学芸員の「根室海峡エピソード」コラム~4

タブ山チャシ跡

タブ山チャシ跡。左手下に茶志骨川が流れる

小野哲也(標津町ポー川史跡自然公園学芸員)-text

根室海峡沿岸を走る国道244号線から、野付半島に向かう道道950号線に入るとすぐに、右手に小高い丘がみえます。この丘の上に、タブ山チャシ跡があります。このチャシ跡は、野付湾に注ぐ茶志骨川河口に築かれたもので、野付半島以北の海峡沿岸一帯を一望できる場所にあります。
チャシは、コタン共有の神聖な場所として築かれたのがはじまりとされ、時代と共に談判の場や、資源の監視場、戦いの砦など、様々な役割を果たしてきました。その時々で使われ方が変わっても、神聖な場としての本源的な役割は、いつの時代にも一貫して備わっていたと考えられています。
チャシ跡は、江戸時代のころに「東蝦夷地」と呼ばれた北海道の太平洋側地域に多く分布しています。その立地をみると、胆振、日高、十勝地方では、河川の中・上流域の支流との合流点付近など、内陸部に多く築かれています。一方、根室地域では海岸線に沿った河川河口付近に多く築かれているのが特徴です。根室地域におけるチャシ跡の立地は、河川河口を湊とするコタンの存在を意味するものであり、根室海峡を通じた交流網が築かれていたことが推測されます。
タブ山チャシ跡には、壕で区画された4カ所の郭が残されています。未だ発掘調査されていないため、正確な年代はわかりませんが、これらの郭がそれぞれ別の時代に築かれたものだとすると、長期にわたってこの場所がチャシとして利用され続けたことの証となります。
チャシ跡に登り、標津市街方向に目を向けると、2基の鉄塔が見えます。手前の鉄塔付近にはホニコイチャシ跡が、奥の鉄塔付近には望が丘チャシ跡が存在します。このうち、望が丘チャシ跡とタブ山チャシ跡の間には、江戸時代に記録された、アイヌ同士の戦いの物語が伝えられています。

加賀家文書に残るアイヌ同士の戦いの一場面を描いた絵図。裸の女性を茶志骨川に走らせ、タブ山チャシに陣取った人々が気を取られている間に、後方から急襲したとされる

また、タブ山チャシ跡から見渡せる景観は、東に野付半島、東北東に国後島、北に知床連山の山並み、北西に標津市街を望み、根室海峡北部一帯を一望できるパノラマが広がっています。この視界の範囲で、かつて幕府をも巻き込む騒動となった事件、クナシリ・メナシの戦いや、日本とロシアの衝突と交流のエピソードとして伝えられる、高田屋嘉兵衛の拿捕事件が起きるなど、日本列島北方史上重要な、数々の事件が起きたのです。