もうひとつのブームタウン - 浜益-2

蝦夷地の近世を駆け抜けたまち

浜益(石狩市)から送毛の断崖を望む。その奥に石狩湾西岸の山並み

アイヌを主語にした北海道史も構想されるようになった現在。この島の歩みはいっそう多様な表情を帯びるようになった。ならば、幕末の侍たちを主語にすれば、北海道はどう描けるだろう。比較的知られている仙台藩の亘理伊達家や岩出山伊達家の集団移住にずっと先駆けて、幕府に命じられて蝦夷地に渡った人々がいた。
谷口雅春-text&photo

地名は地名と出会う

もし君が幸運にも若い日にパリで暮らすことができたなら、その後の人生でどこに行っても、パリのまちはついてくる。パリは「移動祝祭日」なのだから。
アーネスト・ヘミングウェイの『移動祝祭日』(A Moveable Feast)には、こんな文意の題詞が掲げられている。そこが特別な土地であるのなら、人は誰もが地名とその名が意味する世界を持ち運ぶことができる—。この一節は、土地と人間の関わりや距離感をめぐる、複雑な物語の入り口になる。

舞台は、前回につづいて北海道の西海岸。石狩市の浜益(はまます)。
南下をうかがうロシアに備えるために幕府から北方警備を命じられた東北6藩のうち、庄内藩(城下は現・山形県鶴岡市)が、現在の石狩市浜益区川下に本陣を建設することになった。
1861(文久元)年。藩士や移住農民や職人合わせて約500名による警固と開墾の取り組みがはじまるのだが、その史実を雄弁に伝える石碑が、川下八幡神社にある。荘内から運ばれたこの碑は、もともとは陣屋の奥に建立された社にあったもので、明治になって移された。社は、鎮守(土地を護る神)を祀るために庄内から祭神を迎えた八幡宮だ。
碑面に彫られた文字は、「鳥海山 湯殿山 羽黒山」。
これは、ふるさと庄内平野を遠くぐるっと囲んで広く信仰を集める名山の名前。酒田の湊からはるか北方の地にはしなくも身を置くことになった人々は、せめて心の根は庄内の地に置きたいと、名高い神でも詩歌でもなく、ただシンプルに3つの地名をここに刻み、崇敬(すうけい)した。地名がもつ意味と霊性をなまなましく実感させるエピソードだ。

川下八幡神社(石狩市浜益区)にある、庄内藩ゆかりの石碑。ふるさとの3つの山の名だけが簡素に刻まれている

他方で石狩湾東岸には、北東端の雄冬(おふゆ)まで、とても印象的なアイヌ語地名が連なっている。石狩川河口から北へ、厚田(あつた)、濃昼(ごきびる)、送毛(おくりげ)、昆砂別(びしゃべつ)、浜益、幌(ほろ)、雄冬。
厚田は、衣服の材料になるオヒョウニレの樹皮(アッ)を採るという意味のアッタ。送毛は、野草のオクリキナ(ギボウシ)から。濃昼はポキンピリ、岬の陰を意味し、昆砂別は、石が流れ出る川を指すピサンペッ。浜益のもとは、ニシンの時期にカモメが群がる場所を意味するマシケイ(カモメのところ)。しかし当初あった松前藩の運上屋が北に移転したのでそこが増毛となり、ここは浜の字をつけてハママシケ、のちに浜益となった。幌は、ポロクンベツ(ふたつあるうちの大きい方のクンベツ川)の頭をとったもの。雄冬は、燃える意味のウフイ。海岸の断崖に赤い地層が目立つからだという。

出羽の石に出羽の山々の名を刻んだ碑を持ち込んだ彼らの目に、前回ふれた、アイヌのユカの舞台とも伝わる黄金山(こがねやま)をはじめとした、ハママシケの海や山々はどのように映っただろう。風景論では、人が心を寄せる風景は、内面を外部に投射した映像にほかならないという議論がある。はるばる持ち運んだ出羽の風土の縁(よすが)と未知の蝦夷地の重なりは、はたしてどんな絵を結んだことだろう。

