もうひとつのブームタウン – 増毛-2

秋田藩士たちの12年

石狩湾の中心、石狩川河口近くに据えられた、彫刻家本郷新の「無辜(むこ)の民」(一部)。題辞は、「この地に生きこの地に埋もれし数知れぬ無辜の民の霊に捧ぐ」

ロシアに備えた蝦夷地警備に、マシケでは秋田藩(久保田藩とも呼ばれる)が動員された。そのあらましは、元陣屋があった場所に建てられた交流施設で見てとることができる。本シリーズ最終回の主役は、秋田藩士と明治以降の秋田衆だ。命をおびやかす北方のきびしい冬の先に、彼らは何を見たのだろうか。
谷口雅春-text&photo

開拓期につながる秋田衆の仕事

大正・昭和期に出稼ぎの男たちを集めた石狩川の治水工事群で、いちばん頼られたのは秋田県人だった—。『北海道回想録』(北海道総務部1964)に、そんな一節がある。秋田県人は信用人夫といわれ、ひたすらまじめに汗を流し、労銀の大部分を国元に送った。反対にいちばん品行が悪く使えなかったのが、北海道人だった。
『秋田県史』には、大正から昭和にかけて同県では、ほかの北越・東北諸県同様、県外への人口流出が多く、流出先の第一位は北海道だったとある。1930(昭和5)年には、100人あたり17人以上が県を離れ、なんと1年間に9万5千人以上が本道をめざした。その名残として道内には秋田という地名がいくつもあるし、現在その一角に札幌ドームがある旧農商務省月寒種牛牧場では、明治の開墾時に使われた飯場のなごりが、戦後まで秋田小屋と呼ばれていたという(『月寒十五年』釣谷猛)。下川沿村(現・秋田県大館市)の小作農家の次男だった小林多喜二が一家そろって小樽に移り住んだのは、1937(昭和12)年だ。

動物学者犬飼哲夫は随筆のアンソロジー『わたしの北海道』(上田満男編)で、道北の天売(てうり)島と焼尻(やぎしり)島をめぐる興味深い史実にふれている。ニシン漁場が北上を重ねて19世紀半ばからニシンの千石場所となっていく両島だが、庄内衆が入った天売では当初からニシン粕(肥料)を作るために片っぱしから木を伐って、ニシンを海水ごと煮上げるための燃料にしてしまった。一度裸になった森を再生することはきわめて難しい。苗木を植えても風よけになる木がないからだ。北海道の日本海側の海岸カシワ林はこうしてあらかた失われていくのだが、焼尻に入ったのは、秋田衆(男鹿半島の戸賀)。スギの名産地である秋田藩は古来森を大切にしてきたから、この島でも伐採を許可制にして、同時に植林を賢明に行った。百年経つと、二島の違いは大きかった。犬飼は、庄内衆は水田の民だったので山を知らなかった、と書いている。
庄内衆と秋田衆が道北との関わりを深めたのは、このシリーズで繰り返しているように、幕府にロシアに備えた北方警備を命じられたからだ。
他方でそもそも江戸時代、とりわけ越後や東北諸藩にとって蝦夷地の産物は産業経済に欠かせないもので、秋田藩も当然その例外ではない。『秋田県史』では、天保年間(1830-1844)には「松前物」と呼ばれた蝦夷地の海産物であるサケの塩引き、ニシン、身欠ニシン、カズノコ、コンブ、塩タラなどが盛んに移入されていた、とある。藩が食料として他領から移入する金額に占める割合は、19世紀のはじめには約37%。幕末にはそれが約半分にまで達した。

1859(安政5)年創建の道北の古刹、増毛町の潤澄寺(じゅんちょうじ)の境内には、小瀨源四郎という武士の碑が立てられている。1860(万延元)年に蝦夷地警備の大将として、警備と開拓を率いた秋田藩士だ。小瀨はこの年の5月に赴任するが、一年も経たない次の正月には病に倒れて命を落としてしまった。『増毛町史』は小瀨を、「知徳兼備の武将であった」と伝えている。
幕末から明治にかけて、この地に入った秋田衆が遺徳をしのんで小瀨大将顕彰会を作り、旧藩主の佐竹家からの援助も受けてこの碑を立てたという。当初はゆかりの家の農園の敷地にあり、それが増毛厳島神社の境内を経て、ここに安住の地を見た。

