メナシへの遙かなまなざし -3

ぶつかり合い混じり合う経済と民族

オホーツク文化が擦文文化に強い影響を受けて生まれたトビニタイ文化。その名のいわれとなった羅臼町飛仁帯

千島列島が日露外交の最前線なっていった時代。それは、ロシアやアメリカ、イギリスがラッコの密猟に血道を上げた時代でもあった。一方で構図を広げれば、極寒と暴風の北洋に火山が連なる千島列島は古来、多様な人々の営みが行き交った巨大な回廊だった。
谷口雅春-text&photo

千島列島の6000年

近年解明が進んでいる、千島列島の古代史をひもといてみよう。テキストは、カムチャッカ半島と千島列島をテーマに昨年秋に開かれた「北方民族文化シンポジウム網走」(北方文化振興協会)の報告書だ(『環北太平洋地域の伝統と文化3・カムチャッカ半島・千島列島』編集/北海道立北方民族博物館)。ワシントン大学(米国西海岸ワシントン州)の文化人類学者ベン・フィッツヒュー教授の報告によれば、古くは約6000年前(縄文早期)の遺跡が南のエトロフ島や最北のシムシュ島、パラムシル島から見つかっている。しかし南北の両者は出会うことはなかった。縄文時代の後期や晩期になると(約5000〜2500年前)、中部千島にも南(北海道)から人々が進出する。続縄文時代になると(約2500〜1300年前)千島列島のほとんどの島に人間の営みがあり、カムチャッカ半島の人々との接触も深まる。全体の人口は約2000年前にピークに達したと考えられている。

1300年〜600年前になると、宗谷海峡からオホーツク沿岸域を南下してきたオホーツク人が広がっていった。北海道史に5世紀ころに登場して9世紀をすぎると姿を消してしまう、海洋の狩猟民族だ。彼らは短いあいだに網走や知床、千島列島にまで達して、その後は道東と道北のあいだを行きつ戻りつしていたとされる。
オホーツク人は、寒冷化によって流氷の分布が変化して、海獣を追って下ってきたという(朝鮮半島からたくさんの人々が京や畿内に南下して渡来人となったのもこの時代)。やがて千島列島最北のシムシュ島にまで勢力を伸ばし、カムチャッカ半島南部の人々から、石器に使う黒曜石などを手に入れる。約1000年前が最盛期で、その後オホーツク人の勢力は急速に衰えていった。それからの千島列島からはしばらくのあいだ人間の痕跡が薄くなってしまう。道東沿岸で暮らしていたオホーツク人たちは、のちにアイヌ民族と呼ばれることになる擦文期(7〜13世紀)の人々の営みにしだいに飲み込まれていくのだった。
網走のモヨロ貝塚や北見の常呂遺跡、枝幸の目梨泊(めなしどまり)遺跡など、道東にはオホーツク人たちの生活にふれることができる興味深い遺跡が数多く残されているが、やがて道東には、オホーツク文化と擦文文化が融合したユニークな文化があらわれる(9〜13世紀)。その出土品が最初に発見された地名(羅臼町飛仁帯)にちなんで名づけられた、トビニタイ文化だ。
そこからさらに時代が下って500年ほど前からは、アイヌの人々が列島全域、そしてカムチャッカ半島南部にまで勢力を伸ばしたであろうことが遺跡群によってわかっている。

動物学者犬飼哲夫いわく「北洋におけるラッコ猟の全貌を語るいわば北洋の秘史」。スノーの「千島列島黎明期」

密漁天国千島列島

時代は下って、前回ふれた、ラッコ猟でわく幕末。アリューシャン列島やアラスカのラッコの資源が、ロシアの底なしの欲望に飲み込まれて消えそうになった19世紀半ばの千島には、最高級のラッコの毛皮を求める男たちが北から本格的に出没するようになっていた。ロシアの毛皮交易商社露米会社はすでにその1世紀近く前、1760年代には北千島に進出していたが、19世紀になると中部千島にまで出漁。ラッコの宝庫だったウルップ島を本拠地に、アリューシャン列島から連れてきたアリュート人たちに猟をさせている。