送毛の山道を北へ進むと、昆砂別の浜が見えはじめる。江戸時代から、断崖に囲まれたこうした浦ごとに、ニシンを中心にした和人とアイヌの営みがあった

新道を使ってハママシケへ

ロシアがカラフトへの進出を強化した西蝦夷地の警固を固めるために、幕府は1859(安政6)年、蝦夷地にすでに配置していた松前藩、津軽藩、南部藩、仙台藩、秋田藩に加えて、庄内藩と会津藩にも北方警備を命じた。太古から先住していたアイヌとは無関係に、蝦夷地は幕府のものであるという一方的な前提で、領地を新たに与えるから、開墾しながらロシアへの軍備を固めろ、というわけだ。庄内藩主酒井左衛門尉(さえもんのじょう)は、ハママシケ領、ルルモッペ領、テシオ領、テウレ・ヤンゲシリ(天売島・焼尻島)を新たな知行として受け取り、さらには積丹半島西岸のヲタスツ(歌棄)までの長大な海岸線を防衛することになった。

1860(万延元)年の年明け、庄内藩は鶴岡の藩校致道館に蝦夷拝領地取調所を開設。大事業の取り組みが具体的にはじまる。亀ケ崎城代の松平舎人(とねり)がトップの総奉行となり、鶴岡と江戸、箱館奉行との調整をはかりながら、春には藩の役人らによる現地調査と、それまでハママシケ場所(産物の交易所)を経営していた箱館奉行から拝領地を受け取る手続きが進められた。
松平らは、陸路で秋田、弘前を経て青森で乗船して箱館へ向かう。そこから馬で噴火湾沿いを北上して、オシャマンベからクロマツナイを抜けてから日本海側へ。イソヤからは徒歩で険しい雷電峠を越えてイワナイ。そこからまた歩いてヨイチ、オタルナイ(小樽)、イシカリと進み、イシカリからは海路ハママシケ(浜益)をめざした。要地ごとにあった幕府の出先と、そこにいる和人やアイヌの協力が欠かせなかったことはいうまでもない。
本陣屋を建設する浜益川河畔の森では開墾適地を選ぶ測量が進められ、ニシン漁の出稼ぎ漁夫を使って、移住する農民のために原野を拓いて小屋も建てられる。夏には建築資材や食料などといっしょに職人や郷夫、農夫たちの第一陣がやってきた。郷夫とは、半農半士としてこの地で定住する意欲をもった足軽たちだ。森を切り開いて陣屋の建物群の建築が進んだ。
翌1861(文久元)年春。松平に替わって現地の責任者(副奉行)となった家老酒井了明(のりあき・通名で玄蕃)が入り、いよいよ警備兵や農民たちがやってくる。

2代目のリーダー、副奉行酒井の一行の場合は、イシカリからさらに徒歩で現地をめざした。アツタを経てゴキビルに着くと、番屋には番人のほかに本陣屋から足軽やアイヌが迎えに出ていた。さらにオクリゲの山道を登りビサンベツ(昆砂別)に下りると、そこにも藩士らが待ち、浜益川河口を舟で渡って、高張(たかはり)提灯が灯る中を本陣に到着したのは、城下の鶴岡を出てから37日目のことだった。

石狩湾東岸の山道のことにふれておこう。
1855(安政2)年に蝦夷地を再直轄すると、幕府はインフラ整備のために道路を開く調査を進め、計画が立てられる。もちろん未踏の原始林に道を開くのではなく、ベースには、太古からのアイヌの移動ルートがあった。
箱館奉行堀利煕(としひろ・通名は織部)は提出した意見書で、まず太平洋側のオシャマンベからクロマツナイを経て日本海側のスッツ、イソヤに新道を開き、そこから北のハママシケ、マシケへ伸ばす。そこから蝦夷本島の北端ソウヤをまわってシャリまで、と提言したが、幕府にそんな予算はない。そこでニシンから作る金肥(ニシン〆粕)を軸に大きな商いをしていた場所請負人たちに道路を開かせ、それを寄付させることにした。厳しい自然を相手にリスクの高い商いをまわしていた彼らだが、勝ち残った者には松前藩の御用金を引き受けるほどの財があった。ニシンの漁場は毎春大量の出稼ぎ人を集めていたから、労働力にもこと欠かない。
こうして、アツタを越えると船で行くしかなかった難所であるゴキビルや、ハママシケの北のオフユに山道が作られた。ゴキビルの断崖の上に道を開いたのは(濃昼山道・約11km)、アツタを請け負っていた近江商人、浜屋与三右衛門。標高1千mを越えるピークをもつオフユ(増毛山道・約27km)の道は、前回もふれたハママシケの請負、伊達林右衛門によるものだ。この2本の和人の道は、2018年に北海道遺産に登録された。

