厚真から北海道が見える-4

水系を軸に地図を上書きしよう

太古から厚真の歴史を動かしてきた厚真川とその支流の頗美宇(はびう)川の合流点に、松浦武四郎の旅を記す石碑が立てられている

厚真川をさかのぼると、山越えで富良野盆地に入ることができ、東へ分水嶺を越えて行けば、二風谷のある沙流川流域へも抜けられる。近代以前のこの地の人々にとって、それは常識的な交通だっただろう。時間のスケールを拡張すれば、厚真の地から、新たな北海道の風景が見えてくる。
谷口雅春-text&photo

水のネットワークを行き交った丸木舟

厚真川の支流沿いの丘から12世紀の奥州藤原氏に関わる常滑焼の壺が見つかった挿話は、2回目でふれた。近年の厚真ではさらに、それに匹敵するような大発見もあった。2007年春のことだ。
現れたのは、カツラ材でつくられたアイヌの丸木舟。長さ約6.6m、幅は60cmほどで、厚真川が下流にさしかかるあたりの河川敷(厚真町字上野)で、状態はあまり良くはなかったものの、全体の形がほぼ残った状態で見つかったのだ。内側には、くり抜くために火であぶった痕跡があり、金属の斧(テウナ)をふるった跡も見られた。一般に古い丸木舟は腐食しやすいので残らない。しかしこの舟は、長いあいだ水の底に沈んで空気にふれなかったものが、なにかの拍子に浮かんで下流まで流れついたらしい。AMS法(放射性炭素年代測定)という分析によれば、全形が見つかったこれまでの例で指折りに古い、15世紀に作られたものであることがわかった。北海道史では、東北から渡ってきていた豪族たちが道南の渡島半島でアイヌと激しく戦火を交えたコシャマインの戦い(1457年)があり、松前藩成立への歴史が本格的に動き出すころだ。
1960年代、厚真川にほど近い、旧勇払川が流れていた沼沢地(苫小牧市沼ノ端)で14世紀ころとされる丸木舟が5隻も見つかって話題を呼んだが、型にはそれらとの共通点がある。石狩川河口域の日本海側と厚真のある太平洋側は、山岳のない石狩低地帯によって古来人々の往来が盛んだった。この丸木舟からは、その周縁部に位置する厚真川流域も合わせて、漁労や人とモノの移動など、水のネットワークを舞台にしたさまざまな営みがあったことが想像できる。
舟は洗浄と燻蒸を経て補修や保存処理が行われ、現在は厚真町軽舞(かるまい)遺跡調査整理事務所(旧・軽舞小学校)に展示されている。

太古から人間の営みが色濃く繰り広げられた厚真町には140以上の遺跡があるが、厚真川中流域で特筆されるのが、富里地区にあるニタップナイ遺跡だ。ここでは大陸のアムール川中流域(アムール女真文化)から運ばれたと考えられる約900年前(擦文文化期))の鉄鏃(てつぞく・鉄の矢尻)が見つかり、時代を下った17世紀後半のコタン跡からは、表面に錫を重ねた銅製の銚子(ちょうし)など、実力者の権威を示すと思われる金属製品群が見つかった。日高を中心にアイヌ民族と松前藩が激しい戦いを繰り広げたシャクシャインの戦い(1669年)と同時期のものだ。この島のアイヌ集団と和人集団は、交易によって互いの社会を成り立たせながら、本州や大陸、サハリンの情勢をも受けて複雑な関わりを深めていた。北方の大陸から、そして南の本州から、厚真の地では人とモノがさまざまに行き交い、さまざまな富も蓄えられたのだった。

15世紀の厚真川を行き来していた丸木舟。現在は厚真町軽舞遺跡調査整理事務所(旧・軽舞小学校)に展示されている

武四郎が記録した厚真の豊かさ

北海道大学アイヌ・先住民研究センターの蓑島栄紀(みのしまひでき)准教授から、幕末の富里を訪れた松浦武四郎の記述から、その時代になってもこの土地が驚くほど豊かであったことがわかる、と教わった。
テキストは、『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』の中の「安都麻志」だ。
1858(安政5)年の6月下旬(新暦7月下旬)、41歳の武四郎は土地のアイヌたちに導かれて、勇払から浜厚真、富里、鵡川をめざした。夜明けとともに勇払の会所(交易拠点・幕府の出先)を徒歩と会所の馬で発った一行は、厚真川河口域から上流へ向かう。高台になったキムンコタン(現・字厚和)、チケツヘ(現・字本郷)と進んだが、チケツヘの対岸にあるウクル(支流ウクル川の合流点)の上流のようすも聞き書きしている。そこには、ウクル川源流域のシツトツコの奥は平地で、さらに進めば鵡川の川筋のニワン(現・むかわ町穂別仁和)に至るとか、そのあたりは湿地でおびただしい数のシカがいる、などとある。

