知床半島と根室半島のちょうど中間あたりに、地図上で見ると釣り針のような形をした全長28km、日本最大の砂嘴、野付半島がある。ドドワラ・ナラワラの特異な景観、水と緑と野生鳥獣、湾内に生息するホッカイシマエビの打瀬舟漁などの風景は多くの観光客を魅了している。
今でこそ人けのない荒涼としたこの半島に、かつては人々の喧騒が存在したという言い伝えが残っている。昭和39(1964)年に北海道大学探検部が行った調査報告書によると、「地元の人々にキラク町と呼ばれている場所ある。キラクの由来は気が楽になるところと言う意味で、この附近の人々のための歓楽の場があったことに由来するらしい」と記載されている。
野付が文献に現れる記録として、『津軽一統誌』(寛文10年)がある。その22、3年前の記録として、「みむろよりのしけ着。是よりらっこ島くなしりへわたり申候」、野付崎から国後島へ渡っていたことを示すものである。寛政10(1798)年、択捉島に「大日本恵登呂府」の木碑を建てた近藤重蔵の一行も帰路野付に渡っており、この時、ニシベツ(別海町本別海)や標津から働きにくる人々の漁番屋が多く野付にあったと記録している。
寛政11(1799)年に蝦夷地を直轄した幕府は、陸路・海路の整備を急務とし、野付には国後島へ渡るための中継点として野付通行屋が設置された。通行屋のほかに蔵などもあり、ロシア南下に備えて警備した武士もいたようである。通行屋には、支配人(番人)がいて、妻同伴で仕事をし、ほかにアイヌが8ほど詰めていた。渡海用の船が用意してあり、賃銭も決まっていた。「加賀家文書」のほとんどを書き残した加賀伝蔵は、安政年間頃(1854~1859)支配人を勤めている。国後島へ渡海する武士たち、箱館奉行の蝦夷地巡回一行、蝦夷地を探検していた松浦武四郎、種痘のために江戸から来た医師、商人の世話など数々の業務をこなし、アイヌの人々と畑を拓いていたことなどを記録に残している。
野付通行屋の南側にあたる外海は鰊漁場で、春になると根室場所の各番屋から人々が集まり漁に従事した。漁番屋や蔵などを建て、50~60軒前後の建物が立ち並んでいたようである。
人々の言い伝えによって「キラク」と呼ばれている場所は、平成15(2003)年~17(2005)年に別海町教育委員会により発掘調査が行われ野付通行屋跡と確証を得ている。鰊漁の漁番屋も漁業施設と思われる遺構や生活用品などの遺物から野付番屋跡の存在を裏付けるものである。
このように文献資料には「キラク」についての記録はなく、地元の人々によって語り継がれている言い伝えということでしか、説明ができない。現段階では、こういった経緯が幻の所以というところであろうか。