江戸と蝦夷地を結んだ商いから起ち上がった伊達屋は、マシケとハママシケが分割される前の18世紀末からマシケ場所を請け負っていたが、増毛山道を作った3代目の時代が絶頂期だ。紀伊出身の栖原(すはら)屋とともに山越内(現・八雲)やカラフトやエトロフにも多くの漁場を持ち、マシケを守る秋田藩の御用商人にもなった。林右衛門はさらに、松前の藩士並(永世士籍)となり、勘定奉行にまで抜擢され、12代藩主松前崇広から「翁記」の名を与えられている。
最初のリーダー松平舎人やその後を継いだ酒井玄蕃らはみな、現代人にとっては原始の道かもしれないが、和人によって開かれたばかりの蝦夷地の新道を使ったのだった。

庄内藩ハママシケ陣屋跡地。復元された大手門以外の建物群はないが、解説板が数カ所にある

維新の嵐に翻弄される庄内藩

『浜益村史』などをもとに、移住とまちづくりのようすをなぞってみよう。
ハママシケに入ったのは副奉行酒井了明(のりあき)以下、警備のための兵士が物頭(ものがしら・足軽大将)1名以下足軽40人、郡奉行や目付がそれぞれ1名、兵糧や土木工事とその予算を管理する幹部の下に平侍20人、医師2人、大工の棟梁1人、衣食住にかかわるさまざまな職人や郷夫40人、その他の従者82人で、計193人。脇本陣のルルモッペ(現・留萌)には57人、トママイ(苫前)に161人、テシオ(天塩)には29人だ。そしてこの陣容に、開墾に挑む農民たちが加わる。

郷夫や農民、そして大工などの職人たちは、かなりの厚遇をかかげてひと月あまりで募集された。まず出発前に3両の手当てが出る。移動は家財道具含めて無料で、農具や世帯道具のない者は支援するし、現地の小屋も用意され、食料として5年間は米が支給される。畑や水田の造成にも手当てが出た。さらに、どんな農業ができるのかわからないものの、種や種もみは庄内のものが与えられる。警固のための武器や米、農具、家財などは庄内の酒田からハママシケまで、一本マストに横帆一枚の弁財船で運ばれた。

こうして開墾がはじまり、畑を拓いてはアワ、ヒエ、大豆、小豆などが蒔かれた。何より恐れたのは寒さだったが、最初の冬もなんとか無事のりきることができた。3年目には浜益川から水を引いて、少量だが稲も実る。藩の方針はなんとしても米を作ることだったが、寒冷地の現実は厳しい。藩からの扶助米は5年で切れるから、農民たちの食料への不安はしだいに募った。
3年目、交替の目付役として物頭(足軽大将)の戸田文之介が長男を連れて赴任する。20代前半のその息子は藩士たちに武術や軍事を教えたが、のちに開拓使の幹部となる松本十郎だ。1865(慶応元)年には、リーダー酒井了明が4年の任務を終えて庄内に帰国する。

