メナシへの遙かなまなざし -1

帝国を猛進させたもの

江戸時代には国後島に渡る中継点となっていた野付半島

日本列島の北東に位置する北海道東部は、「中央」から見れば最北東だろう。しかしそこはかつて千島列島への入り口であったし、現在も、ユーラシア大陸の最北東部を考えるための足場となる。17世紀のロシア帝国の探検史から、メナシ(東)をめぐる旅をはじめよう。
谷口雅春-text&photo

日本史を動かした毛皮への欲望

松前藩の家老で高名な絵師だった蠣崎波響(1764-1826)の「夷酋(いしゅう)列像」には、道東のアイヌのリーダーたちが異形(いぎょう)の存在としてとても印象的に描かれている。彼らは、非日常を劇的にあらわす記号として清朝の官服やロシア軍人の外套などをまとっているが、加えて異彩を放っているのが、クマやアザラシなどの毛皮だ。高温多湿な日本の風土で、北方動物の毛皮はなじみの薄いエキゾチックな産物でありつづけた。しかし18世紀に日本の歴史を大きく動かしたのはほかでもない、国策として毛皮を求めるロシア帝国の野望と東への猛進だった。

中央シベリア、バイカル湖の西にあるイルクーツク(北緯52度/東経104度)の市章の原型は、クロテンをくわえたオオカミだった。それは、かつてロシア帝国が、毛皮を求めて東へと拡張を重ねた歴史を刻印するアイコンだ(現在の市章はオオカミから架空の猛獣へと姿を変えている)。日本の気候風土では毛皮への強い志向は生まれなかったが、ヨーロッパの王侯貴族や上流階級にとって、テンやオコジョ、アカギツネなどから作る上質な毛皮は、地位と豊かさをあらわす重要なファッションであり財宝でありつづけ、その生産と流通は巨大な経済を動かした。そして乱獲のあまり、すでに16世紀には西ヨーロッパと西部ロシアでは、毛皮獣がさっぱり見られなくなってしまったという(『緑の世界史』クライブ・ポンティング』)。そのためにロシア帝国は、ユーラシア大陸を猛烈な勢いで東進して、毛皮資源とそのマーケットの開発に熱中した。満州をルーツとする中国の清王朝にとっても毛皮はきわめて価値の高い産物だったから、ロシアは北東アジアでも毛皮を軸に巨大な経済を動かそうとした。
その動向がやがて、千島列島でロシア人とアイヌ、そして日本人を接触させることになる。そこからさらに、ペリー艦隊の来航(1853年)を決定的な要因として江戸幕府が開国を強いられる、日本の近代の幕開けが引き寄せられることとなった。
北構保男『千島・シベリア探険史』や犬飼哲夫『北方動物誌』などをもとに、この時代の北東アジアを俯瞰してみよう。

現在のイルクーツクの市章。トラをベースにした獣がクロテンをくわえている

ヨーロッパや清の宮廷や上流階級を魅了しつづけたクロテン

帝国は東をめざす

ロシアが帝国の体をなして東方への拡張をはじめたのは、雷帝と呼ばれる初代ツァーリ(君主)、イヴァン4世の時代。16世紀半ばのことだ。大資本家の貴族ストロガノフ家や勇壮な軍事集団コサックなどが表舞台に登場して、勃興期のロシアがいよいよ天を突く巨体をゆさぶるように立ち上がる。西シベリアで勢力を持っていた、モンゴル帝国の初代皇帝チンギス・カンにつながるシビル・ハン国を亡ぼしてからは、怒濤の東進を止められる者はなかった。

ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがアフリカの希望峰をまわってインドに到着したのが15世紀末。ポルトガルは、16世紀前半にはアジアに植民地を広げながら東洋貿易を独占していた。一方で同じ15世紀末、コロンブスはスペインの船隊を率いて大西洋を西進。1492年に西インド諸島に到着して、アメリカ大陸進出の端緒を開く。やがてポルトガル人マゼランが南アメリカ南端をまわって東から太平洋へ入り、1560年代には、ヨーロッパ人の西回り航海と東回り航海がアジアでつながった。ヨーロッパの認知マップに地球をひとまわりすることが意識されるようになる。そんななかで巨大な未知として残っていたのが、ユーラシア大陸の最北東部だった。