しばらくして着いたのが、トンニカ(現・字富里)。ニタップナイ遺跡のある一帯で営まれてきたコタンだ。暮れかけていたので4軒あるうちの一軒、この踏査の案内人でもうじき乙名(指導者)の後継となる予定のイカシユ(和名・板蔵)の家に泊めてもらった。驚いたことに室内には行器(ほかい・儀礼の食物を運ぶ日本の漆器)がなんと30、耳盥(みみだらい・左右に耳状の取っ手のついた漆器)が7つ8つ、筺(はこ・木箱)が2つ、儀礼刀が25、6、短刀が7、8本もあった。みな和人との交易で手に入れた、権威をあらわす豪奢な財物だ。武四郎は、ここの豊かさは西蝦夷地(日本海側)とはずいぶん違うと感嘆する。
一方で武四郎は、トンニカに限らず流域のコタンの男たちの多くは和人の雇いに勇払へ取られて家を離れていること、村々では毎年ヒエやアワなど雑穀が10数俵、隠元豆、カブなどの収穫があるが、少し前に厚真川が氾濫して畑に大きな被害があったことを記録している。夜に粟(アワ)団子をふるまわれたが、あまりにうまいので7つあったうちの5つを明日の楽しみにサラニ(樹皮製の網袋)に入れてしまっておいたという。どんな団子だったのだろう。トンニカ・コタンがあった地の頗美宇(はびう)川との合流点にはいま、武四郎の旅を記す碑が立っている。

洪水があって倒木や流木が多かったことから、このときの厚真川は舟運にはあまり適さなかったようだ。武四郎は、かつてなら河口からトンニカまで丸木舟で行けた、と書く。また歩きやすい早春の堅雪のころなら、トンニカから夕張川水系には二日半ほど、千歳の会所(現・千歳市本町)には一日半で行けたと書いている。いまの北海道人には想像しづらいが、この島には移ろう季節とともに、さまざまな水の道や、冬の道、夏の道が張りめぐらされていたのだ。
武四郎はトンニカに三泊して、ニタツナイ(現・厚真町字富里)やバビウ(現・厚真町字高丘)など周辺の支流域のようすや地名を記録する。例えば現在は厚幌(あっぽろ)ダムの上流奥にあるカニシユウ(現・一里沢)には、伝聞として300年ほど前に誰かがここに鍋を置いたのでこの名(カニ・ス、鉄鍋)があり、イナウを立てて祀(まつ)られているという。蓑島准教授はこのことからも、厚真川上流域がとても古い時代から祭祀や交易流通の重要な場所であったことがうかがえるという。

トンニカを発つとシュルク沢筋を上って分水嶺を越え、ニワン(現・むかわ町穂別仁和)に向かった。
そこから鵡川を丸木舟でルヘシベ(現・むかわ町累標)やホヘツフト(穂別川との合流点)まで上ってから陸路でさらに奥まで進み、帰りはホヘツフト、ムカワフト(鵡川河口)まで舟で下っている。厚真川に比べて大きな鵡川の方が丸木舟の使い勝手が良かったことがわかる。
「安都麻志」の最後は、勇払会所から使ってきた馬をアイヌに託して戻したことと、会所の支配人宛に、厚真川流域で大きな洪水被害が出ていることをしたためた、と終わる。こうした報告も、幕吏(幕府役人)である武四郎の重要な仕事だ。

現在の厚真川と、支流の頗美宇川の合流点。左から頗美宇川が注ぐ

シカとワシの深いかかわり

ニタップナイ遺跡(武四郎の記述ではニタツナイ)は、頗美宇(はびう)川が厚真川に合流する対岸の段丘の上にある。多くの発見をもたらしたこの地からは、大量のシカの骨も見つかっている。2m×3m程度の一角から、なんと25頭分ものシカの頭骨が掘り出されたのだ。オスのものが4段重ねになっていた場所もあり、全国的にも例のない特異な発見だった。イオマンテと呼ばれる、クマの霊を向こうの世界(彼岸)に送るアイヌ儀礼はよく知られているが、厚真町教育委員会の学芸員乾(いぬい)哲也さんは、しっかりと体系化されていたのかただ安置されたのかはわからないものの、いずれにしてもこの時代には、今日までは伝わっていないシカ送りの儀礼があったのだろうという。

アイヌ民族はシカを食糧や毛皮として利用し、角や骨や腱までをむだなく生活具の素材にしてきた。しかしニタップナイで出土した骨を見れば、どうやらコタンで自給する以上の大量のシカを獲って交易品にしていたと思われる。
蓑島栄紀准教授は、厚真エリアの人とシカをめぐって、とても興味深い論考を起こしている(『「もの」と交易の古代北方史』Ⅳ章「古代北海道の太平洋側内陸部におけるシカ皮とワシ羽」)。
蓑島さんはまず、日本人は古来膨大な量のシカを消費してきたと解説する。皮は裘(かわごろも・僧衣・防寒衣)や鼓(つづみ)、鞠(まり)の素材として、あるいは角からは膠(にかわ)を取り、角は薬にもなった。さらに武家が台頭するなかでシカ皮は鎧(よろい)などの武具や行縢(むかばき)のような馬具に欠かせないものとなっていく。行縢とは、馬での遠出や狩猟のとき両足を大きく覆うもので、一枚に大シカ一頭の皮が必要だった。
記録にある17世紀以降、シカ皮は東南アジアから年間数万単位で輸入されていて、それは現地のシカのバイオマス(生物量)に脅威を与えるほどだった。やがて東南アジア産は減少して、北海道産のウェイトが高まっていく。北海道はその供給地として重要な地位を占め続けた。

