イギリスの歴史家E・H・カーは『歴史とは何か』の中で、歴史とは現在と過去との対話である、と繰り返し論じている。また史実は、それ自体が自ら語るものではなく、呼びかけたときに語り出す、ともいう。カーはさらに、歴史とは、過去の出来事と、しだいに現れてくる未来とのあいだの対話でもあるとも述べている。過去への洞察は、未来への取り組みや思いに、絶えず新たな深さと広さを与えていくからだ。
例えば行政が編む公式の自治体史には取り上げられることのないさまざまな断片から、僕たちはどんな地域史を構想することができるだろう。
過去を深く知ることで現在と未来がもっと強く豊かになる可能性を、小さな新聞からひもといてみよう。札幌の北区、新琴似連合町内会が毎月発行している新琴似新聞だ。
新琴似新聞は、地域の動向を詳細に記録し続ける、名高い広報紙だ。創刊は1966(昭和41)年。百号ごとに縮刷版も作られていて、新琴似図書館などで手軽に読むことができる。ここで取り上げたいのは、新琴似北小学校が身近な防風林で得た学びを総括した12回の連載記事。1980(昭和55)年4月からスタートしたもので、「防風林に学ぶ教育」と題されている。
丘陵もなく広大な原野がフラットに広がっていた札幌北部から石狩では、農地を強風から守るために、明治の入植時から防風林が幾筋も作られた。北海道庁の殖民課が殖民区画を行ったときに組み込まれたものだ。
屯田と新琴似の境界となるポプラ通り(屯田防風林・ポプラ通中央緑地)はその一部で道都の中心にいちばん近い位置にあり、いまも琴似・栄町通から安春川までの約3キロにわたって、分厚いグリーンベルトが延びている。まずこの通りのあゆみをスケッチしてみよう。
1887(明治20)年。新琴似に屯田兵村が開かれた。明治政府が新たに重要な領土と位置づけた北海道をロシアの脅威から守るために、開拓と国防を重ねた使命を担って内地から渡って来た旧士族たちだ。札幌エリアでは、琴似、山鼻につづく3番目の兵村。1889年には、現在の北区屯田のもとになる、篠路屯田兵村がとなりに開かれる。
道庁が設定した防風林地は、明治40年代には林野庁営林局の所管となる。1914(大正3)年には大正天皇の即位を記念してここにポプラ約7千本が植えられ、独特の景観が生まれることになった。開拓使が北米から持ち込んだポプラは、ハルニレなどの在来種とともにすくすくと育ち、北海道らしい風景を形づくっていくことになる。大正期には、屯田や新琴似地区の水田開発のために林内に用水路が掘られた。
1935(昭和10)年には再びポプラやドイツトウヒ、ヤチダモなどが大量に補植され、これが現在まで受け継がれる防風林の骨格となっていく。林に風害や枯死(こし)はつきものだが、戦後の洞爺丸台風(1954年9月)の暴風雨では、250本ものポプラが倒れたという。
昭和30年代になると、屯田は大水田地帯となり、一方で新琴似地区では農地がしだいに住宅街に替わって、都市化が進んだ。
国有林として管理されていたこの耕地防風林を地域の憩いの場として再整備してほしいと住民の声が高まったのは、1974(昭和49)年。林は札幌市が管轄する環境保全林に指定替えとなり、その年の夏から、旧用水路を埋め立てるなどの工事がはじまった。住民の動きは、翌年には防風林保存育成会となって次のフェイズに入る。
地下鉄南北線が麻生まで延長されたのは、1978(昭和53)年の春。この年の秋には、長く屯田地区の代名詞ともなっていた水田の風景が、最後の収穫を迎えた(水に恵まれなかった新琴似ではすでに昭和のはじめには水田が消えていた)。
新琴似北小学校の教諭たちが綴った「防風林に学ぶ教育」の連載記事からは、そのころの地域のようすがわかる。同小でこのプログラムがスタートしたのには、多くの児童にとってそもそもこの長い林がなんであるのかもわからなくなっていた、という前提があった。地域の新住民も同様だ。そこで、自分たちの手で問題を設定して、協力して学び合いながら自ら答えを見つけていく試みがはじまっていく。
