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仙台藩白老元陣屋資料館

12年間だけ存在した、幕末の北の防衛拠点
安政4年の、仙台藩白老元陣屋の絵図面
柴田美幸-text 黒瀬ミチオ-photo
1856(安政3)年、仙台藩がシラヲイ(白老)に築いた東蝦夷地の防衛の拠点「白老元陣屋」の絵図面。
北側の円形の土塁・内曲輪〈うちくるわ〉には、御備頭〈おそなえがしら〉と呼ばれた元陣屋の隊長の住居とその仕事場である御本陣、米蔵、御兵具蔵(武器庫)などが描かれている。その外側の方形の土塁・外曲輪には足軽の長屋や武芸稽古所などがあり、南側には外敵の侵入を阻む円形の虎口〈こぐち〉が設けられている。絵図面が残っている他所の陣屋の構えは方形が基本だが、円形を基本としているのが大きな特徴だ。
さらに、アイヌとの交易の拠点「シラヲイ会所」や、アイヌコタン(集落)などがある海沿いが描かれており、広域的な空間が一枚に収められているのが興味深い。

東蝦夷地を警護した仙台藩士たち

ここは市街地に隣接している場所だが、意外にも、あたりには静かな森が広がっている。白老沿岸から2.5キロメートルほど内陸の開けた場所に幕末の軍事施設「白老元陣屋」跡が残り、その傍らに資料館がたたずむ。学芸員の平野敦史さんによると、近代の開発が進んだ海沿いではなく内陸にあったことが幸いし、遺構だけでなく、白老元陣屋を囲む周辺の地形も良い状態で今に残されているという。一見、広大な広場のようだが、かつては100名あまりの武士たちがこの場所に暮らし、軍事訓練を日々重ねていたのだ。

元陣屋のジオラマ。広さ約6万6000平方メートルの丘陵に囲まれた土地で、西にフシコウトカンベツ、東にウトカンベツ川(旧)が流れ、ウトカンベツ川は河川改修が行われ、堀として機能していた

背景には西欧の脅威があった。とくに、1855(安政2)年に箱館が開港し、外国船が蝦夷地に近づくようになったこと、なにより江戸幕府にとって一番の脅威は、それまでも蝦夷地周辺に現れていたロシアが南下してくることだった。蝦夷地は松前藩がアイヌ民族との交易を独占していた土地だったが、外国からの侵略を警戒した幕府は、蝦夷地全体の直轄(※2度目の蝦夷地直轄。第2次幕領期)に踏み切る。
当時、松前から見た方向で、太平洋側および現在の北方領土を「東蝦夷地」、日本海側とオホーツク海側を「西蝦夷地」と呼んでいた。幕府は、松前藩と東北6藩にそれらを分割して警護を命じた。東蝦夷地のほとんどを割り当てられたのが、仙台藩である。
仙台藩は広範囲を防衛するため、白老に本部にあたる元陣屋、広尾・厚岸・根室と国後島・択捉島に出張所にあたる出張(でばり)陣屋を築いた。当初、幕府からは元陣屋の建設地に交通の要衝だった勇払(現・苫小牧)を示されたが、仙台藩士・三好監物(みよし けんもつ)らの現地調査により、白老の現在地に決定した。理由は、国元の仙台や幕府の奉行所がある箱館(函館)により近いこと、丘陵と川に囲まれた天然の要塞であることなどが考えられる。平野さんによると、他藩の元陣屋は海を見渡せる場所に築かれていることが多いが、ここは内陸に築かれたのが特徴的という。円形の構えも、中世の山城に近いという説もあり、「仙台藩が、独自の軍略的な意図を実践できたのが、白老元陣屋の立地だったのかもしれません」と平野さんは言う。また、近隣にはチャシ(アイヌ語で「柵囲い」等の意味があり、砦や集会所などの機能を持っていたと考えられる)跡があり、記録や発掘調査から、白老アイヌの人々にとって意味がある場所を、元陣屋の建設地として紹介された可能性も見えてきた。
藩士たちは仙台から20日間、長いときは2カ月もかけて白老へたどり着き、1年間の任期を務めた。

資料館の収蔵品は三好監物が所蔵していたものが中心で、元陣屋の絵図面や三好の武具などを展示。三好は現在の岩手県一関市にあたる仙台藩領の黄海(きのみ)出身。2代目御備頭(隊長)を務め、松浦武四郎など文化人や知識人とも交流があった

