【日本酒に愛されたまち、北海道・旭川(2)】

機械でうまい酒は造れるか、ある酒蔵の挑戦

合同酒精旭川工場の醸造タンク。機械によるオートメーションシステムで新時代の酒造りが行われている

大雪山を源とする清冽な伏流水と、地元で穫れる豊富な米、寒造りに適した寒冷な気候と、好条件が揃う旭川。
それでも「北の灘」と呼ばれるほどの酒どころになるまでには、ほかにもさまざまな要因が絡んでいたようだ。
井上由美-text 伊藤留美子-photo

酒のまちを支えたもの—自給自足のマーケット

旭川・神居・永山が開村したのは1890(明治23)年。翌年には永山村に屯田兵400戸が入植したが、その年にはもう酒造りが始まっている。
1892(明治25)年になって札幌から空知太(砂川市)までの鉄道が開業したものの、旭川までの鉄路はなく、輸送路は上川道路(国道12号)のみ。ところが、この道は「晩秋から初冬にかけて泥海となり、冬季の暴風雪と共に、輸送機能を低下させ、時には停止するきわめて不安定なもの」だったという。〈旭川史編集機関誌『旭川研究』第12号/「旭川の酒造業(一)」木村光夫著より〉
つまり、旭川は物資の輸送が不便で、陸の孤島のような環境もあって、米も酒も自給自足が求められていたというわけだ。

その後、1898(明治31)年に滝川―旭川間の官設鉄道上川線が全通。馬での運搬にくらべ利便性は格段に向上したものの、本州産の酒に脅かされることはなかったようだ。翌年から旧陸軍第七師団の旭川移駐が始まって人口が急増。マーケットも爆発的に拡大したからだ。
小檜山酒造場(髙砂酒造)と山崎酒造場(男山)が旭川で営業を始めたのは1899(明治32)年。日本酒精製造(合同酒精)の創業も1900(明治33)年で、ちょうどこの時期にあたる。

合同酒精の旧蒸留棟は1914(大正3)年建築。赤レンガの高層建築は珍しく近代化産業遺産に指定されている

合同酒精の前身、日本酒精製造はもともと酒精(エタノール)の製造を目的に設立された会社だ。後年、日本最初のバーといわれる浅草の「神谷バー」を開く神谷傳兵衛が、原料の馬鈴薯が手に入りやすい旭川に目をつけて工場を設けた。
しかし第一次大戦後の不況や関東大震災の影響で経営難となり、1924(大正13)年に道内の焼酎製造業4社が合併して誕生したのが合同酒精。設立に力を貸したのは、小樽の北の誉酒造(当時は野口商店)だった。

合同酒精は第二次世界大戦の最中、ペニシリンや航空燃料の製造にも携わったが、戦後は焼酎製造を柱に吸収合併を繰り返して拡大。1963(昭和38)年には本社を旭川から東京に移し、いまや全国にネットワークを持つオエノングループの中核企業に成長した。
旭川工場で日本酒を造り始めたのは1966(昭和41)年。ただし当時は小売向けの瓶詰めはなく、同じ合同酒精の灘西宮工場へ「富貴」という銘柄の原酒を供給していたという。
「昔は工場の敷地内から旭川駅に直結する鉄道の専用線もあったんですよ」
そう教えてくれたのは、旭川工場の工場長の水口哲司さん。
「今も旭川工場は7割が焼酎。ビッグマン、鍛高譚、グランブルーなどです。2割が紙パックで売っている低価格帯の合成清酒。残りの1割が清酒です」

合同酒精旭川工場長の水口哲司さんは旭川生まれ。山梨の福徳長酒類韮崎工場などでも勤務の経験がある

酒のまちを支えたもの—造り手の熱意

水口さんに旭川工場「大雪乃蔵」の特長を尋ねると「通年醸造とオートメーションシステム、オール北海道の米、この三つです」と即座に答えが返ってきた。
当初は南部から杜氏を招いていたが、1997(平成9)年からは社内で酒造技術者を育成。1998(平成10)年には機械によるオートメーションシステムの工場を建て、通年で酒造りを始めたという。
「機械化して常に安定した品質のものをつくる。手造りじゃないけど、手造りに近い味を出す。それがここのこだわりです」

