アメリカの歴史学者リン・ハントは『なぜ歴史を学ぶのか』で、2010年代以降の世界で歴史と向き合うことの広がりを解説している。フェイクニュースや、客観的な事実よりも世論を動かす感情的な言説(ポスト・トゥルース)があふれ、ジェンダー、マイノリティ、移民といった、それまでの歴史学ではあまり取り上げられてこなかった問題を前にして、いま歴史を考えるためには何が必要なのか。そこでは、世界各地に共通する先住民というテーマも欠かせなくなるだろう。
いまから半世紀を遡るだけで、北海道でもずいぶん違う社会があった。1968(昭和43)年には開道百年の記念式典が、天皇・皇后を迎えて札幌の円山陸上競技場で開かれた。蝦夷地が北海道と改称されて開拓使の事業がスタートしたのは1869(明治2)年。1969年は開拓使設置百年の節目だ。『新・北海道史』の編纂や、開拓記念館(現・北海道博物館)と北海道百年記念塔の建設が野幌の森(江別市)ではじまったのも百年事業の一環で、旭川の常磐公園には、彫刻家本郷新と本田明二の手による彫刻作品「風雪の群像」が設置された(1970年8月)。
「風雪の群像」の制作を担った本郷新(1905-1980)は、成功した札幌の商家(種苗農具店)に生まれて東京高等工芸学校で彫刻を学び、高村光太郎にも師事した。大正から昭和にかけて西洋近代彫刻の基礎を身につけながら、40代を迎えた戦後は各地で多くのパブリックアートを手がける第一線の作家となった。60代半ばの1970年当時は、高い評価と機会を得て最も精力的に仕事をした時代だった。
このころさらに大阪万博(1970年)や札幌オリンピック(1972年)と、全国を沸かせるイベントが続いた。しかし時代のこうした高揚は、第1次オイルショック(1973年)によってあっけなく切断されてしまう。1950年代から続いた高度経済成長が終わり、日本の社会は大きな振幅のなかにあった。
札幌オリンピックがあった年(1972年)の10月23日の深夜。
旭川の常磐公園に据えられた「風雪の群像」が何者かによって爆破される。像は無残に破壊され、数百m離れた民家や旅館のガラスが10数枚も割れるという激しさだった。またほぼ同時刻に、札幌の北海道大学文学部の研究施設にあったアイヌ民族衣装の資料ケースが放火された。この日は、近世最大のアイヌ民族の蜂起(1669年)を率いたシャクシャインが、松前藩の奸計によって殺された日だった。
のちに犯人は「東アジア反日武装戦線」を名乗るテロ集団であることがわかったが、爆破犯をめぐってさまざまな憶測や流言が飛び交うことになる。なぜならこの作品は、本郷による構想スケッチが公開された時点から、すでにさまざまな物議をかもしていたからだ。
「風雪の群像」は、明治の国策としての北海道開拓の物語を造形するために、3人の和人の若者と先住アイヌの老人、そして和人の娘からなる5人で構成され、アイヌの老人は大地に膝をついていた。本郷は、政治家やリーダーではなくあくまで市井の人々を取り上げたかった。しかし当初この構想が公開されたとき、「なぜアイヌ老人だけが片膝をついているのか?あからさまな蔑視の現れだ」、という声が上がる。
老人はのちに岩に腰掛けるポーズに変更されて作品は完成したが、異議の声は一部でなお止まらない。よく知られている挿話には、彫刻家砂澤ビッキが除幕式前日の夜、旭川の平和通でひとりで抗議のビラをまいたことがあげられるだろう。
爆破された「風雪の像」は、背面のレリーフなどが省略されて1977(昭和52)年に常磐公園に復元された。作品をめぐるこうした史実を記憶する人も少なくなっていくが、本郷新記念札幌彫刻美術館(札幌市中央区宮の森)の吉崎元章館長はいま、本郷のスケッチやメモ、日記などの一次資料と向き合いながら、美術誌「美術ペン」(1966年創刊・北海道美術ペンクラブ)で、この事件のいきさつを詳細に再検証する連載をつづけている(「本郷新『風雪の群像』をめぐって」。2021年春号スタート)。
爆破事件は、日米安全保障条約再改定をめぐる衝突や過激な爆弾テロ、 そしてアイヌ民族解放運動など、当時の複雑でときに暴力的な世相と密接に関わり、各界に多くの当事者がいることから、やがて触れる人も少なくなっていた。しかし吉崎さんは、半ばタブーとなっていたこの事件を改めて調べ直し、記録に残そうと考えた。
「学芸員の仕事は、作品やそれを生んだ時代の諸相をより多くの人に強く深く伝えることにあります。だから爆破から50年経った節目に、あの事件はいったい何だったのかをあらためて整理したくなりました」
