厚真から北海道が見える-1

アイヌ文化の胎動をさぐる地

太平洋に注ぐ厚真川の河口域から、内陸深くの夕張山系が見える。かつて本州の人々は、この山塊を目印に北をめざした

北海道では人とモノの太古のルートとして、石狩低地帯の水系を使った日本海と太平洋を結ぶ勇払越えが知られている。しかし近年、その勇払に接しながら内陸北東へ向かう厚真からの道も注目を集めている。本州と北海道を結び、環オホーツクへと延びる北方史のラインを意識してみたい。
谷口雅春-text&photo

「アイヌ文化期」への疑問

英語では日本語の「腰」に対応する言葉はない、と教わって驚いたことがある。
つまり脊椎と骨盤がつながる部分をひとかたまりで指す英語はないし、「腰砕け」、「腰を据えて取り組む」、「腰が低い人」といった表現は、英語ではwaistやloinやhipと無関係になるのだ。フランス語やドイツ語では蝶と蛾の区別がないというが、文化の違いは身体動作の根幹に関わる言葉にこそわかりやすく現れるし、言葉の生成は、使い手が世界をどのように分節して認識していくかというメカニズムに根ざしている。

北海道の歴史区分は、本州以南とは少しちがう。
1万6千年以上前の旧石器時代のあとで人々が土器などを使いはじめる縄文時代(旧石器時代に続き約2千500年前まで)は共通だが、本州では弥生時代から古墳時代にあたるあいだを、北海道では続縄文時代(紀元前3世紀〜7世紀ころ)と呼ぶ。気候条件のちがいで、本州のように稲作が広がらなかったからだ。そこから13世紀前葉にかけてが擦文時代(表面を木のヘラで擦った擦文土器に由来)。5世紀〜10世紀にはオホーツク海沿いに、サハリン方面からオホーツク人の南下もあった。そして道内の多くの博物館や資料館の展示解説では、13世紀以降は「アイヌ文化期」となる。
ではそれ以前の北海道にはアイヌの人々はいなかったのだろうか。北海道を訪れる旅人の中にはこうした解説にふれて、アイヌ民族は13世紀ころにどこからかやって来た人々だ、と思う人がいるかもしれない。北海道の成り立ちが、アイヌ文化期という分節によって不確かに認識されていく危険はないだろうか。アイヌ文化の起源はどのようにさかのぼれるのだろう。

考古学の瀬川拓郎札幌大学教授はかねてから、「アイヌ文化期」という呼称は使わない方が良いと主張している。1万年以上前からこの島で暮らしてきた人々の歴史を乱暴に断ち切ってしまうことにつながるからだ。代わりに唱えているのが、「二風谷時代」。「弥生時代」の「弥生」が東京の文京区弥生の遺跡調査に由来するように、二風谷遺跡に代表される、長期にわたるアイヌ文化の遺構があり、現在までその流れが途絶えていない土地の名をつけてはどうか、という提案だ。しかし、いまの時代に地名を時代名とすることには反対だ、という意見もある。
瀬川教授は言う。「反対意見は歓迎します。とにかく北海道の歴史を大きな裾野からとらえ直す必要があるのではないか。広く議論を深めましょう。私が訴えたいのはそこなのです」

瀬川さんは、二風谷の歴史的・地理的な重要性は大きな構図で考える必要がある、と強調する。その興味深い入り口になるのが、太平洋に面した厚真町(胆振管内)だ。このまちの内陸部では、アイヌ文化の源流とも考えられるいくつもの遺構遺物が発見され、調査研究が進められているのだ。

擦文時代とアイヌ文化期のあいだのミッシングリンク

厚真町の軽舞遺跡調査整理事務所(旧軽舞小学校)に学芸員の乾(いぬい)哲也さんを訪ねた。
乾さんは、アイヌ史の起源を考えるには、人類学的な面と精神文化的な面のふたつを意識する必要があることを前置きする。つまり1万年以上前の縄文時代からこの島に暮らしていた人々がのちにアイヌ民族と呼ばれることに至ったのは間違いないが、そのことと現在につながるアイヌ文化の始まりはイコールではない。そして乾さんは、厚幌ダム(2019年竣工)の工事にともなって進められた発掘調査で厚真川上流域には、アイヌ文化の胎動期とみなせる注目すべきいくつもの遺構遺物が発見されていると説明してくれた。