とはいえ、口で言うほど簡単ではなかったようだ。
「杜氏は五感の世界。勘に頼る部分が大きい。機械にインプットするのには数値化しなければならないんです」
たとえば温度や湿度の管理。杜氏は日々もろみの温度を確かめ、もろみタンクをシャワーの水で冷やしながら適温に調整するが、機械ではあらかじめ温度経過を設定して管理するのだそう。
「当初は思うようにいかなかったですね。試行錯誤で。機械ではムリなんじゃないかと思うときもありましたよ」
結果が出たのは4年目。2004(平成16)年の全国新酒鑑評会で「大吟醸 大雪乃蔵」が金賞を受賞。2013〜2015年にも3年連続で金賞を勝ち取り「機械でうまい酒は造れない」という常識を覆した。

昔は蒸した米を2人がかりでスコップで掘って移していたが、いまはリフトで吊り上げてタンクへ移動



初添、仲添、留添と3回に分けて仕込む三段仕込み。櫂でかき回さず、攪拌機のスピードと回数をコントロールしている

もろみを流し込んで液と粕に分ける圧搾機。通常は手作業ではがす粕を、ここではロボットのアームがはがしていく

タンク1本1本のデータを集中管理。杜氏と蔵人で15~16人の人手がかかる日本酒造りが、ここでは3人体制に

オートメーションシステムの日本酒造りは、オエノングループの中でも旭川工場だけ。小樽の北の誉酒造を吸収合併したことで、2年前から「北の誉」ブランドもこの旭川工場で造っている。この先、機械が主流になるかどうかはわからないが、愛飲家からは変わらぬ支持を受けているという。

そしてもうひとつ、大雪乃蔵の大きな特長は、米を100%北海道産に限っていることだ。
「北海道の地酒というからには、北海道の米を使うのが本分ではないかと、平成22年からはオール北海道です。吟風や彗星など酒米も使っていますが、うちは食米が多いんですよ。酒米には心白というデンプンのかたまりの部分があって、麹菌が入っていきやすいようになっていますが、食米にはその心白がない。そのぶん難しいのですが、あえて食米で酒米に負けない酒をつくってみようという…。これも一種の挑戦ですね」
水口さんは最後に、工場の敷地内にあるレンガづくりの建物に案内してくれた。中には焼酎を寝かせた木樽がずらっと並んでいる。工場を最新鋭のオートメーション化にする一方で、こうした古い建物を大切に守っている姿勢に100年以上続く企業の誇りが感じられた。

ワインの貯蔵庫みたいだが、樽の中は焼酎。しばらく寝かせると琥珀の色がつくという

旭川の酒を支えるもの—地元の後押し

かつて旭川の酒蔵には、互いの蔵を公開して技術を教え合う「蔵めぐり」という慣習があったという。
そのおおらかな気質は今も受け継がれていて、米の生産者が組織する「酒米部会」の集まりには、三つの蔵のメンバーも参加。一緒に田植えや稲刈りを体験しながら、情報交換をしているそうだ。

市民の側からも、旭川の酒造業を支えようという動きが起こっている。
旭川小売酒販組合は旭川の地酒を再認識してもらおうと2010年から毎年「あさひかわ地酒フェア」を開催。2013年には酒の卸売業者や小売店などが市議会に働きかけて「地酒で乾杯条例(旭川市地酒の普及の促進に関する条例)」の制定を実現させた。

(提供/旭川小売酒販組合)

第一回の地酒フェアから実行委員長を務める旭川小売酒販組合の大垣宏さんはこう話す。
「新潟などの居酒屋は地元の酒が大半。なのに旭川は酒屋も居酒屋も『久保田あります』『獺祭あります』と掲げている。せっかく酒蔵があるんだから『旭川の地酒あります』に変えられないかな、と」
地元の酒を選ぶことは、地域の産業と雇用を支えることでもある。
日本酒に愛されたまち、旭川。これからは私たちが旭川の酒を愛する番だ。

合同酒精株式会社(旭川工場)
北海道旭川市南4条通20丁目1955
TEL:0166-31-4131
WEBサイト
※工場見学はできません。

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