この時代を日本から俯瞰してみよう。
徳川幕府の終焉と明治維新への歴史の歯車はまず、ラッコ猟に導かれた19世紀初頭のロシアの東方政策によって動かされた。そのことを踏まえると、北海道と千島列島の歴史がより生々しく感じられるはずだ。前回ふれた露米会社の総支配人、ニコライ・レザノフの長崎来航と彼の部下による松前藩の出先への襲撃(1806-07)は、日露の国境がまだ定まらない中で起きた事件で、のちの日本の開国への導火線ともなっていったのだ。
日露の国境問題がとりあえず落ち着くまでには、エトロフ島とウルップ島のあいだに国境線を引いた、日露和親条約(1855・安政2年)の締結を待たなければならなかった。このとき樺太に関しては国境を定めずにアイヌやニブフ、ウィルタなどの先住民族と両国民が混住する地となった。1860(万延元)年、ウルップ島などには154人のアリュート人がラッコ猟をしていたという記録がある(犬飼哲夫『北方動物誌』)。ほどなくしてロシアに加えて、イギリスやアメリカもラッコを求めて千島に出没するようになってきた。

犬飼の前掲書によれば、幕藩体制を根底からリセットした明治新政府の開拓使は、1869(明治2)年にはエトロフ島に出張所を設けた。このころエトロフ島近海にはロシア、アメリカ、イギリスなどのラッコ密漁船が増加。彼らの振るまいは横暴を極め、その上さらに、当時の国際慣習をもとに薪炭や水の補給を求めて接岸してくる。アメリカの捕鯨業界はこの時代、海流に逆らってアメリカ西海岸を北上して北洋をめざすよりも、大きく迂回して太平洋を渡り、日本から黒潮に乗って北上する方が速いことがわかり、日本をめざす者たちが出てきた。そして彼らは北米西海岸で獲ったことのあるラッコを千島で発見して驚喜する。さっそくラッコ猟をはじめ、横浜の外国商社に売りさばいた。
開拓使は密漁の取締を行う一方で、アイヌに銃を教えて近代的な狩猟の仕組みを整えた。ただしアイヌには自由貿易は許されず、ラッコはすべて函館に集荷して開拓使が買い上げることになる。しかし徳川の時代から、ロシアなどに比べると日本人のラッコへの興味はとても希薄なものだった。温暖湿潤な内地の風土からは、世界市場でのラッコの価値は理解できなかったのだろう。
事態がさらに動いたのは、1874(明治7)年。ロシア駐在の全権公使としてペテルブルグに赴任した海軍中将兼特命全権公使榎本武揚によって、樺太千島交換条約が結ばれる。政府はこのとき、開拓使次官黒田清隆らの意見を受けて北海道開拓に集中するために樺太を放棄。そのかわり千島列島の主な島々全18島を日本領にすることを選んだ。ロシア側には、クリミア戦争(1853-56)によってヨーロッパでの南下を阻まれたことで、石炭もあるサハリンの開発を優先させたかった思惑があった。

千島列島全島を領有した日本は、領海内でラッコの密猟に血道を上げる外国人たちにさらに手を焼くことになる。
そうした密漁者の中に、例えばH.J.スノー(Henry James Snow)というイギリス人がいた。鉄道技師として来日したが、稼ぎをもとに新しいことをしてみようと、千島に乗り出した20代の青年だった。千島から帰ったアメリカ人から話を聞いたことが動機になった。
船長や船員を調達しながらスクーナー型の帆船を買い入れて、最初の猟で横浜を出帆したのが、樺太千島交換条約が結ばれる直前の1873(明治6)年6月。時に荒れ狂う北洋に翻弄されながらも猟をつづけ、根室に戻る。傷んだ船をそこで捨てて陸路で函館に向かい、ドイツ商人にラッコを売った。この成功に意を強くして、函館で自前の船、スノードロップ号を新造することにする。支援したのは、函館の貿易商トーマス・ライト・ブラキストンだ。スノーはブラキストンの紹介で函館在住のトンプソンというスコットランド人に帆船を発注。トンプソンは、船大工として乗り組んでいた船が難破したために函館に住み着いていた。開港(1855年)以来函館には、こうした外国人のビジネスのネットワークが機能していたのだ。

