厚真から北海道が見える-3-2

歴史を織る無数の糸をさぐりたい

7世紀の北海道を大陸側から見る。この北の島は、オホーツク文化と擦文文化、そして倭国(日本)の文化の接触領域にあった(提供:蓑島栄紀。2013「琉球と蝦夷」『新発見!週刊日本の歴史』03、朝日新聞社を改変)

大陸側から日本海を見ると、日本史の風景が一変するだろう。内海としての日本海につながったオホーツク海を含めれば、巨大なアムール川の存在と、南北を往来する人々の動きが、千年のスケールで想像できるような気がする。北海道を、境界と接触の領域に浮かぶ島として位置づけてみよう。
谷口雅春-text&photo

北東アジア古代史の中の北海道

北海道大学アイヌ・先住民研究センターの蓑島栄紀(みのしまひでき)准教授は、11世紀から12世紀、いわゆる擦文時代からアイヌ文化期への移行期を、アイヌ史における「古代」の終盤ととらえ、古代の始源は3世紀ころにまでさかのぼれると考えている。北海道史の言説では13世紀ころからはじまるとされる「アイヌ文化期」だが、この時代表記をめぐってはいろいろな考え方があることを、この連載では問題にしてきた。
アイヌ文化の古代を知りたくて、北海道大学の研究室に蓑島准教授を訪ねた。

前任地(苫小牧駒澤大学)が厚真と同じ胆振管内で研究のフィールドに厚真があったこともあり、蓑島さんは、北海道を含む北方世界と本州をつなぐ南北ルートの結節点だったといえるこの土地の固有性に注目してきた。
「厚真はまだまだ分からないところが多い、歴史学や考古学にとっても極めて魅力的な土地です。乾哲也さん(厚真町教育委員会学芸員)たちが調べてきた、厚真川と鵡川を上ったルートからは、嵩(かさ)のはらない北方の産物、例えばワシ羽や砂金、もしかしたら(象牙のような価値があった)セイウチの牙なども、北方から陸路で厚真にもたらされたと考えられます」
蓑島さんの頭の中には北東アジアの巨大な歴史地図があって、その一角にある北海道は、僕たちが考える北海道とはかなりちがった文脈や表情を持っているのだろう。
「古来人間の営みは、海を隔ててはるかに離れていても無数の糸でつながってきました。そしてその糸は複雑にねじれたり新たにつむがれたりしてきた。厚真ではそのことが強く意識できます」

蓑島さんはまず、有史以降の東アジア北方史の大きな動きを俯瞰するには、7世紀前後にさかのぼる必要があると言う。589年に隋が中国を統一したことで東アジアの勢力バランスが一変して、大陸各地に律令国家形成の波が押し寄せるのだ。
「その余波は確実にロシア北東や日本列島にも及んで、北海道の擦文文化(7〜13世紀初頭)の形成にも影響を及ぼしています」

7世紀から10世紀以降の北東アジアの情勢。「日本書紀」にある阿倍比羅夫の遠征も、この大きな地図の世界を舞台にしたひとコマだったと考えられている(提供:蓑島栄紀。蓑島2014に加筆・修正)

大陸の複雑な情勢と結ばれていた北海道

受験勉強のようにはならない範囲で、このころの北東アジアや日本の形勢を、蓑島さんの話や著作をもとにスケッチしてみよう。

大陸に中央集権国家として成立した隋はほどなく唐に滅ぼされ(618年)、唐は10世紀初頭まで存在する。そして倭国(日本)が国づくりを学んだこのふたつの巨大帝国の周辺には、北海道と関わりをもった人々の文化があった。キーワードで並べると、「靺鞨(まっかつ)」、「渤海(ぼっかい)」、「女真(じょしん)」などだ。青銅製の帯飾りや鉄製の鉾(ほこ)、ガラス玉など、北海道の遺跡から出土している大陸由来の遺物と同じ形態のものが、これらの遺跡からも出土しているのだ。
靺鞨の人々はアムール川流域にあって、中央ユーラシアの遊牧国家である突厥(とっけつ)や、朝鮮半島北部の高句麗に従っていた。7世紀半ばに東突厥と高句麗が滅亡した影響で、この人々はやがて渤海国に服属していく。渤海とは、8〜10世紀にかけて中国黒竜江省から北朝鮮にかけて栄えた国で、交易や外交のために日本との交流を盛んに求めた。渤海国に服属しなかった靺鞨集団(黒水靺鞨)は、唐との持続的な朝貢関係を結び、サハリンのオホーツク人たちとも交易を行う。

