もうひとつのブームタウン – 増毛-1

玉蟲左太夫が負った近代の混乱と苦悩

海路で北上を重ね、難所の雄冬を越えれば増毛。雄冬岬展望台(増毛町)から見る、岬の柱状節理と雄冬市街

ロシアにおびえた幕府が東北諸藩に命じた北方警備は、蝦夷地と各藩の歴史に新たな局面をもたらした。重い負担にあえいだ諸藩の内情は、現在ではほとんど知られていないだろう。しかし彼らの辛酸は、近代を動かすさらに大きな力と結ばれていた。そのことをひとりの人間から辿ってみたい。
谷口雅春-text&photo

蝦夷地を歩く巡見者の系譜

津軽海峡を境に日本列島の動物相が分かれると考えた函館の貿易商・博物学者トーマス・ブラキストン(1832-1891)は、おなじ英国の生物学者アルフレッド・ウォレスが取り組んでいたマレー諸島(現・マレーシアとインドネシア)の研究からその論考を構想したという(犬飼哲夫『辺境北海道』)。ダーウィンと同時代に同様の進化論を構想していたウォレスは、ジャワの森の奥地に入って昆虫や鳥を採集して標本をつくり、それをロンドンのエージェントを通して売ることで生計を立てた。近代の植民地主義が新たな経済を拡張して、ウォレスはその枠組みを活用する、タフでしたたかな「歩く学者」だった。
分野はまったく違うが、玉蟲左太夫(たまむしさだゆう)という、ウォレスと同じ年(1823年)に生まれた仙台藩士のことを書いてみたい。彼もまた、土地と関わり「歩く・見る・聞く・書く」を徹底した、幕末の稀有なサムライだ。

1857(安政4)年の夏、石狩湾東岸を難儀しながら旅する和人の一行があった。ロシアの南下に備えるための調査を急ぐ、箱館奉行の堀利煕(としひろ)、村垣範正らだ。箱館を春に発った彼らは5カ月にもわたって蝦夷地と北蝦夷地(サハリン)を巡見したが、玉蟲左太夫は、堀に随行する近臣だった。

堀と村垣は、その4年前にも蝦夷地と北蝦夷地を歩いている。ペリー艦隊がはじめて浦賀に来航したその1853年、数十名のロシア隊がカラフト南端のアニワ湾に面したクシュンコタンに上陸して、数カ月にわたって陣営を構える事変があった。幕府は、堀利煕と村垣範正らを江戸から派遣したのだった。このときの一行には、堀の従者として19歳の榎本武揚がいた。着いてみるとロシア兵はすでに退去したあと。その状況と蝦夷本島や松前の実情を報告書にまとめると、これが決め手となって幕府は蝦夷地をふたたび直轄することになる(1855年。前回は1799-1821年)。国をゆるがすロシア帝国の脅威には、松前藩では到底対応できないという決定だ。堀と村垣は、そのまま箱館奉行として箱館奉行所に赴任する。堀らの発案で、函館山のふもとにあった奉行所を亀田に移して、五稜郭の築城がはじまった。
そして彼らの調査をもとに、千島列島ではウルップ島とエトロフ島のあいだに国境を定め、カラフトについては境界の画定を棚上げにしておくという日ロの交渉が、下田で行われた。日本側は、アイヌは日本人であるから彼らの居住地は日本領で、厳密な線引きは行わないが境界は存在するのだ、という立場。これに対してロシアは、そもそも境界など存在しない、という解釈だった(「北海道史事典」北海道史研究協議会編)。

だからロシアは、はるか西のクリミア半島での戦争が終わって(1856年)余裕ができると、ふたたびサハリン南部への進出を企て、西海岸のナヨロやクシュンナイで日本の幕吏らと対峙するようになる。
このころ松浦武四郎も五度目の調査で蝦夷地に入り、石狩川や天塩川流域を踏査しているが、堀や村垣が再度巡見を命じられたのは、こうした風雲への対処だった。巡見隊の中には、のちに明治の札幌の最初の町割を構想することになる佐賀藩士の島義勇もいた。玉蟲は、この旅のもようを克明な記録に残している。活字になっているので(『入北記』北海道出版企画センター)、石狩から増毛にいたる節を見てみよう。

仙台藩士玉蟲左太夫(1823-1869)(Licensed under パブリック・ドメイン)