翌年日本人船員を雇って千島へ。日本との外交問題を起こしたくない函館のイギリス領事はイギリス国旗を立てることを許さなかったため、米国旗を立てた。千島では、領海内で開拓使の監視船の臨検を受けた。ラッコ猟は外海ではなく島の沿岸域で行われるから、おのずと領海侵犯になるのだ。
監視船は密漁船を見つけるとラッコを没収したり退去させるが、すべてには眼が届かない。スノードロップ号は半ば公然と猟をつづけ秋にはいちど横浜で毛皮を売り、11月に再び北に向かう。今度は英国旗を立て、13人の乗組員のうち7人は日本人だった。領海内にいることが見つかって監視船から厳重警告を受けたが、その夜に嵐に遭って択捉島で座礁してしまった。スノーたちはアイヌと和人に助けられ、翌春に開拓使の船が来るとこれに乗って函館に戻った。遭難のことを本国に報告すると、関係者に見舞いとして豪華な贈り物があった。ひとたび荒れると北洋がむき出す牙は常人に耐えられるものではない。スノーはつねに命の危険を犯し、何隻も船をつぶしながら、こうしたあきれるほかないタフな生活を20年以上にわたって続けたのだった。

スノーは北洋を荒らし回った記録を『In Forbidden Seas』(禁じられた海で)という本にまとめている(1913年。訳書は『千島列島黎明期』)。命知らずの冒険談とも読める『千島列島黎明期』には、自分はエトロフ島の沖で100頭以上のラッコの大群をしばしば見た、とあり、1872(明治5)年から78(明治12)年の7年間、外国船団は千島で8000頭以上のラッコを獲った、と書いている。また、スノーらラッコ猟に猛進した外国人たちは、開拓使にラッコの価値や可能性を指摘して、政府が協力してくれるならば日本の実業家と組んで保護や規制を整えながら持続的な事業にしようではないかと提案したが、日本政府はこれを拒絶したという。
日本側の事情はどうだったのだろう。北海道大学北方史料データベースではこの時代の千島に関するさまざまな公文書を見ることができるが、「猟虎(ラッコ)は北海道物産中最も貴重の品」という前提が共有され、根室県令湯地定基らは内務卿山県有朋に、海獣猟の季節(4月末〜10月下旬)には軍艦1、2隻を派遣して密漁を取り締まり、千島海域の正確な海図を作るために測量を進めるべき、と上申している。
事実上密漁者の無法地帯に近かった千島海域のラッコ猟も、こんなペースで乱獲されてはひとたまりもない。明治20年代に入ると海獣猟はオットセイにシフトしてくのだった。

箱館戦争で蝦夷共和国を構想した榎本武揚は、助命されて明治政府の高官となり、日露外交の最前線で仕事をした

敗軍の将榎本の助命に尽力した黒田清隆も、シベリアをめぐる詳細な旅行記を残した

緊張を高める日露の関わり

ラッコやオットセイに国境は無縁だが、人間にとっては有史以来千島列島は、つねに国境の緊張感の中に浮かんでいた。
樺太千島交換条約を結んだ榎本武揚のロシア駐在は1878(明治11)年に終わるが、榎本はわざわざシベリアを横断するというとても困難な旅をして帰国している。この時代、国内世論に満ちていたロシア脅威論をふまえて榎本は、シベリア開発のようすを自分の目で確かめたかったからだ。日本人は必要以上にロシアを恐れている。榎本はそう考えていた。姉に書いた手紙に、「日本人の臆病を覚まし、且つは後来のためを思いて」、といった一節がある。
榎本は見聞したことを『シベリア日記』にまとめたが、皇帝(アレクサンドル2世)に謁見すると、皇帝は「反乱軍の首領」という、箱館戦争(1868-69年)で榎本が新政府に反旗をひるがえした前歴までを正確に知っていた。この旅は、日本の政府高官として、各地の地方長官たちの協力を得て実現した。3名の随員とともにサンクト・ペテルブルグを出発したのが7月末。汽車と川船、旅行馬車(タランタス)、トナカイ曳きのソリなどを乗り継ぎながら、2カ月をかけて極東のウラジオストクへ。榎本は各地の要人に面会しながら、産業や文化、言語、人々の生活などについて幅広く記録している。興味深いのは、写真館などを訪れて必ずまちの写真を手に入れたことだ。当時のヨーロッパには出会った人がポートレート写真を交換する習慣もあり、榎本は各地の有力者と写真を交換している。またシベリア中部のクラスノヤールスクでは、露米会社が1831年に立てたレザノフの墓に参ったのだった。