「なぜここに防風林があるのか」。「どんな木がどのくらい生えているのか」。「どんな生きものがどのように棲息しているのか」—。
開墾史や樹木にはじまり、研究者が行うように方形区を設けた植生(植物の集団)調査や、野鳥、昆虫、さらには季節風や積雪など気象現象など、子どもたちは自らの手で防風林の博物誌を編んでいくことになった。それはまた、地域の成り立ちや現状を自分の言葉で考えていくことにもなっていく。つまり子どもたちは自分たちの身体で防風林を「発見」していったのだった。
例えば9月の129号の連載記事ではこんな一節がある。
この区(※註/第二横線〜第三横線間)で面白いのは、南側のドイツトウヒの林の下である。オオアマドコロ、マイヅルソウ、レンプクソウ、オオバナノエンレイソウなどの群落が広い範囲を占めて五月から六月の林を色どり、とても住宅地の中の林とは思えない。その上、ミズバショウ、コバイケイソウが白い花を咲かせるに及んでは、若し本州の人がこの防風林の初夏に訪れた時、多分「尾瀬みたい!」という人もあるのではなかろうか。
子どもたちと防風林との交わりは毎年、これらのスプリングエフェメラル(早春の林床に咲く植物)とのうれしい出会いからはじまっていく。
またこの時代では、いまここではほとんど聞くことのない5月中旬過ぎのカッコウの初鳴きが、人々に本格的な春を告げていたことがわかる。約3キロにわたる防風林の両サイドがすっきりと舗装されたのは昭和50年代。それまで林の縁を直進する道は限られていて、畑や住宅地が入り組んだ里の環境があったのだった。
行政と地域の人々が協働で環境づくりに取り組んだ屯田防風林(ポプラ通り中央緑地)は、地域の人々からはもっぱら「ポプラ通り」と呼ばれ、「さっぽろ・ふるさと文化百選」や「北区歴史と文化の八十八選」にも選ばれた。21世紀に入ってからは、「美しい日本の歩きたくなるみち500選」にも名を連ねている。1970年代から防風林の維持管理や啓蒙に当たってきた住民活動は、2001(平成13)年からは「ポプラ通りを守る会」が引き継いでいる。
ポプラ通りでは季節を追っていろいろな観察会や、ゴミ拾い、外来種除去などのボランティア活動が繰り広げられている。ある観察会にちなんでお目にかかったのが、細川一實さんだった。新琴似新聞のことを教えてくれたのも細川さんだ。防風林のほとりに暮らす細川さんは、10年以上にわたって毎日のようにポプラ通りを逍遙している。
細川さんは北海道大学理学部で原田市太郎などのもとで植物学を学んだ。1970年の日米安全保障条約改定をめぐって、各地の大学で大規模なデモ闘争が繰り返され、社会の一部が騒然としていた時代だ。
卒業後は運送会社などで働きながら、興味のままに、湿原のランのデータベースづくりをひとりで進めた。また山岳会の活動にものめり込み、北海道の高山植物のデータベース化にも取り組む。しかし会員の遭難事故をきっかけに会は退会して、以後ひとりで山行を楽しむようになった。そしてあるとき浜益(石狩市)の黄金山で思いがけず、オオバキスミレの息を呑むような群落と出会う。植物へのみずみずしい興味があらためてよみがえったように、細川さんは2004年春から「北海道オオバキスミレ探訪記」というブログをはじめた。仕事以外のほとんどの時間は、植物の勉強と研究に当てることになる。
このブログで細川さんは、道内約130カ所もの場所で観察・採集したオオバキスミレを系統的に分類して、学術文献を踏まえながら、変種について、花や葉や地下茎の構造について、分布域についてなど、32回にもわたって考察している。例えばフギレオオバキスミレが、札幌西南部の山地を避けるようになぜ道南と道北に分かれて分布しているのかといった謎を、細川さんは種分化という切り口で時間と空間を俯瞰しながら探究した。