小回りが利く民間組織とはちがう、公益財団法人札幌市芸術文化財団という公に開かれた組織で仕事をする吉崎さんにとって、この取り組みが強い意欲と胆力によるものであることは、容易に想像できる。
「これからの公共空間に据える美術のあり方には、作家や設置者にとどまらず、より広く社会の多様な議論が必要です。道内外に大きな議論を引き起こしたこの事件は、あの時代特有のものだったのか、あるいは現代に共通する問題をはらんでいるのか。さまざまな人が幅広く再考していくためにも、ベースとしてまず正確な事実関係が共有されなければなりません」
吉崎さんの連載は8回まで進み、最後に論考を深めて全11回の予定だという。
吉崎さんの連載で、本郷に最初に異議を唱えた旭川在住の作家三好文夫を知った。代表作のひとつ『重い神々の下僕』(1965年度上期直木賞候補)を読むとこの短編小説は奇しくも、観光開発を目的としたアイヌコタンへの新道工事のために使われるダイナマイトが盗まれた事件から始まっている。作品はフィクションだが、のちの「風雪の群像」爆破事件と呼応するような不思議な機縁が、その時代に分け入るための地図にも見えてくる。
吉崎元章さんはかつて札幌芸術の森美術館(札幌市南区)で、札幌の美術史を掘り起こすふたつの重要な展覧会を企画して、話題を呼んだ。2000(平成12)年の「中根邸の画家たち—戦中・戦後の札幌の洋画事情—」と、2010(平成22)年の「さっぽろ・昭和30年代—美術評論家なかがわ・つかさが見た熱き時代—」だ。
「中根邸の画家たち」展は、戦前・戦中・戦後と、中島公園(札幌市中央区)のほとりに屋敷を構えた資産家中根光一(1905-1972)が、困難な時代にたくさんの美術家たちを陰に陽に支援しながら、札幌の若者たちに中央画壇の息吹を伝え、戦後の全道展創立にも大きく寄与した史実を深く説き明かしたもの。アジア太平洋戦争へと突き進む時代。モノや食料に欠く生活を強いられた東京の画家らは中根を頼って来札して、彼は援助を惜しまなかった。吉崎さんは札幌芸術の森美術館の学芸員として札幌出身の作家たちの展覧会に取り組む中で、彼らの口からしばしば中根の名を耳にした。話を聞くほど、強く興味を引かれたという。
中根のことは、恩義を受けた画家たちが感謝と敬意を込めて語り伝えたり断片的に書き残しているだけで、一般にはほとんど知られていなかった。吉崎さんは時間をかけて少ない情報を集めて整理しながら、これまでの文献には含まれていない、いわば北海道の美術史の裏面をていねいに探っていく。
「開催の半年前になってご遺族がハワイに暮らしていらっしゃることがわかり、あわてて現地に飛びました。予算の制約もあって上司はとても渋い顔でしたが(笑)、そこからさらに新たな発見が重なっていったのです」
展覧会では、松島正幸や児玉善三郎、野口彌太郎、三雲祥之助、小川マリなど名高い画家たちの作品が、中根との交友を軸にした文脈で並び、戦中戦後の美術史に全く新しい魅力的な補助線を引くことになった。また中根は絵画の収集家としても知られていた。それは当時の日本の主だった洋画家たちを網羅する充実ぶりだったとされている。1954(昭和29)年に中根が離札するさいにその多くは売却されたが、履歴を粘り強くたどって再現が試みられ、会場ではその一端も紹介された。
ちなみに彫刻家本郷新と中根光一は、札幌第二中学校(現・札幌西高校)で同級だ。
「さっぽろ・昭和30年代—美術評論家なかがわ・つかさが見た熱き時代—」展は、岩内の画家木田金次郎に会いに1952(昭和27)年に東京から来道して、その後道都で独自に美術評論活動を繰り広げた、伝説的という形容がふさわしい批評家なかがわ・つかさ(本名・中川良)に強い光を当てた展覧会だ。
なかがわは翌53年に札幌に居を構え、主に北海タイムスを舞台に、批判や恨みも厭わない鋭い展覧会評や正攻法の美術批評を書き始める。また札幌の美術家らと協働でアートイベントを企画したり、美術批評誌「北美」を編集。さらに60年代には北海道初の美術批評グループ「北海道美術ペンクラブ」を結成して、批評誌「美術北海道」を発刊した。吉崎さんが「風雪の群像」爆破事件をめぐる論考を連載している「美術ペン」は、この「美術北海道」の直系誌に当たる。北海道の同時代美術をテーマに、読売新聞北海道版やHBCテレビにも定期的に登場した。
しかし札幌市民となって10年に満たない1963(昭和38)年の夏。なかがわは脳溢血のために逝ってしまう。わずか34年の生涯だった。