複数の絵図面と土塁の謎

ところで、元陣屋の絵図面は複数存在する。元陣屋は1856(安政3)年に完成しているが、それ以前の下絵や周辺の地形を描いたものを含めると、現在19点が確認されている。
そのうちの1枚が、元陣屋完成から1年後の安政4年、箱館奉行の視察に合わせて描かれた『仙台藩白老陣屋之図』である。陣屋の構造や内部の配置だけでなく海沿いも描かれているのが特徴で、柵を巡らせた中の建物には「シラヲイ会所」の文字が見える。
会所とは、松前藩が商人を介して行っていたアイヌとの交易(場所請負制)の拠点で、このときは幕府によって維持されていた。平野さんは「元陣屋と会所のある海沿いは、実際には遠く離れていますが、中間を略して一枚に収めたというところが面白い」と、この絵図面に注目している。箱館奉行への説明のためと思われるが、陣屋と会所の不可分な関係性が表現されているのも、これまで発見された絵図面には見られない特徴だ。
警衛の任務においては、どのように物資の運搬を行うかが鍵だった。会所は交易所であると同時に、軍需物資の荷揚港として不可欠だったと思われる。

『仙台藩白老陣屋之図』の海岸の部分。囲いの外の東側には「蝦夷小屋」と書かれた集落らしきものも描かれている

実は、絵図面には謎がある。内曲輪の土塁の西側に注目すると、途切れて開いているものと、開いていないものが混在しているのだ。前掲の安政4年に描かれた『仙台藩白老陣屋之図』では開いていないが、ほかの絵図面では開いているものもある。これはなにを意味しているのだろう。
『仙台藩白老陣屋之図』に戻ると、ほかの絵図面では開いている西側に鳥居が描かれている。その先のチャシ跡に仙台藩と縁の深い塩釜神社が建立されており、参拝のための出入り口だったのではないかと推測されている。
ちなみに、外曲輪の西側にも門が描かれ、その先には愛宕神社が建立されていた。堅固な軍事拠点には藩士たちの精神の拠り所も設けられていたのである。

元陣屋の中枢・内曲輪の部分。南の表御門、北の搦手(からめて)御門のほかに出入り口はないように見える。曲輪外の西側に鳥居があり、小高いところに「塩釜大明神」の社殿が描かれている

蝦夷地から見た幕末の歴史をたどる

ただ、内曲輪の西側はいつの時点で開けられたのか、もしくは閉じられたのか、各絵図面が描かれた前後関係が不明なこともあり、よくわかっていない。
1969(昭和44)年〜1995(平成7)年の元陣屋跡整備(第1次環境整備事業)では、開いた状態を維持して復元された。今後の整備事業では、より時期を特定できる絵図資料の描写に基づき、開いていない状態で再整備を行う予定だという。「時代背景が特定できる『仙台藩白老陣屋之図』は、再整備を見据えた資料として非常に重要な一枚です」と平野さん。2025(令和7)年の発掘調査では、この絵図面で描かれている土塁の上の柵らしき木片が発見された。地元の木材を使用したのか、仙台から持ち込んだ木材なのか、今後の樹種の分析で明らかになることが期待される。

現在の元陣屋跡を北から見た写真。手前が内曲輪で搦手御門があり、その右(西)の土塁は開いた状態で現在にいたる。元陣屋跡は自由に見学できるので、実際に歩いてみるのがおすすめだ(白老町教育委員会 提供)

1868(慶応4)年、戊辰戦争が始まると仙台藩は旧幕府軍側となるが、新政府軍が白老へ向かったと聞き、戦わずして撤退。その防衛力を発揮することなく、白老元陣屋はたった12年で役目を終えた。明治に入ると建物などが壊されてしまったため、解明すべきことがまだ多く残されているという。絵図面を手がかりに発掘調査が進めば、蝦夷地から見た幕末という歴史の一側面が明らかになるかもしれない。
元陣屋は2022(令和4)年、保存状態や官民連携による活用・普及啓発への取組などが評価され、北海道遺産に選定された。加えて、民族共生象徴空間「ウポポイ」があることで、アイヌ側からの視点も含めて幕末の歴史をたどることができるのも、白老ならではと言えるだろう。

幕府の蝦夷地調査に同行した秦檍麿(はたのあわきまろ。別名・村上島之上)が、アイヌの風俗や文化を記録した『蝦夷島奇観』(1800年)の写本。元陣屋に詰めていた藩士で絵師の東鵬(とうほう)によるもので、美しい状態が維持されている(※常設展示はしていません)

仙台藩白老元陣屋資料館
北海道白老郡白老町陣屋町681-4
TEL:0144-85-2666
開館時間:9:30〜16:30
休館日:月曜(祝日の場合は翌日)、12月29日〜1月3日
入館料:大人300円、小・中学生150円
※「ウポポイ」入館券提示で当日のみ団体料金(大人250円、小・中学生120円)で入館可

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