原野開拓の進展に伴い活況を呈した殖民軌道でしたが、その輸送量は早い時期から限界を迎えており、鉄道に対する地域住民の願いは次第に盛り上がりを見せてきました(*1)。
大正14年、厚床~標津間の鉄道建設について国会で決議され、昭和4年には厚床付近から標津線の測量がはじまりました。当初は海沿いから標津へ向かう「海岸線」が予定されていたのですが、それを知った住民たちは原野を貫くように敷設する「原野線」を主張しました。この問題は、双方主張を譲らず険悪な状態となり、ついには政治問題化し、激しく争われることになりました。しかし、最終的には昭和6年8月、原野を縦断する路線に決定することになりました。
標津線は、昭和8年の厚床~西別の開通を皮切りに、翌9年の西別~中標津、さらに中標津~標津、標茶~計根別、そして昭和12年の計根別~中標津の開通により全線が開通することになりました(*2)。このことは昭和6、7年の冷害凶作により打ちひしがれていた原野の開拓農民に新しい希望を与え、経済的にも疲弊していたこの地域に鉄道建設景気をもたらしました。
以降、標津線は、太平洋戦争中における飛行場建設の資材運搬をはじめ、戦後の海外引揚者や服役軍人の輸送、さらに戦後の緊急開拓者の受け入れ、そして昭和30年代には近代酪農の夜明けとなったパイロットファームへ入植者を迎え、そして様々な資材をこの地方へ運びました。さらにディーゼル化に伴って全盛期を迎え、昭和40年代には知床を含む道東観光ブームで多くの人々を乗せて走りました。しかし、そのブームの終わり頃になると沿線住民の足は列車から車へと変わってしまい、国鉄では赤字問題が深刻化し、標津線の廃止がクローズアップされるようになりました。
開通以降、根釧原野の開発の振興と共に人々の生活と産業、そして心を支え続けてきた標津線は、56年の間、原野開拓の使命をまっとうしてきましたが、道路網の整備とモータリゼーション、航空運輸の進展とともに旅客、貨物輸送が激減したことにより、廃止反対運動もむなしく平成元年4月29日、惜しまれながら廃止に至りました。
廃止から30年を経過した現在は、線路跡、鉄道信号、各地の橋梁、標津町の転車台、静態保存されている各種車両などが残されています。
(*1) 敷設運動が容易ではなかったため、時の標津村長の小森作次郎は陳情事項を追分節に託し、これを宴会の席上、芸妓に唄わせるだけでなく、自分も札幌や東京の陳情に赴いたときに唄い、これが追分陳情と呼ばれて話題になった。その内容の情にほだされ、陳情を受ける側もこの戦術に拍手を送ったと伝えられている。
(*2) 中標津市街民の喜びは開村以来。開通時の賑わいで、駅前はアーチその他で装飾され、家々の軒先には国旗が掲揚された。街角には露店が出てお祭りをしのぐ賑やかさとなり、前夜から雨だったが、児童生徒と村民約1000人(開陽、俣落、武佐などからも徒歩で人が集まってきた)が日の丸の小旗を振り歓声を上げて列車を迎えた。