秋田藩への厳しい評価

1857(安政4)年6月2日(新暦7月22日)の昼、一行は舟でイシカリからアツタの会所(幕府の交易場)に入る。会所の者から、このあたりは貝の化石がよく出ると聞いて玉蟲も探してみると、「偶然一石ヲ得タリ」。堆積岩の層が重なる望来層だ。ここからは陸路。イシカリからハママシケ(浜益)までのあいだには、1020人の出稼ぎと9軒のアイヌ家族がいた。
ヤソシケ(安瀬・やそすけ)を進むと新しく開かれたばかりの道に入る。「濃昼(ごきびる)山道」だ。険しく湿地まじりでとても歩きにくい。馬ではとてもいけないだろう。途中2キロ近くは沢沿いで、巨岩の上から落ちれば「一身忽(たちま)チ破砕トナルベシ。極(きわめて)難路ト云フベシ」。玉蟲は、こんな道ならあってもなくても同じで、ここに奉行たちを案内するとは、「如何(イカ)ナル厚顔ニヤ」、と手厳しい。北海道遺産にもなり地域の歴史資源として注目されているこの山道も、開削当初はとても歩きづらい、道とは呼べそうにない道だったのだ。
ゴキヒル(濃昼)からはまた舟を調達して、ハママシケ(浜益)に泊まる。「遙ニ突兀(とっこつ/突き出た)タル山アリ、ハママシケ領小金山ナリ。古来ヨリ山頂ヘ登ル人ナシト云フ」。このシリーズの一回目で登場した、アイヌのユカㇻ 「虎杖(いたどり)丸」のふるさと、黄金山(こがねやま)だ。

翌朝舟でマシケ(増毛)をめざす。きのうの山道があまりにひどく疲れが抜けないので陸を観察する気にもならず「舟中恍惚トシテ眠ヲ催シ徒(いたず)ラニ過グルコソ遺憾ナリ」。玉蟲という武士は、とにかく几帳面で周到な観察眼と鋭敏な思考力をもっていた。だから体力をムダに奪ってしまった濃昼の悪路に、ひと晩明けてからもなお怒りがおさまらなかったのだろう。
昼ごろにようやく生気がもどると、「突兀タル一山北ニ見ユ、是(これ)即チリイシリ(利尻山)ナルベシ」。
難所のヲフイ(雄冬)岬を越えてカムイトノ岬(カムイエト岬)を見やりながら進むと、やがて秋田藩の陣屋があるマシケだ。ここには藩士たちのほかに、出稼ぎ768人、アイヌ32軒99人がいた。春のニシンのほか、主な交易品として、煎海鼠(いりこ/干なまこ)、干鮑(あわび)、身欠にしん、ニシンの白子、干数の子、サケなどがあげられている。

次の日、一行は砲術を見学することになる。
しかしそもそもなぜここに秋田藩の藩士がいて、大砲があるのか?
幕府が北方諸藩に命じた北方警備については前回前々回の浜益篇でふれた通りだが、秋田藩(久保田藩ともよばれる)はこの前年(1856年)から増毛に入り、陣屋の建設をはじめていた。藩が命じられた警固のエリアは、積丹半島の神威岬から知床にいたる長大な海岸線。さらにカラフトと利尻島、礼文島までを含む。増毛に本拠地の元陣屋を建て、宗谷(現・稚内市)に出張陣屋を設けた。総面積1160坪におよび28棟の建物を有する元陣屋が完成するには2年以上かかったから、このときはまだ長屋などは普請中だった。玉蟲は、土塁も濠もなく、できている長屋にしても粗末なもので、江戸の裏通りの小さな長屋よりも貧弱だ、と書いている。
肝心の砲術にしても、礼砲を放つようなもので「見ルニ足ラズノミナラズ大(おおい)ニ見込違ヒノコトアリ」。そもそも幕府の要人(奉行)が視察に訪れる際に砲の技術をぜひ見てほしいと強く要望したのは佐竹公(秋田藩)の方で、奉行らもさぞや高いレベルものが見られると期待していたのに、見せられたのは名ばかりのもの。「皆々失望帰刻ノミ急ギケル」、と容赦ない。玉蟲は大砲と火薬の種類や砲術の流派、担当者の名前を克明に記すが、「実用ニハ役ニ立ツマジ可笑ノ至リナリ(お笑いぐさだ)」。
秋田藩にしてみれば、厳しい予算の中でなんとか必死に装備を揃えたのだろうが、それは幕府が求めるレベルのものではなかったようだ。

玉蟲は蝦夷地各地のようすをこのように詳細に記録していく。しかしその筆は単なる批判のための批判や、揚げ足取りを目的としていない。自生のカラムシや麻があるのに和人は誰もこれを活用していない、と惜しんだり、マシケの冬はきびしく海路もほとんど絶たれるが、地味は良いので春夏の草の類が多様に茂るのは蝦夷地第一という、とも書く。なるほど日本最北の果樹地帯である今日の増毛に通じる正確な記述だ。
また、例えばイシカリでは会所の支配人や番人がアイヌを酷使しているさまに憤るなど、同時代の松浦武四郎のように、きびしく倫理的なまなざしもあった。それは人道的な見地というよりも、蝦夷地を松前藩から取り上げて対ロシアの防壁にするためには、そんなやり方ではダメだろう、という合理的な判断に思える。

