僕たちはときどき、「縄文人の精神性」といった言葉を目にする。「精神=心のはたらき」とすると、彼らの心は現代人の心と共通するものなのだろうか。あるいは「自然と共生していた縄文人」という言い方も聞く。現代人は自然を、自分と切り離して人間の外側にあるものと見がちだが、その自然は、縄文人にとっての自然と同じ種類のものだろうか。時代が下っても、擦文人(7〜13世紀初頭)が見ていた山や川や海と、現代人が見ているそれらは、同じように認識される類のものだろうか。そしてそもそも、そうした問いに正解はあるのだろうか。
サイドストーリーの3回目を一人の歴史学者のことから進めよう。
2004年に32歳で夭折した歴史学者保苅実(ほかりみのる)は、亡くなる直前まで書き続けた『ラディカル・オーラル・ヒストリー』(現・岩波現代文庫)で、オーストラリアの先住民アボリジニの人々が自らの歴史をどのように語り、それをどのように共有しているかを、ノーザンテリトリー(オーストラリア北部)での調査体験をもとに探求している。その手法は、アボリジニの文化にオーラル・ヒストリー(口述歴史)で接近することだった。
保苅が取り組んだのは、明らかな答えがないような問いに学問はどのように向き合うことができるのか、という難問だ。滞在したグリンジと呼ばれる人々の村で保苅は、例えば、白人に一方的に奪われた土地の権利の復権運動に際して、かつてアメリカのケネディ大統領が来て協力を約束してもらったんだ、と教えられる。あるいは、18世紀の英国の海軍士官キャプテンクックがシドニー湾やダーウィン湾で先祖たちを残虐に殺戮したことを聞かされる。どちらも公的な史実にはまったく存在しないできごとだ。保苅はしかし、それを否定してしまって良いのだろうか、と立ち止まる。グリンジの人たちにとっては、それは単なるフェイクでもプロパガンダでもないからだ。
「歴史学者がインフォーマント(情報提供者)の話を聞くのではなくて、むしろ、インフォーマント自身を歴史家とみなしたら、かれらはどんな歴史実践をしているのだろう」—(『ラディカル・オーラル・ヒストリー』第1章)。保苅はそう考えた。さらにそれが、アカデミックな歴史学者にとってはどんな意味があるだろう、と。
歴史を実践する(doing history)とはどういうことだろうか。保苅は、人が生きていく日常で歴史とさまざまに関わりをもつことの意味を掘り下げる。つまり、歴史とは「自分がいまここで生きていること」の根源のひとつなのだから、人は誰でも、歴史についてコミュニケーションをもつことで自分が生きていく現実を作り出しているのだ。
歴史は、クイズに正答できるような知識や文化教養の枠組みのもっと底で、市民の日常生活の営みのひとつとして多様に生きている。
保苅は、歴史の時間と空間をあくまで多元的なものとして見すえて、それらが互いに混じり合い響き合うさまをそのまま記して考えることはできないだろうか、と思う。彼はそれを、「クロス・カルチュラルな歴史学」の企てと位置づけた。
2001年に書いた『Gurindji Journey』で保苅は、時間は場所に属するものだという、アボリジニならではの世界観を探求している。彼らにとって歴史は時間が動かすのではなく、空間が動かすものだ。そのことが見えていないとして、日本でも人気のブルース・チャトウィンの『ソングライン』が批判されているのだが、アボリジニの過去を思考するには、ヨーロッパの世界観やアカデミックな歴史学には限界がある。では新たな歴史学はどうすれば可能になるのだろうか—。文化人類学や、あるいは学問を飛び越えた文芸やアートでもなく、保苅はあくまで歴史学の文脈で、歴史のとても複雑で豊かな時空を多元的に捉えようとしたのだった。
2011年に発刊されたアイヌ史研究最前線のショーケースともいえる一冊、『アイヌ史を問いなおす』(勉誠出版)には、保苅実の名が出てくる。編者の蓑島栄紀さん(北海道大学アイヌ・先住民研究センター准教授)が、序文の最後で保苅にふれているのだ。そこには、先住民による伝統的な歴史像と実証的な近代の歴史学を両立させ、共鳴させていこうとした保苅実の仕事から、これからのアイヌ史を構想するうえでも学ぶことは大きい、と述べられている。
