箱館戦争と箱館病院を語るもの。

高松凌雲の顕微鏡

写真提供/市立函館博物館

写真提供/市立函館博物館

箱館戦争(1868-69)の現場で実際に使用されたとされる、医師高松凌雲(1836-1916)の顕微鏡。

1836(天保7)年に筑後に生まれた高松は、石川桜所(おうじょ)に蘭医学を、緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、やがて将軍徳川慶喜の侍医のひとりにまでなる。1867(慶応3)年、慶喜の異母弟である徳川昭武が幕府使節としてパリ万博視察に洋行するさいには随行医となり、フランス、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなどをまわり見聞を広めた。万博が終わると幕府からパリでの医術修業が命じられる。このとき外科用手術道具と顕微鏡などを購入したという。
戊辰戦争の勃発で呼び戻されると江戸で榎本武揚と会い、そのまま蝦夷地へ。幕末のエリート医師が、血なまぐさい箱館戦争のただ中に身を置くことになった。箱館病院頭取となった凌雲は、患者が諸藩にわたって混乱するので病院の全権委任状を得て、旧幕府軍、明治新政府軍両軍の負傷兵に分けへだてなく手当てを施した。このことで彼は、赤十字精神を日本ではじめて実践した人物となった。

この顕微鏡のほかに、フランス製とイギリス製の外科用器具も函館博物館に保存されている。

終戦後高松は、東京に戻って鶯渓病院を開院した。開拓使への出仕など新政府からの重職の誘いをことわり、町医者として生きることを選んだのだった。さらに、貧民を無料で診察する組織の設立を医師会に提案。彼の強い思いは多くの支持を集め、1879(明治12)年、日本の民間救護団体の原点となった「同愛会」が創設された。同愛会は医師による救療社員と篤志家による慈恵社員によって構成されていた。慈恵社員は千名を超え、会によって診察を受けることができた貧民は70万人以上に達したという。

谷口雅春-text