しかしそのころ、内地は大きな動乱に直面していた。
開国がもたらした国内の混乱が、260余年つづいた幕府の統治体制を根底からゆさぶっていたのだ。巧みな経済政策などで力を蓄えた薩摩藩や長州藩を中心に、朝廷とのつながりを深めた勢力が倒幕の流れを起こす。1867(慶応3)年秋にはついに徳川家が政権を朝廷に返上(大政奉還)。薩長を軸とする明治政府が立ち上がった。
新政府は、欧米列強に抗するためになおも国の古い枠組みを根底から解体しようと、国内を新政府側と旧幕府側、ふたつの勢力へと分断してしまう。そしてこの年の暮れ、江戸の市中警備を担っていた新徴組を束ねる庄内藩の屯所が、薩摩藩に銃撃された。新徴組とは、京都で治安維持にあたった新撰組と同根の、江戸市中の倒幕の動きをおさえる浪士団だ。
狡猾に挑発された庄内藩士と新徴組は、薩摩藩の江戸藩邸を攻撃。この流れが、東北諸藩にとっては理不尽きわまりない戊辰戦争(1868-69)へと歴史を動かすことになる。徳川家康第一の功臣と言われた酒井忠次を祖とする庄内藩は、譜代大名の名門。朝敵の汚名を一方的に着せられても、会津藩や仙台藩とともに、奥羽越列藩同盟の中心として戦うしかなかった。

だがここに至るまで、庄内藩の内部も一枚岩だったわけではない。幕府存続をめざす、主流である佐幕派と、朝廷を尊重する勤王派(公武合体派)との激しいあつれきがあったのだ。勤王派の中心にいたのは家老の酒井右京で、ハママシケの警固と開墾を率いた酒井了明(のりあき)の兄。了明の前任の松平舎人も改革を志向する勤王派だった。幕府の第2次長州征伐(1866年)が失敗に終わると、主流派は勤王派の台頭を恐れ、彼らを冷酷に一掃した(丁卯の大獄)。

増毛山地に連なる山裾を拓いて作られた庄内藩ハママシケ陣屋跡。原野となったいま往時をしのぶには、知識とかなりの想像力が必要だ

9年で切断されたハママシケ陣屋の歴史

あろうことか幕府が倒れ、国元が存亡をかけて戦うとなると、もはや北方警備どころではない。藩は蝦夷地の藩士、農民ら全員の引き揚げを決めた。この時点でその数730余人。戦争が目前に迫ったの混乱の中で、火急を要するこの困難な仕事を任されたのは、丁卯(ていぼう)の大獄で入獄中の池田駒城(くじょう)だった。池田らは、明治期に大実業家・政治家となる箱館の柳田藤吉を通して、箱館在住のプロシア人ガルトネルの船を調達。ハママシケ、ルルモッペ、トママイにおもむき、3回の航海で、ほぼ全員を酒田まで運んだ。この挿話だけでもぶ厚い歴史小説が書けるだろう。
このガルトネルは、プロシア領事館にいた官吏であり商人、コンラート・ガルトネルのことだ。戊辰戦争の最終局面、箱館戦争の混乱の中で七重村(現・七飯町)に広大な農場用地を借り受けることに成功してのちに大問題となる、あのラインハルト・ガルトネルの弟だ。

陣屋跡には簡単な遊歩道が刈られ、建物跡の掲示板もあり、盛り土の跡や建物跡が見てとれる一画もある

幕末から明治。歴史の激動の最前線にあったハママシケ陣屋からは、なんと壮大に織り上がった史実の断片が見えてくることだろうか。
その小さなまちの歴史は、わずか足かけ9年。500余名が浜益に渡り、本陣屋のほかに8つの集落(柏木原村、吉岡村、清水村、関村、関新田、山崎村、阿弥陀村、黄金村)を作った庄内藩の取り組みの歩みは、明治の幕開けの前にいきなり切断されてしまった。
一方で、太古からこの地に暮らしていたアイヌの人々や、松前藩の時代から行き来していた和人の出稼ぎや定住者は、この顛末をどのように見ていただろう。本陣屋の奥にあった庄内由来の八幡神社は、その後の人々の手で大手門の外に大切に移築され、現在の川下八幡神社となる。1913(大正2)年には村社に列せられ、文字通り地域の暮らしに欠かせない場となった。
そして現在。庄内藩士たちが残した史実や痕跡は、「荘内藩ハママシケ陣屋跡を中心とする関連遺産群」として、広汎な市民グループ「石狩遺産プロジェクトM」が定める「石狩遺産」に選定されている。

庄内藩が掘った運河が原型の水路のまわりには、21世紀の豊かな実りがあった