サイドストーリー

塩狩峠~ふたつの大河を分ける物語-3

士別市立博物館横に復元、移築、改修された士別村屯田兵村の兵屋。士別市有形文化財(写真提供/士別市立博物館)

北上をつづけた北海道開拓の最前線が塩狩峠を越えた時代。それは北東アジアに大きな変化が起こっていた時代でもあった。少し大きな構図でこの峠のことを考えてみよう。
谷口雅春-text

時代を動かした北方へのまなざし

三浦綾子ゆかりの塩狩峠記念館(和寒町)を訪ねたとき、和寒町役場の茂木雅志さんが、塩狩峠は道北の入り口なんだと教えてくれた。それはきっと有史以前からのことだったのだろう。魯迅の「故郷」の最後にあるように、道は初めからあるのではなく、歩く人が多くなることでできていく。北海道の内陸交通網のもとになったアイヌの踏み分け道は、まさにそうしてできていった道だ。これに対して北海道の開拓とは、はじめから道をつくろうとする大事業だった。動機のひとつが、北方ロシアへの恐れと備えだ。

『新北海道史』などをベースに、近代日本の北方へのベクトルを考えてみよう。開拓使の設置当初(1869年)、北海道の兵備は箱館府一中隊があるだけだった。ロシアが軍隊と流刑囚を樺太に送り込んで極東進出を加速させる事態があったにもかかわらず、列強と伍する近代国家としての軍制を一から整えなければならなかった明治政府に、北方警備に専心する余裕はない。そこで開拓使や陸軍大将西郷隆盛らによって屯田兵の制度が構想されたのだが、政府内の征韓論争もあって進まない。1873(明治6)年になって開拓次官黒田清隆は、あらためて右大臣岩倉具視に屯田兵設置の建議を出している。
そこには「樺太ノ国家ノ深憂タルハ固(もと)ヨリ論ヲ待タス」と前段にあり、しかし北海道に十分な軍隊を置くには予算が足りない、とつづく。ならば「(中国やロシアの)屯田ノ制ニ倣ヒ、民ヲ移シテ之ニ充テ、且(かつ)耕シ且守ル」のが良いではないか、と論は展開される。平時は開墾、有事には兵役に就く屯田兵の仕事は、戊辰戦争の負け組となった東北の貧窮士族たちに居場所と出番を与えることもできた。1875(明治8)年、札幌近郊の琴似兵村(現・札幌市)にはじまる屯田兵の制度がこうして作られていった。屯田兵は当初は旧士族に限定され、西郷隆盛をかついで旧薩摩藩士族が起こした西南の役(1877年)にも出兵している。負け組にとっては怨みつのる旧薩摩藩士との戦(いくさ)だから、このときの闘志たるや、といった挿話は北海道史に欠かせないものだし、屯田兵が政府に向けて引き金を引くかもしれないので、念のために彼らの背後に一小隊の狙撃兵が配置された、という類の話も伝えられている。士族による屯田は南滝川・北滝川の兵村まで(1889・1890年)。1890(明治23)年以降は、応募資格から旧士族の制限がはずされた。士族出は農業経験がない上に屈折したプライドが鼻につき、不穏の行動もある。またこのころになると維新後の士族もそれぞれに新しい生計の途を進んでいた、ということだったのだろう。

貧窮士族対策の枠を越えて平民からも募集がはじまると、新たな屯田兵村は空知、上川へと北海道の中央部を北上しはじめた。今度は農民たちが開拓と北方警備の先兵となっていったわけだ。最後の開村となったのが道北で、1899(明治32)年夏の剣淵と士別だ。南剣淵169戸、北剣淵168戸、士別100戸。関西や関東、北陸、越後、そして東北から応募した平民家族たちだった。各地で家族を乗せた船は小樽に入り、一行は鉄路で奥地を目ざす。といっても当時の鉄道事業の柱は炭坑からの石炭輸送だから、客車が足りない。無蓋台車に天幕を張ってゴザを敷いただけの厳しい旅だった。旭川はまだ人家まばらな原野。旭川からの鉄路(北海道官設鉄道天塩線)は蘭留(らんる)で終わり、その先の士別までは工事中だった。しかし特別のはからいで工事列車が彼らを運ぶ。『和寒町史』には、「塩狩峠の急坂は線路敷設間もないため震動ひどく、機関車に給炭車と台車一両だけを連結し、ようやく和寒に達したのであった」とある。ここから先は原始林に囲まれたただひと筋の昼なお暗い道を、子を背負い、老人たちをいたわり進む。剣淵につくと、士別に向かう家族たちはさらに剣淵川を舟で下っていった。

開村当時(1899年)と思われる最北の屯田兵村、士別村屯田兵村のようす
(北海道大学附属図書館北方資料室所蔵)

極東アジアの中で道北を見れば

道内の少なくない土地で開拓の草分けとなった屯田兵村は37カ所つくられ、家族を含めて4万人近い人々が津軽海峡を渡った。この数は、同じ期間の北海道移民の7%を占めたという。開墾適地の選定をはじめ食糧や家屋、農具などの手厚い支援を受けた彼らは、ふるさとを捨てて一か八か裸一貫でやってきたような入植者に比べるとはるかに恵まれていた。しかし内地から見れば極寒の地の千古不斧(ふふ)の森に挑む厳しさは変わらないし、出自の全くちがう者たちが寄り集まった団体で、日常生活の規制や軍事教練などの規律は厳しかった。
剣淵と士別が最後となった屯田兵村は、やがて第七師団が創設(1896年札幌、1901年旭川移駐)されると北方警備の任を陸軍にゆずり、屯田兵制度は1904(明治37)年に廃止された。