オホーツク人とは、続縄文文化の終わり(5〜6世紀)に宗谷海峡一帯にいた人々が、サハリン北部から来た人々と交わって成り立っていった、海洋漁労の民族だ。五角形や六角形の大きな竪穴住居に暮らしてイヌやブタを飼い、アイヌに影響を及ぼしたといわれるクマ送りの儀礼でも知られる。彼らは北海道に南下してたくさんの足跡を残した。代表的な遺跡として、網走市のモヨロ貝塚、北見市の常呂(ところ)遺跡、枝幸の目梨泊(めなしどまり)遺跡などがあげられる。

9世紀になって渤海国は黒水靺鞨を征服して、彼らの交易活動を取り上げた。これによって9世紀には大陸から周辺への影響力が低下して、北海道でもこの時代の遺物が少なくなったことがわかっている。北海道にいたオホーツク人たちは、やがて擦文人たちとの関係を深めて変容していった。しかし唐が滅亡した(907年)のち、渤海は契丹(きったん)族の遼に滅ぼされる(926年)。一方でそれ以前から靺鞨系の人々の交易は勢いを吹き返していた。この時代から史書に登場するのが、やがて満州族と名のって17世紀には清を建国することになる女真族。厚真で見つかった鉄鏃の作り手たちだ。10世紀から11世紀。サハリンや北海道の社会は、女真族らによって再編された北東アジアの交易網の一角に連なることになる。

北海道の古代の状勢はどのようなものだっただろう。
先述したように5世紀ころサハリン方面からオホーツク人たちが南下して、9世紀ころまで、しだいに利尻・礼文両島や知床半島、千島にまで勢力を伸ばしていく。
瀬川拓郎札幌大学教授によれば、本州産の鉄器(狩猟具や農工具など)を求めたオホーツク集団は日本海を南下して道南や下北半島まで往来していたが、そのルートは続縄文集団(のちの擦文人)との接触を避けるように礼文・利尻・天売・焼尻・奥尻の島嶼伝いに作られていた。本州から求められるのは、海獣の毛皮やワシ羽などの北の産物だ。オホーツク人たちが占める道北・オホーツク海側と擦文人たちが占める道央・道南・太平洋側のあいだには、学術的には未解明な空白地帯が広がっていたと考えられている。

7世紀の半ば、北海道と倭国(日本)の関わりで大きな事件があった。『日本書紀』にある阿倍比羅夫(あべのひらふ)の遠征だ。朝廷が派遣した阿倍の船団が「渡嶋(わたりしま)」(北海道)に達して、そこの蝦夷(えみし)と共同で、危害をもたらしていた「粛慎」(あしはせ)を討つという内容。かつては朝廷勢力の伸張を誇るための伝説と思われていたこの遠征だが、現在ではこの蝦夷とはまだアイヌと呼ばれる前の擦文人で、粛慎とはオホーツク人のことだと考える研究者も少なくない。
蓑島さんは、それまで北東北の蝦夷(えみし)を介して擦文人やオホーツク人らがもたらす北方の産物を手にしていた朝廷が、これを直接行う官営交易に転換するために阿倍比羅夫らを派遣したと考える。擦文人にとっても、本州の鉄器は生活に不可欠なものだった。
一方で9世紀末になると擦文集団はオホーツク人の勢力圏に進出して、北海道全島とサハリン、千島列島にまで勢力を伸ばしたというストーリーは第2回で展(ひろ)げた。擦文文化は、北海道の続縄文文化(本州の弥生・古墳時代)が本州の文化と接触して変質していったものだが、このころから擦文人たちは、北方の大陸を含む環オホーツクの世界を強く意識するようになる。彼らの子孫たちは、13世紀ころからいわゆるアイヌ文化期と呼ばれる、近代に直接つながる営みを北海道で繰り広げていった。