美しいフジの寺としても知られる潤澄寺の一角にある、秋田藩士小瀨源四郎の碑

のしかかる北方警備の負担

『増毛町史』や「総合交流促進施設元陣屋」の展示、そして『秋田県史』、『横手市史』(秋田県横手市)などをベースに、秋田藩の北方警備の歴史を綴ってみよう。
幕府が最初に蝦夷地全島を直轄したのは1807(文化4)年春。その半年前にはカラフトの番人の詰め所がロシア兵の襲撃を受け、直轄した直後には同様にエトロフやカラフト、リシリの番所が襲われていた。江戸の安寧がゆさぶられた、いわゆる「文化露寇」だ。この事態に幕府は、蝦夷地全島を幕府領として、松前家は知行高を減らされて梁川(現・福島県伊達市)に転封となった。
弘前藩(津軽藩)と盛岡藩(南部藩)は蝦夷地の警備を命じられ、つづいて秋田藩と庄内藩、さらには仙台藩と会津藩にも出兵の命が下った。このときマシケとルルモッペ(留萌)、テシオ(天塩)に入ったのは、弘前藩だ。この時代に幕府は、サハリンの呼称を北蝦夷地とあらためている。
1810年代に入り、日本側が捕えたロシア軍の艦長ゴローニンと、ロシア側に捕えられた高田屋嘉兵衛との捕虜交換が行われたり、ロシアの政策が西のクリミア戦争に向けられるようになると脅威が薄れ、蝦夷地の警備体制は縮小されていく。各藩の藩士たちも撤退すると、ほどなくして松前藩も復領した(1821・文政4年)。

しかしそれから30余年。
ペリー来航(1853年夏)以降、さらに大きな脅威が迫る。列強国は東アジア全域に勢力を伸ばし、阿片戦争の敗戦(1842年)によって清国は半植民地状態になっていた。日本もまた開国を強いられ、アメリカやロシア、イギリスなどとのあいだに不平等な条約が次々に結ばれる(安政五カ国条約)。幕府は1855(安政2)年の春に蝦夷地全島をふたたび直轄。箱館奉行のもとで、松前藩と東北4藩(仙台藩、秋田藩、盛岡藩、弘前藩)に警備が命じられた。
この中で最も負担が重かったのは仙台藩と秋田藩だ。仙台藩は元陣屋をシラヲイ(白老)に置き、そこから太平洋岸全域とシレトコ(知床)、クナシリ、エトロフまでの長大な海岸線を担当。ネモロ(根室)とアッケシ(厚岸)、クナシリ、エトロフに出張陣屋を据えた。秋田藩が命じられたのも広大なエリアで、積丹半島のカムイ岬からソウヤ(宗谷)、シレトコ岬まで。北蝦夷地も含む。拠点となる元陣屋はマシケ。マシケより北の要員は、冬にはマシケまで引き揚げることが許された。道北では比較的温暖なマシケの気候は、貴重だった。
秋田藩は文化露寇に際しても600名近い兵を箱館に送り込んでいたが、石高は約20万石で、仙台藩62万石の三分の一以下。にもかかわらず仙台藩と並ぶ重い負担を強いられたことになる。しかも嘉永年間(1848-1854)から続く凶作と、幕府から命じられた領地の海防のための台場の築造(八森や浜田)も、財政の悪化と人材難に拍車をかけていた。
まして今回担当するのは松前や箱館のはるか北だ。青年藩主佐竹義睦(よしちか)は老中に、500里を超える警備はあまりに重いのでせめて箱館と松前の警固にとどめてほしいと願い出たが、聞き入れられない。仙台藩主伊達慶邦(よしくに)は、警備の地を領地として所有させてほしいと伺いを立てた。領地となれば物産によって経済も動かせるだろう。しかしこれも認められない。