現在の濃昼山道・安瀬(やそすけ)側の入り口。トレッキングの人気コースになっている

蝦夷地の記録が導いた世界一周航海

北方ロシアの脅威を意識した幕府の本格的な蝦夷地調査はすでに18世紀末、老中田沼意次の時代にはじまっていた。歴史学者高倉新一郎(1902-1990)はその流れを、松前藩の非力に苛立つ幕府の意向として整理している(『北海道・樺太・千島列島』)。つまり松前藩は、無尽蔵の資源を前にしても積極的に開拓しようともせず、ただ地を割って支配権を近江や北陸の商人たちに丸投げしている。一方で、ワシタカや、砂金、木材、毛皮などの重要産物の資源が細ってきているし、アイヌが請負の商人に酷使され、その不満が高まっている—。国家の拡張を動機づけられた近代の帝国主義に直結するこうした問題設定は、田沼の時代から60年以上経った幕末にいっそう切実なものになっていた。

玉蟲の『入北記』は、その克明な観察力が箱館奉行堀利煕や村垣範正らに高く評価された。そして1859(安政6)年、幕府は日米修好通商条約の批准のために外国奉行の新見正興(しんみまさおき)を正使とする遣米使節団を組織する。団の中心には、勘定奉行兼外国奉行兼箱館奉行の村垣範正、目付の小栗忠順(ただまさ)らがいた。玉蟲左太夫は、新見の従者のひとりに選ばれ、翌1860(安政7)年正月に77人の侍の1人として米国の軍艦ポーハタン号に乗り込むことになった。
この船は、ペリー艦隊の所属艦として6年前に箱館にも入港した外輪フリゲート艦だ。使節にはもう一隻、勝海舟を艦長とする咸臨丸が随伴した。
玉蟲がこの重大な任務を負った一団に加わり太平洋を渡ったのは、『入北記』への評価があったからだ。一行はアメリカで条約の批准を行ったのち、中南米から大西洋を渡ってアフリカ、そして喜望峰をまわって東南アジアと、ほぼ世界一周といえる10カ月におよぶ長い航海をする。玉蟲はその間一日も欠かさずに見分したことがらを詳細に記録して、『航米日録』としてまとめた。
アメリカではニューヨークで日本使節歓迎の大パレードに迎えられ、西洋の文化や蒸気機関車などの科学技術にふれた。アフリカ西海岸のルアンダ(ポルトガル領)やアジアのジャワ(オランダ領)、香港(イギリス領)では、列強のもとで虐げられている現地の人々から、植民地支配の現実を知る。ちょうどこの時期、冒頭で触れた博物学者のアルフレッド・ウォレスは、ジャワで昆虫や鳥類の採集と標本づくりに明け暮れていた。まったくちがう世界で生きて出会うこととも完全に無縁だったふたりの異質な生が、思いがけない接近をしていた。

この航海の記録は、玉蟲の子孫の手で現代語訳されている(『仙台藩士幕末世界一周/訳・山本三郎』)。訳書では、ほかの武士たちとは明らかに異なり、生まれ育った風習や文化の枠に捕らわれずに新たな見分をどん欲に飲み込み、自らを成長させていく玉蟲の姿がとても興味深く見てとれるのだが、本題からはずれるのでふれずにおこう。ただこれに先立つ『入北記』にしても、その記録はうわべの趣味嗜好や思いつきで記されたものではなく、幕臣として、その時代の広い見識と世界観で深みから描かれた紀行であることにはまちいがない。

日米修好通商条約の批准の正使新見正興(中央)と、村垣範正(左)、小栗忠順(右)(Licensed under パブリック・ドメイン)

