学芸員の「根室海峡エピソード」コラム~3

ニシベツ献上鮭

加賀屋氏大宝恵[覚帳]御上り鮭仕立方

石渡一人(別海町郷土資料館・加賀家文書館学芸員)-text

別海町の中央部を流れる全長約80キロの西別川の源流は、摩周湖を水源としている。直接、湖から水が流れているわけではないが、西別岳の地下を浸透し、約3~5カ月の時間を経て、麓に位置する虹別の水産孵化場から湧き上がる。水源から蛇行しながら悠々と流れる様子は、原始の姿をとどめている。
ニシベツの語源は、アイヌ語で「ヌー ウシュ ベツ」。豊漁川という意味で、その名の通り、鮭の上る川として昔から知られていた。西別川の鮭は、古くは先史時代にさかのぼり、古代人が食糧として捕獲していた。このことは、浜別海遺跡の存在からも容易に伺える。その後、根室場所の請負人となった飛騨屋久兵衛が天明年間(1781~1788)に鮭塩引を生産した。寛政12 (1800) 年、幕府の納戸頭取格戸川安論が国後へ出張の際、西別川の塩鮭を将軍に献上したところ、毎年献上するようにとの達しがあり、根室場所の重要な行事として場所請負人たちによって幕末まで続けられた。この年、蝦夷地を測量していた伊能忠敬がニシベツ以北の測量を断念したのは、鮭漁が忙しく、人手や船を手配することができなかったからである。
根室場所請負人の下で働いていた加賀伝蔵も、自身が書き残した「加賀家文書」の中に「ニシベツ献上鮭」製造のことが記録している。製造の手順として、①根室場所請負人の支配人・通辞・番人などが根室詰合の役人から献上鮭製造を命じられニシベツ(別海町本別海)に出張する。②鮭を捕獲し鼻先から尾までの長さが2尺2寸で、品質最上の鮭を選ぶ。③献上鮭仕立蔵にて、役人が立会い不浄などを吟味し清浄にし塩漬けにする。④箱詰めし送り札を付ける。⑤難破した場合を想定し3艘から5艘に分けて江戸へ向けて出航させる。⑥その他、製造に関する決まりとして、役人他立会いの者は、朝湯につかり身を清め、麻の裃を着用する。取扱中に不幸などがあれば直ちに交代させる―などである。
時代が変わり明治になると、北海道開拓使は西別川河口に官設の別海缶詰所を建設した。ニシベツの良質な鮭は海外にも輸入され名声を上げていた。現在は、「西別鮭・献上造り」で味わうことができる。

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