ユーラシアとアメリカの境界はどうなっているのか? 陸続きなのか、海が隔てているのか? ロシア帝国の地理学者や事業家たちにとってそれは重要な問題だった。シベリアを進んだコサックたちは17世紀初頭にはトムスク(北緯56度/東経84度)、エニセイスク(北緯58度/東経92度)などの拠点を築き、1630年代になって、レナ河水系の中央部に砦を建てる。これがやがてシベリアの拠点都市ヤクーツク(北緯62度/東経129度)となる。
バイカル湖の北に源流域をもつレナ川をはじめ、シベリアでは大河が南北に走り、おびただしい支流が東西に水系を伸ばしている。コサックたちはその水系をたくみに上り下りしながら東をめざした。17世紀半ばにはブリヤート蒙古人を制圧して、シベリア開発の前線砦となるイルクーツク(北緯52度/東経104度)をバイカル湖近くのアンガラ河畔に築いた。
ヤクーツクから東南に進んだ一派がオホータ川を下って河口域に、来るべき海路の拠点を設けたのもこの時代。ここがオホーツク海の名前のもとになる港町、オホーツク(北緯59度/東経143度)だ。19世紀にウラジオストク(北緯43度/東経131度)が開かれるまで、オホーツクがロシア極東の中心地となる。

コサックらは毛皮を求めて東へ進みながら、南への進出も企てる。しかしシベリアを4300キロにわたって東進する大河アムール川の南には、強大な清朝があった。両国は断続的に衝突を繰り返したが、1689年にネルチンスク条約が結ばれ、ロシアはアムール川流域全体を放棄して、スタノヴォイ山脈より北側を領土とした。南進がかなわなくなれば、東進へのベクトルはさらに力を増していく。オホーツクからカムチャッカまでの海路が開かれ、ここで造船も行われるようになる。なにしろ一帯には無尽蔵の森林資源があった。
もちろんロシア人たちは、無人の山野を突き進んだのではない。シベリアのいたるところには、先住の民族の営みがあった。しかし彼らは躊躇(ちゅうちょ)なく、行く手を遮ろうとする者は斬り捨てた。

1648年。ヤクーツクを拠点とした探検家たちはのちにベーリング海と呼ばれる海にそそぐアナディリ川を下り、河口までたどり着いた。これでついに大陸間の海峡の存在が事実上明らかになる。どうやらユーラシア大陸とアメリカ大陸のあいだは海で隔てられているのではないか―。
17世紀末以降、探検家たちはアナディリ川河口域をはるか南に下り、カムチャッカ半島を発見する。そして探検家ウラジミール・アトラソフが半島の南端に立ったとき、洋上に千島列島の島影があった(アライド島のアライド山2334メートル)。1697(元禄10)年のことで、これがロシアによる千島列島の発見とされる。
アトラソフはカムチャッカのイチャ川でカムチャダール人(イテリメン)にとらわれていた日本人伝兵衛を保護して、千島や日本のことを知った。江戸を中心にした太平洋の船運では、嵐で遭難した船が黒潮に乗って千島やカムチャッカまで漂流することがあったのだ。

北東シベリアの探検事業は、いよいよロシア帝国の威信をかけた国家事業へと発展していった。中心にいたのは、ピョートル大帝だ。ピョートルは1694年に単独在位の権力をつかむと、国情も安定する。時代遅れの大国がヨーロッパの先進国に追いつくためにさまざまな政策を動かしたが、そのひとつに北東シベリアへの進出があった。ヨーロッパ世界は、近代科学や理性によって世界の不思議に分け入ろうとする啓蒙の時代を迎えている。ピョートルもまた、その精神を体現していた。

ユーラシア大陸とアメリカ大陸の境界域に名を残す探検家ベーリング

ベーリング海峡の発見

次に登場するのが、デンマーク生まれのロシア海軍軍人・探検家のヴィトゥス・ベーリング(1681-1741)だ。ユーラシア大陸とアメリカ大陸の境界を突き止めろという皇帝の命を受けたベーリングは、大規模な探検隊を組んで1725年2月にペテルスブルクを出発した。荷馬を連ねて秋まで延々と道なき道を進み、バイカル湖北のイルムスクで越冬して翌年春にレナ川を下り、6月にヤクーツク着。さらにここからオホーツクまで、きわめて厳しい悪路がつづいた。食糧と装備を積んだ600頭以上の荷馬のうち到着前に4割が行き倒れたという。隊員たちも寒さと飢餓で倒れたり逃亡するものが続出。百台はあったソリもオホーツクに到着したときには40台になっていた。到着後の隊員を収容する施設もあるはずはなく、自分たちでそこで作らなければならない。野心と使命感に燃えたベーリング隊長はともかく、この時代、隊員たちのモチベーションを維持できたのにはどんな手法があったのだろう。大量の物資の困難な輸送や基地の設営といった兵站の高度なノウハウも、現代からは想像が難しい。探検しながら現地で船を作ってしまえることからも、彼らは単に体力自慢の荒くれ者の集まりなどではなく、中には当然、高度な技術をもった専門家集団がいたのだった。