まず、上幌内モイ遺跡。旧石器時代の石器(約1万4千年前のもの)やアイヌ文化期の遺構や金属製品などが出土し、長いあいだ人間の営みがつづいたことが分かっているこの一帯からは、特に、13世紀初頭から400年にわたってコタン(集落)があったことが注目されている。興味深いことにその前期には厚真川の上流に向いていたチセ(住居)群の神窓(神が出入りする神聖な窓)が、17世紀には近現代同様に東に向けられるようになり、この間に精神文化の領域で民族方位の変容があったことが見てとれる。また朝鮮半島産の、佐波理鋺(さはりわん)と呼ばれる銅鋺(どうわん)が4個分出土したが、いずれも人為的に壊して焼いた状態が見られた。さぞや当時の人々の心を奪ったであろうピカピカの宝物をあえて壊すという、この世界からあの世界への「送り」儀礼を思わせる発見だった。

ほぼ同時代にさかのぼるヲチャラセナイ遺跡は、道内で最古級のチャシ跡であることがわかって大きな話題を呼んだ。チャシには儀礼や話合いの場、見張り台、戦いの砦など多様な機能があり、道内では14世紀後半から18世紀に盛んに作られた。その数は、現在わかっているもので全道で500以上。しかしこのヲチャラセナイチャシの成り立ちは13世紀にさかのぼるもので、大きさは1辺25メートルの正方形に近い隅丸(すみまる)の方形。深さ1メートルほどの壕に囲まれていた。柵の跡もないことなどから乾さんらは、ここを精神儀礼に関わる場ではないかと考えている。
『アイヌ史を問いなおす』(蓑島栄紀編)で乾さんは、胆振東部から日高西岸にかけての地域では、擦文文化期後半期から本州の和人との交易が活発になって他者(和人)を強く認識するようになり、新たな精神儀礼を繰り返しながら「我々」という共有する意識を育みはじめたのではないか、と考察している。
「北海道の歴史区分でいう擦文時代からアイヌ文化期への移行や変容がどのようにものだったのか。近年の厚真の発掘調査で少しずつわかってきました。そしてその成果は、まちの人々に我がふるさとを見直すきっかけになりました。また地域のアイヌの人たちにも深く共有され、活力や自負にもなっていると思います。私はそうしたことを強く意識して願っています」

アイヌ文化は、物質文化を探求する考古学の調査では700年前くらいまでたどることができる。炉や家の形態や向きなどでわかる火に対する意識や、自分たちが暮らす世から向こうの世界(彼岸)を見すえた「送り」の儀礼、魔除けのふるまいなど、アイヌ文化の根底にある要素は、上幌内モイ遺跡やヲチャラセナイ遺跡となる土地にコタンが生まれた13世紀初頭の物質文化から考えることができるのだ(一方で、和人が残した文書をもとにした文献史学でさかのぼれるのは16世紀くらいで、両者にはまだ300年ほどの空白がある)。
そしてさらに乾さんは、物質文化ではなく精神文化の文脈で掘っていくと、アイヌ文化の成立はいまから千年ほど前、11世紀ころの擦文時代中期後半に求めることができるのではないかと考えている。

13世紀の若い女性の墓から出土した京都由来の青銅製の鏡、「秋草双鳥文鏡」。(上幌内2遺跡)

擦文時代からアイヌ文化期への移行は、北海道の考古学の世界ではミッシングリンクと表現されるほど不透明なのだが、厚真川上流域ではいまあげた上幌内モイ遺跡やヲチャラセナイ遺跡をはじめとして、13〜15世紀の興味深い遺跡が多く見つかり、研究が進められている。
乾さんに見せていただいて驚いたのは、上幌内2遺跡の13世紀の若い女性の墓から出土したとても精巧な銅鏡だ。京都で作られたことがわかった、「秋草双鳥文鏡」と呼ばれる青銅製の鏡。モチーフになった鳥はカササギで、七夕伝説で天の川の両岸を結ぶ鳥だ。副葬品には大陸からもたらされたコイル状の金属製の装飾品や、タマサイ(首飾り)に使われたガラス玉もあり、黒曜石の丸石(転礫)も目を引いた。コイル状装飾品は、大陸の極東地域のシャーマンが使うものだろうという。これらはすべて本州や大陸にも及ぶ大きなスケールでもたらされた権威や権力を示す財物で、彼女は集落のリーダーにつらなる人物だったのだろう。
この遺跡には9歳前後の子どもの墓もあり、ここからはアイヌ刀や本州産の腰刀が出土している。年代がはっきりしている鎌倉時代の刀剣は全国的にもまれなもので、日本刀の研究者のあいだでも注目を集めた。
また14世紀のコタン(集落)跡であるオニキシベ2遺跡では、移入した和鏡をわざわざ自分たちで加工した鍔(つば)状の銅製品(シトキ・飾板)や、ガラス玉、古銭などが出土している。
乾さんが考えるように、本州や大陸との交易によって相手と自分たちの違いを強く意識するようになり、そのことが「我々」意識(アイヌ文化)を育み、交易をさらに深めていく。「我々」が提供するのは、本州に対してはワシ羽やシカ皮、大陸に対しては、本州産の鉄器や陶器などだ。
さらに同町の桜丘では15世紀のチャシ跡(桜丘チャシ跡)が発掘され、ヲチャラセナイチャシから時代を下った、こちらは大規模な砦であったことがわかっている。交易が広がり富が蓄えられるようになった社会では、争いも珍しくなかったのだろう。