その8年後、開拓使のトップとして北海道開拓を率いた黒田清隆も、シベリアを旅した記録を残している。箱館戦争で敗軍の将だった榎本を死罪から救ったのは黒田だったが、この時期の黒田は、開拓事業の停滞や不正が問題となって開拓使が廃止され、1887(明治20)年に第1次伊藤内閣の農商務大臣として復活するまでの雌伏の日々(1888年4月には初代伊藤博文のあとを受けて第2代内閣総理大臣となる)。黒田は随行6名とともに1886(明治19)年6月に東京を発ち、シベリアを横断してヨーロッパに入り、翌年の春にアメリカ経由で帰国した。その長い旅の全記録が、上下二巻の『環游日記』だ。
黒田も榎本同様にシベリア各地の要人たちから旅の支援を受けながら、その地の産業や軍備を調べ、住宅事情、食生活、人種や文化などを記録している。例えば東方沿海提督府が置かれるウラジオストクについては、その8年前にも訪れたが著しく発展して驚いたこと。人口は1万人ちょっと。うちロシア人が4100人、清国人3000人、日本も119人いる。沿海州(極東ロシアの日本海沿岸)の人口は13万6000人で、ロシア人8.7万、清国人2.7万、そのほか多様な少数民族がいる。少数民族とはゴリド(ナーナイ)、ギリヤーク(ニブフ)、ツングースなど、といった説明がつづく。軍備拡張の時世なので統計数字は年ごとに変化を続けているという一節もあり、急速に入植が進むロシア極東に対して日本の各界がいかに関心を寄せていたかがうかがえる。
日本が大国ロシアといよいよ戦火を交える局面は、黒田の旅から20年も経たないうちにやって来る。シベリア鉄道の工事が東の終点ウラジオストクに達したのは、その日露戦争さなかの1904(明治37)年秋のことだった。

千島列島とカムチャッカ半島に関わる近年の知見が学べる、『環北太平洋地域の伝統と文化3・カムチャッカ半島・千島列島』編集/北海道立北方民族博物館

「流動的コンタクトゾーン」としての千島列島

極寒と暴風の北洋に火山が連なる千島列島は古来、ユーラシア大陸極東(アムール川河口域)やサハリン、北海道、そしてカムチャッカ半島にいたる巨大な空間に、多様な人々の営みが行き交った回廊だった。冒頭にあげた報告書(『環北太平洋地域の伝統と文化3・カムチャッカ半島・千島列島』)で、サハリン国立大学の考古学者A.ヴァシレフスキー教授は強調する。千島列島の歴史は、火山や気候変動から国家の覇権にいたるまでがきわめて不安定な環境を舞台に、自然と民族集団、そして集団が属する複数の社会のあいだで複雑な交わりが移ろいながら繰り広げられてきたのだ、と。そして教授は「流動的コンタクトゾーン」という考え方を示しながら、千島列島の人々は、ラッコやオットセイなどの海獣を資源として、時代ごとに東アジアの巨大な文明のシステムの中で生かされてきたととらえる。明治以降は近代日本が南から進出して、ロシアとの政治的・軍事的な緊張関係の中で列島のアイヌたちが翻弄され、固有の文化を失っていった。ヴァシレフスキー教授は、千島列島についてこうした歴史認識を共有することがまず重要だ、と述べている。
コンタクトゾーンとは、「中心と周縁」、「征服者と被征服者」といった単純な二元論をほぐしていく文化人類学の考え方だ。その場所を、あくまで異質なもの同士が接触するゾーンとしてとらえることで、単に「中央」から見た「辺境」ではない、土地の固有性を考えていくことができる。教授は、千島列島ではそうした空間概念がとりわけ流動的なものとして立ち現れてきたので、世界経済の大きなシステムの中の分析と、コンタクトゾーンをめぐる露日の関係史こそが、サハリン地方の歴史学のこれからの進路になる、とまとめている。
こうした思考を踏まえれば、なるほど北海道から東方(メナシ)に向けるまなざしにも、つねに重層的な歴史観としなやかな強度が求められているのだと思う。