対運動が具体的に起こる直前の汚い運河がそのまま映され、妻も小樽の友人も学生時代から絵を描いていたことが語られるが、これらのモチーフは、小樽に暮らし小樽商科大学で美術部(丘美会)を作った守分の青春をなぞったものだ(守分の絵画の師は、小樽の美術界の中心メンバーである國松登だった)。効果的な挿入歌として使われている由紀さおりの「生きがい」も、このころ愛されたヒット曲だ。
守分の仕事をいま知り、考えることにはどんな意味があるだろう。まずなんといっても、時代の違いによって現代を相対化できる。われわれは今どんな時代に生きているのか。色あせない守分の作品は、僕たちにそのことを深く考えさせてくれる。「ばんえい」の主人公はありえないほどの亭主関白ぶりだが、そこからは近年にいたる性差をめぐる社会的な議論の浸透が見えてくるし、現在のテレビドラマの多くがコミックやノベルを原作にもつのに対して、守分たちはあくまでオリジナルの脚本を大切にした。そうした時代環境の変容にも興味は尽きない。
1950年代末というテレビ放送の黎明期に仕事をはじめた守分にとって、60年代後半からは、機材と技術に大きな進化を手にした時代だった。画期だったのは放送用のVTR(ビデオテープレコーダー)の登場だ。撮影機材がフィルムからVTRになり、より鮮明な映像が手軽に撮れるようになっていく。しかし当初それらは、あくまでスタジオでしか使わない大型で重厚なものだった。にもかかわらず守分は、さながら印象派の画家たちがキャンバスをはじめて屋外に持ち出したように、それらを積極的に屋外に持ち出したのだった。
「東芝日曜劇場」は、キー局の東京放送(TBS)を中心に北海道放送(HBC)、中部日本放送(CBC)、毎日放送(MBS)、RKB毎日放送(RKB)の5局が持ち回りで制作していたが、HBCをのぞいては多くがスタジオにセットを組んだ制作だった。このちがいは明らかだ。守分はなぜ、困難を承知でロケにこだわったのだろうか。2冊の著作『さらば卓袱台』や『北は、ふぶき』、そして守分の後輩としてドラマ作りを学んだ長沼修さん(HBCの社長などを務め現在は株式会社ラファロ社長)の話によれば、それは、内地とは明らかにちがう成り立ちをもつ北海道の風景を、空気感ごと奥行きを持って描きたかったからだ。そしてその上で、そこに生きる人間たちのリアルな姿をドラマにかたちづくることが、守分にとっての演出という仕事だった。長沼さんの『北のドラマづくり半世紀』(北海道新聞社)には、1967年制作の「わかれ」(原作/安岡章太郎、脚本/長谷部慶次、演出/守分寿男)での挑戦のエピソードが出てくる。守分らは積丹半島の先端で撮った、夕陽をバックにした踊りのシーンを本社の大型の録画機に送るために、積丹岬や小樽の赤岩、そして手稲山頂に大きなパラボラアンテナを設置して、それらをリレーでつないだという。わずか10秒ほどのワンカットを撮影するために数日が費やされた。そのこともあってこの作品は、文化庁芸術祭奨励賞(1967)を受賞している。
放送や映画、あるいは行政の施策まで、さまざまな領域ではいま、すでに定まったロジックや手法の枠組の中で、効率や利益を最大化していくことが最優先されている。しかし民間のテレビ放送が立ち上がり、ほどなくして白黒からカラーに変わっていくなかで守分たちが取り組んだのは、その枠組自体を自らの創意工夫で作り出し、拡張していくことだった。そこには、「中央」の模倣ではなく、「地域」に深く根ざすことこそが全国に通じる定石なのだ、という確信があった。長沼さんは、当時の現場はいまのように視聴率に一喜一憂することはなく、そのこともスタッフの自由な熱気を後押ししていた、と言う。
21世紀もすでに19年目に入っている今日。地域社会は人口減と高齢化がいっそう進み、先行きには暗く重たそうな雲が目につく。しかし一方では、人間と機械の区別がゆらぎ、人工知能や自動運転、あるいは5G(第5世代移動通信システム)といった、かつて時代を切り拓いた人々でも到底想像できなかったであろう科学技術の進展が、社会をとても深いところから大きく変えようとしている。海外からのツーリストが行き交う街角が日常の風景になり、消費の現場では、キャッシュが消えていこうとしているではないか。守分たちならいまどんなドラマを構想して、どんな新しいことに挑戦するだろう。それはきっと、過去の成功体験の枠組の中の単なる最適化などであるはずがない。
守分寿男とその時代のことをもっと知りたい—。
ニセコ町有島記念館の学芸員伊藤大介さんは、その思いで守分寿男夫人の葉子さん、次女の美佳さんの信頼と協力を得て、守分の仕事の再発見と整理に取り組んできた。その成果がニセコ町有島記念館での「三浦綾子『母』と演出家・守分寿男の仕事」展(2017年)となり、この3月まで市立小樽文学館が主催した「守分寿男全仕事『幻の町』・小樽・小林多喜二」展へと結ばれていったのだが、守分寿男が僕たちに気づかせてくれることは、とても大きい。次回は伊藤大介さんに語っていただこう。