厚幌ダム建設に伴って進められてきた発掘調査の最前線にいる乾哲也さん(厚真町教育委員会・学芸員)(写真提供:厚真町軽舞遺跡調査整理事務所)

厚真川を上り、東へ、北へ

厚真町には海岸部から厚真川上流域まで、140以上の遺跡がある。なぜ厚真には、深い山中にまでこんなにたくさんの遺跡があるのだろう。鍵を握るのは厚真川だ。

乾さんから「内陸深く上川管内にある占冠(しむかっぷ)村が、厚真と同じ勇払郡だということを知っていますか?」と聞かれ、意表をつかれた。札幌から見ればトマムのある占冠は険しい山系をいくつも越えた先にあるが、なるほど太平洋側から見ると、厚真川や鵡川(むかわ)の水系を上れば、夕張や日高の奥や十勝にはほとんど直行できるのだ。近代の道路網とは無縁の、水系や尾根筋が移動経路だった時代。そこまでいけば、さらに北へのいくつものルートが現れてくる。明治初頭に開拓使で北海道の郡名を考案したのは松浦武四郎だが、武四郎の頭にはつねに、水系で編んだ北海道像があった。

さらに解像度を上げて説明すると乾さんいわく、厚真川の上流を詰めていけば比較的容易に鵡川の中流域へと山越えすることができ、トマム山南麓にある鵡川の源流域からは空知川の支流であるルウオマンソラプチ川に出られる。この水源には日高山脈と大雪山系が連なる北海道の大分水嶺の中で最も低い鞍部(あんぶ)があって、新得町と南富良野町の境界となるそこは、古くからの十勝越えのルートだ。乾さんはオフロードバイクで林道をたどりその先まで自ら山に入って、厚真川と鵡川の水系から石狩川水系や十勝川水系を結ぶルートを確かめたのだった。
太平洋に開けた厚真から内陸の十勝へ。そして富良野盆地を通って道北やオホーツクへ。あるいは二風谷のある沙流川水系へ—。人々は太古から移動を繰り返してきた。また、北方のサハリンや大陸からもたらされた金属やガラス玉もこのルートで南下して、厚真まで運ばれてきたのだろう。乾さんは、メルクンナイ(水路の・ある沢)やショルマ(滝の・道を・渡る)など、厚真川上流域に残るさまざまなアイヌ語地名からも、一帯には太古からの人とモノの道があったことを考察している。地名は、土地の記憶の静かな語り部だ。

厚真からの内陸路。石英を含む富良野盆地の火山灰から作られた土器(通称キラキラ土器)がこの道を使って厚真にもたらされた(厚真町軽舞遺跡調査整理事務所提供)

しかしエリアの川を比べれば、地図を見るだけで鵡川の方が大きいことがわかる。鵡川の方が遡航しやすいだろうにもかかわらず、なぜ途中まで厚真川が使われたのだろう。
乾さんは4つの理由をあげる。まず、安定した沿岸の環境。そして、日本海側の石狩と太平洋側の勇払のあいだで、こちらも太古から人々の往来があった石狩低地帯のルート(勇払越え)に接していること。3つめは、本州からの航海の目標となる夕張岳が先に見え始めること。そして、川の地形。厚真川の上流域は比較的やわらかい砂岩泥岩で勾配もゆるやかだから上りやすいのではないか。

2018年9月の北海道胆振東部地震で大きな被害を受けた厚真町は、なお復興の途上にある。だが千年単位で考えれば、厚真川上流域でも太古に大規模な地滑りがあったことが遺跡調査でわかっている。大地の営みは、ときに人間の思いとはまったく無関係に荒ぶることを繰り返してきた。一方で乾さんは、今日アイヌ文化とイメージされるものも、厚真で見えてきた700年を俯瞰すると、変容を重ねてきたことが理解できるという。民族方位は変化し、儀礼場での黒曜石の使い方やシカ送りなど、今日のアイヌ文化に伝承されていないものもある。
スケールの違いはあるものの、大地も人もゆっくりと移り変わる。その移ろいをどのように見すえていくか—。僕たちにはそのための知性とまなざしが求められている。それは瀬川拓郎教授が問いかける、北海道の時代区分の再構成を考えることにもつながる課題だろう。人間と土地の歴史が複雑に折り重なっているさまを、土地ごとに内側から読み解いていく旅に出かけよう。

厚真町軽舞遺跡調査整理事務所(厚真町軽舞205-2)