国道231号の工事(1970年)で確認された、秋田藩元陣屋第二台場跡。300匁(約1.1kg)の砲弾を使う大筒2門が装備されていた。いまは一門が復元されている

マシケの在地社会を経営する秋田藩

横手城に拠る藩士ら先遣隊50数名の手でマシケに秋田藩の陣屋建設がはじまったのは、1856(安政3)年の初夏。彼らは津軽半島最北端の三厩(みんまや)から松前に渡り、徒歩で噴火湾沿いを北上。石狩低地帯を日本海に抜けて(ユウフツ越え)、イシカリのアツタからは舟路。移動だけで2カ月を費やした。
計画された陣屋の規模は、敷地1万4400坪。18棟の兵舎に加えて、兵具蔵、弾薬蔵、兵糧蔵、雑用蔵、武芸所、医療所、風呂場などがあり、合計28棟。堀と塀をめぐらせたさらにその外側に足軽や職人などの長屋が75棟。建築材の多くは秋田から弁財船で運んだが、暑寒別川上流で伐られて流送されたトドマツなども土場に積み上げられ、そこからさらにソウヤ、北蝦夷地にも運ばれた。そこは山を知り木材の技術に長けた国柄だ。
人員は、大番頭以下、鉄砲頭と配下、旗奉行、番士(兵士)、足軽ら総勢400人以上が1年交替で赴任する。そのまわりに山仕事や大工、鍛冶をはじめとしたさまざまな職人や人夫、そして農夫たちもいた。

陣屋の中心は、現在は「総合交流促進施設元陣屋」がある一帯だ。石を積んで築いた、大砲を備えた台場は2カ所。緊急事態を告げる、煙(のろし)の設備もある。舞台が整うにつれ、藩士たちの訓練と警備の日々がはじまった。
ニシン漁でこの地にいた出稼ぎの和人や先住のアイヌたちは、この騒ぎにさぞや目を見はったことだろう。ある日とつぜんやってきたおおぜいの士(さむらい)たちが、驚くべき規模のまちづくりを目を疑うような急ピッチで進めていき、大砲まで構えたのだ。陣屋が動かしはじめた物や人や情報の新たな流れは、これまでの在地社会を一変させていく。

しかし最初の冬。大量の薪が準備されたが、厳しい寒さに耐えられずに70名もの死者が出た。多くは、野菜不足からくる水腫病だった。養生所を設けて医師を置き、越冬の心得が説かれたが、2年目の冬にも10名の死者が出た。陣屋に詰める最下層である足軽の多くは実は農民で、士分に準ずる身分を与えるから蝦夷地に移住せよ、という方策だった。だから厳しい自然環境に直面して、その士気はきわめて低かった

このシリーズで取り上げた庄内藩や秋田藩に限らず、各藩の蝦夷地警備には、財政にも人にも重たい負担が積もった。そのため幕府は1859(安政6)年の秋になってようやく、警備地の一部を領地とすることを認めて、開墾と警備の両輪でことに当たることを指示する。彼らにとって蝦夷地は無主の地だから、明治の屯田兵の原型がここにある。この時期、シリーズの前半で取り上げたように、ハママシケ(浜益)、ルルモッペ(留萌)、トママイ(苫前)は庄内藩の領地に変更され、北蝦夷の警備も、秋田藩単独ではなく仙台、庄内、会津、秋田各藩の交代制となる(1864・文久2年からは、会津藩主松平容保が京都守護職に任ぜられたので残り3藩の受け持ちとなった)。

「増毛町総合交流促進施設元陣屋」郷土資料室の展示。秋田藩の取り組みの全容を知ることができる

藩がいよいよマシケの在地社会を経営する。
秋田藩でこの新たな展開の責任者となったのが、先にふれた、横手の小瀨源四郎だ。源四郎は、1822(文政5)年横手(現・秋田県横手市)に生まれ、蝦夷地との関わりがより深まった天保年間、1842(天保13)年に家督を継いでいる。藩主佐竹一族につながる家筋で、常陸国(ひたちのくに)佐竹氏第8代貞義の子義春が初代とされ、徳川家康によって佐竹家が出羽国(秋田)に国替えされるまで、常陸の小瀨を拠点とした。『秋田武鑑』には、義春10代、石高234石と載っている。
源四郎は1860(万延元)年の初夏、新規の足軽90名ほか職人、人夫ら200名ほどを率いて赴任。これを機に、軸であるニシン漁を自前の体制で行うべく、それまでの請負人伊達屋を追放しようとしたが、箱館奉行に深く食い込んだ伊達屋はそれを巧みに回避する。秋田藩は、ならば、と運上金を3倍にしたが、伊達屋はこれをあっさり承諾した。マシケがどれほど豊かな地であったかがわかる挿話だ。
しかし年が明けた正月2日、源四郎は病に倒れて陣屋で急死する。わずか40歳だった。