スミレは昆虫による受粉のほかに、成熟しても開花しない花をつけて(閉鎖花)自家受粉によって種子を作るが、そうした仕組みなどをあらためて理解していくために顕微鏡による分析も欠かせなかった。
その後さらに構図を広げて細川さんの研究は、「北海道スミレ散歩」と題してスミレ科の植物全般に対象を広げる。山野を歩く観察、採集と、内外の論文などの渉猟、精読の成果をまとめたものだ。細川さんのもとには第一線の若手研究者たちなどからの問い合わせや、アドバイスを求めるメールが入るようになった。
しかし2011年に夫人が病に倒れ、治療と療養の日々がつづくことになった。家を長時間空けられなくなった細川さんはほどなくして、住まいのすぐそばにあるポプラ通りを歩いてみることにした。ここなら無理なく手軽に植物観察ができるだろう。
すると思いがけず、絶滅危機種のクロミサンザシや、稀少なタチギボウシなどがあって驚いた。これは面白い。
ポプラ通りの植物観察がすぐ日課となり、合わせて屯田や新琴似地区の歴史も詳しく調べていく。ポプラ通りを離れて、発寒川近くに延びる防風林の、人の手がほとんど入っていない藪にも足を伸ばした。屯田の防風林は西から大きく逆コの字の形で屯田地区を守っていて、ポプラ通りは南側の一辺になるのだ。
細川さんは市街地ではとうに見られなくなった在来の野草が人知れず生きていることがうれしくなり、夢中で観察と記録に取り組む。そして2年間ほどで『屯田防風林の野草と樹木』という写真集を自費出版してしまった。もちろん単に美しい花の表情をとらえて良しとするものではなく、地誌と植物学に深く根ざして48種類の植物を選んだ、細川さんならではの上質な写真集だ(現在は細川さんのホームページで公開中)。
わざわざ遠出をしなくても、自宅から歩いて数分のところに、これほど興味深い環境がある。細川さんは、自分にとってポプラ通りの「発見」はまさに灯台下暗しだったと述懐する。夫人の病もさいわい回復に向かったが、その後も細川さんはずっと防風林散歩を続けている。
細川さんのポプラ通り散歩は、単に林の植物を愛でるものではない。こちらも毎日のように発信しているX(旧ツイッター)を覗けば、そのようすが見えてくるだろう。
例えば今年の8月のある日。
「今年もナガボノシロワレモコウが咲きはじめた。さほど遠くない所にも何ヶ所か自生するところがあるけれど、ゴマシジミ(※註/シジミチョウ科のチョウ)は居ない。ゴマシジミとクシケアリの両方の分布がそろわないと実現しない。それでもこの防風林にナガボノシロワレモコウが毎年咲くだけでもうれしい。」
そして9月のある日。
「去年までの3年間の植相調査で見落としていた植物を見つけた。これはヤブマメ。葉っぱだけはあるのを知っていたけれど、うっかりミツバアケビがこんなところにもと思っていた。花が咲いているのに出会ってやっと判った。」
このXアカウントは、自身の忘備録であり、さらには地域史の貴重な断片となってオープンに積み重ねられていく。
細川さんは札幌市が実施した調査の現場を手伝い、全区画の主な植物群落の分布を詳細な植生図に落とし込む仕事もしているのだった。だからかつてあったものが力を失ったり、あるいは消滅してしまうプロセスも正確に把握している。そして近年いっそう勢力を伸ばしているオオハンゴンソウやシンジュ、アメリカオニアザミ、フランスギクやイワミツバなどの外来植物の動勢にも危機感を抱いている。
お盆過ぎの朝。細川さんの防風林散歩に同行させてもらった。
ポプラ通りには現在、外来種や園芸種を含めて580種類以上の植物が見られるという。といっても猛暑や豪雨に代表される気候変動の時代。開拓以前からあったオオバナノエンレイソウやオオウバユリをはじめ、かつての風景を現在に伝える在来植物を追いやろうとする、強い外来種の勢いが懸念されている。
植物群に眼をやりながら細川さんは、「この時期にやるのはもっぱらオオハンゴンソウとゴボウの除去です」、と言う。