さて北方の脅威であるロシアとの関係はどのようなものだっただろう。
琴似に最初の屯田兵が入った1875(明治8)年。樺太・千島交換条約が結ばれて、日露間の国境問題がいったん落ち着く。アイヌやニヴフ、ウィルタなどの先住民族の地に日露の人々が混住していた樺太をロシア領とするかわりに、約1200キロにわたって50あまりの島が連なる千島列島の全島が日本領になった。千島にも古来アイヌ民族が先住していたが、交換条約によってサケ・マスやカニなどの膨大な漁業資源が日本のものになる。千島への玄関口となった根室の繁栄がはじまった。

しかし屯田兵の応募枠が士族から平民に広げられた明治20年代半ば、東方進出を熱望するロシアはシベリア鉄道の建設をスタート。10年以上を費やして1904(明治37)年秋にはモスクワから極東ロシアの東南端ウラジオストクまで、9300キロのシベリア鉄道がついに全通した。(ちなみに日本にロシア正教を伝えたニコライがはるか西方のサンクトペテルブルクから箱館に着任するのは、シベリア鉄道開通の40年以上も前のことだ)。
剣淵と士別の屯田兵村は、シベリア鉄道の工事が着々と東進するさなか、迫り来る脅威への備えにほかならなかったのだ。日露がついに衝突して日露戦争の火蓋が切られたのは、シベリア鉄道が秋に全通する年の2月。この年の春、剣淵と士別の屯田兵は現役満期除隊となり後備役となっていたが、夏に旭川の第七師団に動員令が下りると招集されて、満州に渡る。激戦の末に日本は勝利したものの、剣淵から27名、士別からは12名の戦没者を数えた(「和寒町史」)。

道北の開拓が急ピッチで進められていた明治30年代。日本海対岸の大陸の状況はどうだったろう。
屯田兵村が剣淵と士別に設置された1899(明治32)年、ウラディミール・アルセーニエフというロシアの若い士官が、ウラジオストクの義勇兵部隊に着任した。長谷川四郎(翻訳家・作家)によれば、この部隊はタイガ(針葉樹の大森林)や狩猟を好む鉄砲の名手たちからできていて、平時は狩猟で山野を歩きまわり軍事ルートなどを研究。戦時には軍の偵察や案内役を務める。アルセーニエフは部隊の隊長で、地理や軍事戦略研究のために沿海州南部の山野を歩きまわっていた。沿海州とは、ロシア極東の東南端の地方だ。もちろん道路も鉄路もない時代だから、アルセーニエフ一行は、その百年前に近藤重蔵らが蝦夷地の天塩川や石狩川の源流域を探検していたのと同じ仕事をしていたことになる。

アルセーニエフは1906(明治39)年から、ロシア地理学協会の後援を受けて沿海州ウスリー地方の調査に乗り出した。現在ではロシアと中国の国境となっているウスリー川(アムール川の大支流)流域だ。このときウラジオストクの北の山中でひとりのゴルド族の男と出会う。名前をデルスウ・ウザーラ。天然痘で身内をみな失い、ひとり狩猟で生きていた60歳近い男だった。ゴルド族とは、現在ではナーナイと呼ばれるアムール川流域の川の民。漁労採集で暮らしを営み、魚皮を巧みに使って衣服や靴などをつくることでも知られる少数民族だ。

デルスウはアルセーニエフの道案内となり、タイガを効率良く安全に移動していく術を教えた。アルセーニエフはやがてこの調査行のことを『デルスウ・ウザーラ』という素晴らしいノンフィクションにまとめて、長谷川四郎が日本語に移すことになる。
長谷川がこの本に出会ったのは1941(昭和16)年。函館生まれの長谷川は、法政大学独文科を出て、まず南満州鉄道の大連図書館に勤めた(欧文図書係)。その後北京の満鉄北支経済調査所を経て、大連の調査部にいた時代だ。このころを回想した長谷川の「デルスー時代」というエッセイは、日本の大陸進出の小さな一断面を切り取っていてとても興味深い。

剣淵と士別に最後の屯田兵村が開かれたころ、帝国ロシアは、サハリンや日本海対岸の沿海州にまで勢力を伸ばしていた。列強の進出に抗うために中国民衆は立ち上がった(北清事変)。それから30数年。日清・日露戦争の勝利で日本の北進論が勢いを得て、大陸進出の気運はさらに増していく。地誌や民族学に強い興味を持っていた長谷川四郎は、仕事の合間に『デルスウ・ウザーラ』の翻訳をこつこつと続けた。
日本の北方への志向は、屯田兵に代表される移民たちが内陸から塩狩峠を越えることで道北開拓の目途がたち、次のフェイズに入ったのだと思う。同時にそのころ、ロシア沿海州の動きも、先住民の営みに上書きするように新たな局面を迎えていた。

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