ところが実はそのころ本人は、自分の年齢を45歳だと騙っていた。つまり札幌に現れて大胆きわまりない行動を開始したとき、彼はまだ24歳の青年にすぎなかったのだ。追悼の場で人々は、トレードマークだった髭も、その童顔を隠すためだったのだろうとうなずき合う。展覧会の図録で吉崎さんは、「最後まで年齢を偽り通せたのは、誰からも疑われないほど、彼の行動や発言が確かなものであったことの証でもあるだろう」、と書いている。
なかがわが精力的に活動した時代の札幌では、中心街にビルが建ちはじめ、人口が急増していた。1955(昭和30)年に49万人あまりだった市民は、その後の10年で82万人を数えている。琴似町や札幌村、篠路町、豊平町が合併して市域が大きく広がり、中心部では画廊がいくつも誕生して、山内壮夫の「希望」(開業なった札幌市民開館前庭)や本郷新の「泉の像」(大通西3丁目)、同じく「牧歌の像」(札幌駅前広場)など、公共の場に野外彫刻が次々に据え置かれた。
今田(こんだ)敬一の『北海道美術史』ではなかがわを、北海道の美術界に旋風を吹かせた、と評している。作家とメディアがなれ合いがちで、北海道という島の中で充足していた当時の道内の美術界で、なかがわは芸術家とジャーナリズムの関係を厳しく緊張感に満ちたものに戻そうと、ときに激しく戦った。ある日道都にたったひとりで現れた男が、既製の組織に頼らず自らの活動の場を独力で切り拓いたことには、現代から見ると驚くばかりだ。
「なかがわ・つかさ展」では、当時のなかがわの批評と対象の作品が並列されたほか、彼が熱く夢見た美術館の実現に向けて書き続けた北海道の物故作家たちにちなむ原稿と、その作家たちの作品も味わうことができた。
「中根光一にしろなかがわ・つかさにしろ、私たちが暮らすまちにはかつてこんなにすごいことをやっていた人がいたのに、多くの人がそのことを知らないか、忘れてしまっています。彼らの仕事を掘り起こすことは、私たちが未来に向かうための大切な力になると思います」
冒頭にあげた歴史学者リン・ハントの『なぜ歴史を学ぶのか』にもどろう。
ハントは、現代に求められる歴史には、深く広い歴史と、小さな個別の歴史、そしてその中間の次元や単位があると整理する。われわれは誰でも、ローカルな世界から国家、そしてグローバルな地平まで、さまざまな次元の世界に生きているからだ。また、自分が生まれる前に起こったことを知らないのは、いつまでも子供のままでいることなのだ、という。そして問う。われわれは歴史を記録することで先人たちの生に織り込まれていくのだから、その取り組みがなければ人生に何の価値があるのだろうか—。
ハントが説くように歴史への向き合い方は、50年前と現代ではもはや同じではない。例えば北海道開拓史におけるアイヌ民族と和人の関わりをめぐって、近年では「セトラーコロニアリズム」という考え方が議論されている。セトラーとは、外部からやってきてやがてその地の主権を握った人々のこと。アメリカやオーストラリア、そして北海道などはセトラーが作ってきた社会だ。
議論ではまず、セトラーには現代においても、多くの人が半ば無意識に抱いている植民地主義を自覚することが求められる。それは、強者が力によって自分たちの世界を広げていくことを自明だと思い込むふるまいだ。その上で、先住の人々とセトラーが過去に起きたことを共に考え、相互に受け入れ、現在において尊重しあう関係を築くことが掲げられる。つまり「風雪の群像」を認めるか認めないか、というかつての二項対立を超えた場所を作るための議論と思考だ。
「風雪の群像」を制作していたのとほぼ同時期に、本郷は「無辜(むこ)の民」と題した連作に取り組んでいる。第三次中東戦争(1967年〜)などの悲惨な世界状況を見据えて、途方もない苦難を強いられた人々をきつく布を巻かれた人体によって造形した比較的小さな作品群で、拡大された一点が、本郷亡きあと石狩浜に据えられている。台座に記された本郷の言葉は、「この地に生き この地に埋もれし 数知れぬ無辜の民の霊に捧ぐ」。
例えば「風雪の群像」と「無辜の民」を並べてみると、どんな議論が起こるだろう。そこに見えるのは同様の主題だろうか。あるいは違うものだろうか。抽象度の高い「無辜の民」と、より具体的な「風雪の群像」のあいだには、何があるだろう。
吉崎元章さんの仕事からは、美術の世界から北海道を考えてみることの思いがけないような深さと広がりが迫ってくる。