市などから依頼されているわけではないが細川さんは、杖の先に小さなカマを仕込んだ自製の器具で、このふたつを手早く刈っていく。あからさまに作業をしていると知らない人に怪しまれるので、高齢者が杖をもって散歩しているていを装っているんです、と笑う。抜いたものは車道近くのへりに出しておく。こうすると札幌市が定期的に行う道路縁の除草作業で、いっしょに運び出してくれる。
オオハンゴンソウは明治中期に観賞用に輸入されたもので、1950年代から広がりはじめ、いまではほぼ全国に分布して在来種の脅威となっている。北海道の山野ではどこでも我が物顔だ。ゴボウは畑から野生化したもので、札幌市の円山地区ではとくに近年、原始林に悪影響を与えるとしてボランティアによる除去作業が恒例化している。
「ここ10年ほどで、ゴボウやヤマグワ、キクイモなど、かつてはなかった種の勢いが目に余るようになりました。勢いよく葉を茂らせるので、在来の植物が必要な光を奪ってしまいます。かつて林の裸地に補植されたニワウルシ(シンジュ)も、増えすぎています」
細川さんは、10年前は3カ所にあったキツリフネの群落が、いまは一カ所になったと嘆く。単独の小さな群落だと遺伝子がみな同じになってやがて絶えてしまうという。
開拓期から生き延びてきた植生を、できるだけそのまま未来に引き渡していくこと—。それは自然や歴史を守ろうといった心情や感傷にとどまらず、この不安定な時代に社会が無理なく持続していくためにとても大切なことだ。人間社会の営みのいちばん底には、なんといっても安定した自然環境という基盤が必要なのだ。
ポプラ通りに一カ所だけあるナガボノシロワレモコウのところに案内してもらう。そこには、同じくここにしかないエゾミソハギと2カ所にしかないイヌゴマもあった。細川さんのからだには、防風林をふつうに散策する人とはかなりちがう詳細な認識マップがある。だから世界がいっそう豊かで複雑に見えているのだ。
耕地防風林としての役割を終えたポプラ通り(屯田防風林)は1970年代半ばから、地域の人々の手で新たな意味や価値をまとい、四季の暮らしに欠かせないものになった。さらに近年は生物学者からも、防風林自体のより広い働きが注目されるようになったと、細川さんが教えてくれた。
「速水将人さん(北海道立総合研究機構)らの十勝の防風林の研究では、林近くの草原に絶滅危惧種のアサマシジミ(チョウ)がいて、林縁には食草のナンテンハギが自生していました。ほかにも絶滅が危惧されるクロバナハンショウヅル(キンポウゲ科の植物)が林内で発見されたのです」
防風林が、風害から土壌と作物を守るという本来の役割に加えて、かつてそこにあった環境の一部をタイムカプセルのように保存していたことがわかったのだ。いわゆるレフュージア(生物の待避地)の機能だ。
群落数は減ってもポプラ通りでも同様に、開拓時代の原風景を偲ばせる植物がなおさまざまに自生している。
冒頭にあげた歴史家E・H・カーの『歴史とは何か』には、「私たちの歴史観は私たちの社会観を反映している」、という一節がある。カーの論考は第二次世界大戦のあと、世界全体が初めて核の脅威におおわれた時代の産物だった。冷戦の緊張が高まってもし核戦争が起こってしまえば、人間の文明が終わるかもしれない。そう考える知識人もあらわれはじめた。しかしカーは、自分たちの時代では理性の機能と力が、それ以前とはちがう新しい領域に広がりはじめたと、希望を選ぶ。
ポプラ通りを対象に1980年代にはじまった新琴似北小学校の学びは、子どもたちの行動と思考を通して地域の価値を深く耕すことになった。さてその先、2020年代に生きる僕たちの歴史観は、どんな社会観を反映していることだろう。細川さんに特段の気負いはないが、常人にはできそうもないその日常にふれて、いまここで生まれている地域史の細部の意味を、あらためて考えなければならないと思った。
今回ふれた内容にとどまらない細川一實さんの研究の記録は、「北海道植物関連文献目録」として以下からすべて見ることができる。
北海道植物関連文献目録