彼らはオホーツクから船でカムチャッカ半島西岸のボルシェレックに着く。半島を陸路横断して東岸のカムチャッカ河下流に基地を設営。そこから船で北をめざすことになる。半島横断では厳冬の山中を犬ぞりで進むが、流域には先住民カムチャダール(イテリメン)の人々がいて、隊は有無を言わせず彼らとその犬を酷使して、生活を破綻させてしまった。
東海岸のニジニに着くとさっそく船の建造に取りかかる。食糧として先住民たちからトナカイも調達して、イラクサなどで編んだ漁網で魚を獲り、海水を煮て塩を作った。果実や甘味野菜で酒まで作る。すべては自給自足だ。こうして6月には探検船セント・ガブリエル号が進水。40名が乗り組み、1年分の食料を積んだ船は、1728年夏にカムチャッカ河口から北をめざした。皇帝の命を受けてペテルスブルクを出発してから、すでに3年半が経っていた。
8月頭には北緯61度18分の入江でチュクチ人に接触して情報を入手。チュクチ岬をまわって北緯64度5分に達した地点で、ベーリングらはアジアとアメリカが海峡で分かれていることを確信する。カムチャッカ半島から東岸沿いの、北洋の最北部にいたる地理が明らかになった。

地図データ©2019 Google, SK telecom、 赤い部分をカイが書き込み

探検家たちの壮絶な人生

1740年。海峡とアメリカ最北部の詳細な地理を解明するために再び極東にたどり着いたベーリングは、帆船セント・ピョートル号の建造など現地での長い準備を終えて、2回目の探検に挑む。今度はオホーツクから、77人の隊員がカムチャッカ半島をまわって北東をめざそうというもの。そして、容赦なく牙をむく北洋の強風と荒波を進む厳しい航海の果てに、ついにカナダ沿岸に達することができた。ヨーロッパ人としてはじめての、アメリカ大陸北部、西海岸への到達だった。
スペイン人がメキシコからカリフォルニアにまで北上してそこをスペイン領と宣言したのは1542年。アメリカの独立は1789年で西部への進出はそのずっとあとだから、西洋人にとって現在のアラスカやカナダ西北部はまったく未知の世界だった。

しかし一行は、寒さと栄養不足のために全員が壊血病に悩まされる事態となる。アリューシャン列島沿いに必死に西進してカムチャッカ半島東岸に戻ろうとしたが、半島東のコマンドルスキー諸島に接近した地点で恐ろしい暴風に巻き込まれ、船は難破。隊員たちは無人島に命からがら流れついた。だが寒さと飢えで次々に死亡。ついにはベーリングも命を落としてしまう (1741年12月)。残った者は島の動物を食べてその毛皮を着て春を待つしかなかった。
寒期があけると彼らは船を作ってオホーツクにたどり着き、シベリアを経て帰路についた。77人中31名が死んだ過酷な探検だった。

このときベーリング隊の支隊であったマルチン・シュパンベルクは別動隊としてオホーツクで3隻の船を確保して、千島列島を南下しながら日本探検に乗り出している。千島中部のウルップ島まで行ったが食糧が底をついたのでいったん戻り、翌1739年秋に再挑戦。このときは北緯38度まで南下して仙台湾に接岸して、日本人と接触した。

ベーリングの60年の生涯は、死亡地と埋葬地がわからないほど苛烈なものだった。またロシア人として最初に千島列島を発見したウラジミール・アトラソフは、帝国のために命をかける軍人でありながらも多くの犯罪にも手を染め、その代償として探検にのめり込み、最後は部下たちの反乱によって殺されたという。考古学者北構保男は『千島・シベリア探険史』で、シベリア探検の傑出した指導者は大方そういう人物だったろうと書いている。
今日の、フェアプレイのスポーツ精神を基盤にしたような探検とこうしたシベリア探検は、似て非なるものだ。彼らを動かしたのは、帝国の拡張と充実をひたすら欲望した大帝の命令であり、毛皮がもたらす一攫千金のチャンスへのすさまじい執念だった。

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