玉蟲左太夫悲運の最期

増毛の秋田藩陣屋になかなか筆が届かないが、玉蟲左太夫のその後のことには簡単にふれておきたい。それは北海道とも無関係ではありえないからだ。
1860(万延元)年の晩秋に帰国した玉蟲は、『航米日録』をまとめて仙台藩主伊達慶邦に献上した。そのあとは藩校の校長や気仙沼の製塩事業のリーダーなどを務めたが、徳川幕府が終焉を迎えて薩長勢力を軸とした新政府が動き始めた明治の年明け、薩摩・長州藩兵の挑発に乗せられて勃発した鳥羽伏見の戦い以降、佐幕(幕府支持)の雄となった仙台藩は、戊辰の戦いの最前線で苦悩する。玉蟲は、薩長が朝敵のレッテルを貼って滅ぼすことを狙う会津藩のために、同藩に朝廷への帰順を勧告する使節として会津若松城に赴いた。しかし会津藩は朝廷への帰順には異もなく納得しても、薩長の狡猾なふるまいには決して屈服しない。
仙台藩が軸となり、大小31藩からなる奥羽越列藩同盟が成立した。同盟を束ねる困難な役(軍務局議事応接頭取)を担ったのが、仙台藩の理論家である漢学者大槻磐渓と玉蟲左太夫らだった。彼らは薩長の孤立をはかりながら新政府への嘆願をつづけ、諸藩や外国公使たちに訴えて公論を動かすことをめざした。しかしあくまで旧勢力の撲滅をめざす新政府軍は、傍若無人に東北へと戦火を広げ、東北諸藩を駆逐していく。列藩同盟内部でも分裂が連鎖した。こうしてその年(1868)の秋、仙台藩一門伊達邦成(くにしげ)の居城のある亘理(わたり)で仙台藩の降伏式が行われる。一門とは徳川家でいえば御三家のような存在で、伊達邦成はその後臣下と家族2700名以上を率いて胆振の有珠郡(現・伊達市)に集団移住を実現させる、亘理伊達家15代当主だ。

仙台藩の降伏式が執り行われた亘理要害では、明治初頭に亘理伊達家主従が現在の伊達市(胆振管内)に移住したのち、伊達家を慕うかつての領民たちの手で亘理神社が建立された

さて、奥羽越列藩同盟の中心にいた玉蟲左太夫はどうしただろう。注目されるのは、榎本艦隊との関わりだ。
戊辰戦の末期、海軍副総裁の榎本武揚らは抗戦派の旧幕臣らとともに、江戸城無血開城を実現させた陸軍総裁勝海舟らの反対を押し切って、8隻からなる旧幕府艦隊で江戸湾から仙台の松島湾に向かった。奥羽越列藩同盟への合流をめざしたのだ。若き日に蝦夷地とカラフトの巡見に随行した榎本には、旧幕臣たちの手で蝦夷地を開拓したいという思いがあった。そうすれば禄を失った彼らを救うことができるだろう。
このとき玉蟲は、気仙沼で榎本艦隊に乗り込むために榎本を待った。玉蟲もまた、この国にとっての蝦夷地の意味を深く理解していた。しかし品川沖を出港した艦隊は、房総沖で暴風雨に遭って咸臨丸など2隻を失ってしまう。旗艦開陽など6隻も破損して、冬を目前にした貴重な時間は空しく流れた。そして玉蟲は新政府軍に捕らえられ、投獄されてしまう。榎本艦隊が仙台にようやく到着したのは、玉蟲が捕縛された翌日だった。
玉蟲は、中級武士だったにもかかわらず戦争責任を問われて家跡没収の上、罪人となる。仙台藩では家老の但木土佐や坂時秀が死罪となっているにも関わらず、やがて玉蟲にも牢前での切腹が命じられてしまった。時代の大きなうねりが起こした仙台藩内部の不和によるものだという。こうして玉蟲左太夫は47歳の生涯を閉じた。1869(明治2)年の4月9日(新暦5月20日)。
蝦夷地に渡った榎本軍はそのころ、追撃してきた新政府軍艦隊を乙部と江差で迎え撃とうとしていた。

すこし時間をもどそう。
会津の鶴ヶ城が落城し、北追手門に白旗が掲げられたのは、その前年の9月22日(1868年新暦11月6日)。のちに兵部省は、現在の靖国神社の前身である東京招魂社の例大祭を、年4回行うことを定めた。すなわち、鳥羽・伏見の戦いが起こった1月3日と、幕府軍の最後の大戦となった上野戦争の5月15日、そして箱館戦争で榎本軍が降伏した5月19日、さらにはこともあろうに、会津藩が降伏した9月22日だ。明治政府は、自らが創作したレッテルである「朝敵」を、徹底しておとしめてみせた。
道理にもとるこうした行いは、亘理伊達家主従や旧会津藩士から困窮した農民層まで、明治期に北海道を目指さざるを得なかったおびただしい数の移民たちの心根に、いうまでもなく深い遺恨として刻まれた。

秋田藩の増毛元陣屋の詳細については、次回にしよう。

「増毛町総合交流促進施設元陣屋」。かつての秋田藩の元陣屋の跡地に建てられた文化交流施設。秋田藩の取り組みを紹介する郷土資料室のほか、図書室、会議室、ギャラリーなどがある

増毛町総合交流促進施設元陣屋
北海道増毛郡増毛町永寿町4丁目49番地
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9:00-17:00
毎週木曜日休館
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