蓑島准教授は『岩波講座日本歴史第20巻地域論』に、「古代北海道地域論」というタイトルの論考を寄せている。そこではまず北海道史を北東アジアに位置づけて、日本史では「北の辺境」である北海道だが、広域史では興味深い「境界領域」や「接触領域」にあるのだと、現在の研究者たちの認識を示す。その上でアイヌ民族の歴史を考えることは、その内側へ純粋性や本質を追究していくのではなく、異なる要素の流動的で多元的な重なりや、外部に開かれた共同体としての民族像にどのようにアプローチしていくかを模索することにほかならない、と続ける。境界領域では、「中央」からの一元化された支配とは異なるレベルの多様な交流やネットワークが主体的に形成されて、ヒト・モノ・情報が行き交う。民族の成り立ちに根ざした生業と見えるものであっても、それはあくまで外部との複雑な交わりの中で移ろいながら成り立っているものなのだ。なるほどそうした構図の上では、保苅実が見すえていた場所が見えるのだと思う。
蓑島准教授は、アイヌ史の始源は本州の古墳時代、北海道では続縄文時代の後半、3世紀ころに大きくさかのぼることができると考えている。そこから13世紀初頭までが、蓑島さんが考えるアイヌ史の長い「古代」だ(13世紀からはじまるアイヌ文化期という名称をめぐる問題については第1回で取り上げた)。つまり11世紀から12世紀、いわゆる擦文時代からアイヌ文化期へのとりわけ興味深い移行期が、「古代」の最終盤。その時期が見えてくる厚真町の遺跡で注目するのが、厚真川の支流の頗美宇(はびう)川が合流する地点の台地にある、ニタップナイ遺跡だ。
ニタップナイ遺跡で特に注目したいのは、擦文文化期の地層から出土したある鉄製品(約900年前)だ。それは国内には類例のなかった鉄鏃(てつぞく・鉄の矢尻)で、断面がZ型になる独特の形が共通していることから、大陸のアムール川中流域(アムール女真文化)のものではないかと考えられている。厚真には、前回ふれた奥州藤原氏の拠点である平泉とのつながりに加えて、北方からの人とモノの流れがあった。
また時代はかなり下るが、ニタップナイ遺跡ではこのこともふれておかなければならない。大きな面積で現れた、17世紀のアイヌコタンだ。
この時代の集落は、樽前山が1667年に噴火したときの火山灰を掘り込んで作られ、1694年に噴火した駒ヶ岳の火山灰に埋もれて廃絶されていた。年代が狭い範囲で特定できるユニークな場所だ。そして同時代には、日高を中心にしたアイヌ民族と松前藩の大きな戦役、シャクシャインの戦いがあった(1669年)。その時代の集落跡の発見ははじめてなので、注目を集めた。住居跡は、近代のアイヌのチセ(住居)と同じ形をしている。
出土品でひときわ目を引いたのは、酒器。表面に錫を重ねた銅製の銚子(ちょうし)が見つかったのだ。同様なものはかつて江戸の大名屋敷跡(汐留遺跡)で出土したことがあり、復元推定が可能な銅製酒器は全国で2例目だったという。本州でも上流階級がハレの場で使うもので、ここでも重要な儀式に用いられたものだろう。
さらに遺跡の一画では、25頭分ものシカの頭骨が4段に重ねられていた。近現代のアイヌ文化にはシカ送りの儀礼(大切なものを人間の世界から神の世界へと送り返す)はないが、17世紀にはそれほどたくさんのシカが獲られ、毛皮が本州との交易に欠かせないものになっていた。だからこそカムイ(神)として、特別な存在だったのだろう。
蓑島准教授は北海道の古代・中世を、本州との関わりはいうまでもなく、日本という一国史的な視点にとらわれることなく、サハリンや大陸にまで構図を広げて考察している。著書『古代国家と北方社会』で蓑島さんは、北海道や東北地方、サハリン、千島列島、北東シベリアを北方社会と大きくくくり、自然環境や生業に共通点を見る。それは、寒冷な風土のなかで雑穀農業などをあわせもちながら、狩猟・採集や漁労を中心とするいくつかの生業を組み合わせて生きることだ。
このような環境と生業では、社会における外部との交流(交易)の意義はとりわけ大きい。まず、厳しい環境にしばられているので、必要な物資や技術の過不足をつねに補う必要がある。さらに社会秩序は、自給できない金属器(漁労・狩猟具、農工具など)や、祭祀具、リーダー層の威信を示す装身具などを安定して手に入れることを前提として形づくられる。衣食住はもとより心のはたらきにまで、交易への志向が共同体の根幹にインストールされているのだ。
「ふつうの人々」の北海道イメージを深く目覚めさせる蓑島さんの研究や保苅実について、次週はさらに展開してみたい。