シカ皮に加えて特筆されるのが、ワシ羽(オオワシやオジロワシの尾羽)だ。厚真など日高地方の内陸部の特産品で、サハリンや千島列島、道東産にはかなわないものの、高級な矢羽として、こちらにも本州の武士階級から大きな需要があった。そして蓑島さんは、シカ皮とワシ羽には強い関係があると考える。
どういうことか。

アイヌにとってシカが重要な交易品となった時代。自給分よりもはるかに多くの数が殺され、皮を剥いだ死骸の多くは山中に放置されただろう。そして、残った肉を求めてたくさんのワシが飛来したのではないか。たとえば現在の知床には、スケトウダラ漁などから出る魚(出荷される品質に満たないもの)を求めて千島からも多くのワシがやってくるが、それと同様の現象だ。
蓑島さんはここで、知里幸恵『アイヌ神謡集』にある「梟(ふくろう)の神が自ら歌った謡」の一節を引く。このようなストーリーだ。
かつて人々が飢饉で苦しんだ時代があった。人間たちの苦況を助けるために梟の神は川ガラスの若者を使者に立ててカムイ(神)のところに談判に行かせる。帰ってきた川ガラスが説明(カムイからの返し談判)すると、曰く、人間たちはシカ猟で、皮を剥ぐと鹿の頭をそのまま山に捨ておくので、シカたちは裸で泣きながらシカの神のもとへ帰っている。もし人間たちがていねいに扱うのならば、カムイはシカを出すという。なるほどそうだったのかと、梟の神はこのことを人間たちに夢の中で告げた。すると人々は行いを改めていく。シカを狩ったときは、その頭もきれいに飾って祀(まつ)るようにしたのだった。
蓑島さんは、アイヌをめぐるこれまでの民族誌には描かれていないものの、おそらく中世から近世にかけて、生業がシカ皮という商品生産に過剰に傾いていくなかで、その不本意な現実とアイヌ民族の精神文化とのあいだのゆがみや葛藤が、この神謡(カムイユカ)に生々しく現れているのではないか、と論じる。

ニタップナイ遺跡(厚真町富里)から出土したシカの骨。1667年に噴火した樽前山の火山灰の中にあった、4段に積み重なったオスの頭骨(提供:厚真町教育委員会)

北海道の新しい風景を求めて

岩波文庫で読める『アイヌ神謡集』の名高い序はこうはじまる。

その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人だちであったでしょう。

この一節は、リアルなアイヌ民族史を詠(うた)っているのではないのだろう。こうした理想を掲げながら人々がどのように悩んだり、自分たちの生を律しようとしたのか。梟の神の節はそんな問いをめぐる神謡ではないだろうか。蓑島さんはそう考える。
「アイヌ民族の歴史を、自然と共生したいわばエコな人々として単純に聖化するのではなく、商品経済という現実に直面する中で葛藤してきた人々としての側面に光を当てた方が、より豊かな歴史をくみ取ることができるのではないでしょうか」

夭折した歴史学者保苅実が深く思考したように、歴史にひとつの真実があるとは限らない。そして現代の地図や器具や常識で、古代を俯瞰することはできないだろう。蓑島さんも、シカとワシの関係をめぐる論考でこの説をひとつだけの真実とは考えていない。
「自然と共生した人々というくくりでは、里山の思想に見られるように、かつての和人たちもまた同様でした。しかし、和人の里山観とアイヌの自然観は同じではない。ではどのように違うのか—。ひとつひとつ仮説を立て、その手ごたえを得るたびに、自分にとって歴史の新しい風景が見えてきます。そのことがまた次の探求への動機づけになります」

わかりやすい大きな物語に回収されてしまう前に、いまここにある現実が、どれほど豊かで複雑なものなのかを問い続ける。歴史を学ぶ本質は、そのことにあるのかもしれない。
蓑島さんは、丸木舟は我々が想像するよりもずっと軽やかに進み、上流への遡航もスムーズだったと解説する。北海道の開拓を駆動させた鉄路や道路はほとんどがこの島の古代の、川や沢筋を活用した移動ルート、アイヌの道を拡張したものだ。しかし時代とともに、規模と効率を求める近代の理屈に合わない道は捨てられていったことだろう(厚真川上流域の道については、第1回でふれた)。忘れられたこと、知らなかったことをねばり強く調べたり、現場に立って考えつづけることで、誰にでもやがて小さな気づきや学びが訪れるはずだ。僕たちの認識マップに、水系を軸にした沢筋や尾根のルートをあらためて重ねていけば、北海道の新しい風景が見えてくるかもしれない。

厚真川上流域、厚真ダムのすぐ下流に建設された厚幌ダム(2019年完成)。建設に伴うたくさんの発掘調査は、北海道史に数々の新発見をもたらした。周囲の山々には北海道胆振東部地震(2018年9月)の爪痕が残る

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