『古代国家と北方社会』(蓑島栄紀)、『「もの」と交易の古代北方史 奈良・平安日本と北海道・アイヌ』(蓑島栄紀)

古代史は現代を動かすか

本州に目を転じれば、10世紀には北海道と本州の交易に大きなターニングポイントがあった。それまでの本州側の交易拠点だった秋田城(朝廷が設けた最北の城柵)が、朝廷からみれば「まつろわぬ民」である蝦夷(えみし)の攻撃を受けて機能を失い、北方との流通拠点が青森側に北上する。蓑島さんは9世紀末から10世紀にかけて、津軽海峡を結ぶネットワークの再編がさまざまにあっただろうと考える。東北北部には、北方と朝廷のあいだを仲立ちする交易で力をつけた新興勢力が現れていた。その後陸奧の豪族群と源氏勢力が戦火をまじえた11世紀後半の前九年の役、後三年の役などの戦乱を経て、奥州藤原氏が歴史の舞台に登場することになる(奥州藤原氏については前回ふれた)。
こうした歴史の歯車は、どれひとつとして日本列島の上だけで回ったものではない。一国史的な視点にとらわれることなく、隋や唐といった古代の帝国とのその周辺国の多極的な動向が、北海道をめぐる人とモノの流れにも深く静かに関わっていたことを意識してみよう。
蓑島さんは、大陸や畿内の朝廷からも離れたこの島では、明確な国境が定められることもなく、つねに異文化が交わりそこからまた新たな文化が生まれていったという。著書『古代国家と北方社会』で蓑島さんは、オホーツク文化と擦文文化の接触や交わりによって、両者の活動に媒介されて隣接する地域から北海道に流れ込んだ多元的な文化の要素は、アイヌ文化の中に翻案され再生産されながら継承されてきた、と論じている。

さて北海道の古代・中世史は、はたして現在の北海道人にどんな意味があるだろう。新しい歴史地図にふれて得られるのは、知識の喜びや楽しさだろうか。
ここに再び、前回ふれた歴史学者保苅実(ほかりみのる)の言説を置いてみたくなる。
2004年に32歳で夭折した歴史学者保苅実は、人々が「歴史を実践する」(doing history)ことについて考え、行動した。蓑島准教授をはじめ、保苅に影響や刺激を受けている研究者も少なくないが、彼が思考したのはいわば、人は誰でも、歴史についてコミュニケーションをもつことで自分が生きていく現実を作り出していることだ。歴史とは、「自分がいまここで生きていること」の根源のひとつなのだ。
保苅の著書『Gurindji Journey』には、歴史への誠実さ(truthfulness)について考える一節がある。彼は、歴史の真実(truth)を求めるふるまいは排他的になりがちだけれど、誠実さをもとめる人々は、他者に対して開かれていくんだ、と書く。確かに、例えばホロコーストはなかったと主張する人々の考えはなんと排他的で利己的だろうか。
研究者や歴史マニアに限らず、「ふつうの人々」がその土地の、古くから外部に開かれてきた歴史を知る。そして広く考えれば、どうふるまっても自分はその一部なんだと気がついていく—。そうした心のはたらきは、いま自分が生きていることの意味をより複雑で豊かなものにするきっかけになるかもしれない。僕たちは、先人たちのぶ厚い研究史をふまえて蓑島さんがいう歴史の無数の糸を、どのようにさぐることができるだろうか。北海道を境界と接触の領域に浮かぶ島と位置づければ、この島の歴史風景はどのように見えてくるだろうか。

保苅実写真集『カントリーに呼ばれて』から。学問と研究対象をめぐる一節。写真中央保苅実

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