秋田藩の蝦夷地経営は進められたが、国元では佐幕(幕府擁護)と勤王(反幕府)の摩擦はつのり、内外の状況はいよいよ緊張の度を増していく。一方で、風水害や大凶作、大火、命じられた京都警固などで藩のふところは火の車で、一揆も続く。幕府からの拝借米は14万石に達した。藩は、もはや財政と兵力の限界だと、北蝦夷地警備の免除を申し出た。時間を要したが、幕府は結局、北蝦夷地ばかりか蝦夷地の警備も免じることとし、マシケの領地を箱館奉行に戻すように指示をだした。有事の際の一帯の警備は、箱館奉行の指令で仙台藩と庄内藩が当たることになる。
撤退の命を受け、1867(慶応3)年4月5日(新暦5月8日)、藩士たちの帰還がはじまった。西郷隆盛や勝海舟が、江戸城無血開城の最後の詰めをしていたころだ。こうして秋田藩と蝦夷地の関わりは、北越や東北に戊辰の戦いが広がる前に切れる。戦争の最終局面まで苦しんだハママシケ(浜益)の庄内藩とは大きな違いだ。陸路がほとんどない土地での陣屋の建設から12年。秋田藩領となってからでも足かけ9年にわたった警備と開拓の営みは、ここに終わった。

「マシケ詰方日記」に描かれた、漁師小屋近くで打ち取ったクマの記録(複製)。胴回り6尺7寸(約203cm)とある(協力:増毛町教育委員会)

生死をかけた越冬の先にあるもの

秋田からの移住者の中にはマシケに残ることを選んだ人々もいたし、明治の開拓時代を迎えて、そうした縁につらなって秋田からこの地をめざした出稼ぎや移民も少なくなかった。港の整備と留萌川の広い沖積平野を活かして留萌の発展がはじまる大正初頭まで、マシケはニシン漁を中心にエリア第一の賑わいをもった。そして北海道に新天地を求めた明治の秋田衆が、志半ばで倒れた郷里の士(さむらい)のことを知り、遺徳をしのぶために石碑を立てる。そこには、いきなり切断された歴史をかろうじて象(かたど)り、なんとかして自分たちの糧にしようとする思いがあっただろう。道北では温暖の地とはいえ、予想をはるかに上回る厳しい冬のさなか、死の恐怖におびえながら人々がどれほどの切実さで春を待ったかは、現代のわれわれの想像を超えている。

しかし時代を大きく下った、漁村ではなく農村には、こんな言説も生まれていく。昭和初期に、江別の草分けのひとつとなった北越植民社のリーダーの家に嫁いだ、関矢マリ子の『冬ごもり日記』だ。書かれたのは昭和20年前後の冬の生活のこと。

「村では、人間らしい感慨にふけ得るのは冬だけであろうか。過労の積み重ねに明け暮れる春から初冬まで夢中できて、雪が来ると急に人なつかしくなる。私たち村の女のささやかな社会生活は雪の中で始まる。」

「疲労の回復と共にいろいろなことを語り合える冬を、ことに正月を待つ村の心は大きい。」

蝦夷地警備の越冬で多くの死者を出したのは、もとより秋田藩だけではない。文化露寇の時代の斜里(1807~08年)では、津軽藩士70余名が死亡したという悲惨をきわめた記録もある。内地からの和人の移住は、そうした時代から百年以上の試行錯誤を経て、関矢の境地に達したのだろう。それは単に衣食住の技術に関わることではなく、土地と生活の関わりの意味を自ら深く耕した結果でもある。
はからずも異境の地に渡り、自分とその土地の意味を考える術も余裕も持てなかった幕末の移住者たちに、21世紀のわれわれはどのようなまなざしを向ければ良いのだろうか。その問いや議論に、なお地域史のフロンティアがあるのだと思う。

増毛町永寿町。秋田藩撤退の際、増毛に留まることを選んだ足軽などの軽輩たちが暮らした一帯。当初は思いを込めた「永住」という地名だったが、のちに「永寿」となった