小説家の筆が描いたまち。書かれた時代と現在。土地の風土と作家の視座。
「名作」の舞台は、その地を歩く者の眼前に何かを立ちのぼらせるのだろうか。
*この連載は、作家の合田一道氏が主宰するノンフィクション作家養成教室「一道塾」(道新文化センター)が担当しています。
第49回

北方の夢(豊田有恒)

あらすじ

トーマス・ライト・ブラキストンは世界を探検踏破したが、地位や名声を捨て最後に夢を託したのは、日本だった。開港直後の箱館に着いたブラキストンは、この地に23年間にわたり在留。海運業、貿易、製材業などを営む傍ら、動植物の収集・研究に努め、津軽海峡を生物分布の境界とする「ブラキストン線」を発見する。

“西洋木挽きさん”と呼ばれた
ブラキストン

北国諒星/一道塾塾生

そこは、遺体安置所だった。だが、大英帝国の軍人の終焉の場所に相応しいところではない。(中略)ひとつの亡骸のそばで、六フィートもある巨漢が、慟哭していた。彼は、おおきな背を丸めるようにして、嘆き悲しんでいた。

この本は、英国の準男爵(バロネット)の家に生まれたブラキストンが、1854(安政元)年、陸軍砲兵中尉としてクリミア戦争に出撃し、ともに従軍した弟ローレンスを失って悲しむ場面から書き出している。
その後、カナダ探検、中国の揚子江探検などに従事するが、日本で事業を起こすことを決意。1863(文久3)年、新妻エミリーを連れてシベリアを横断し、箱館(のちに「函館」と改称)に上陸する。

ともあれ、ブラキストン夫妻は、函館にやってきた。(中略)ロンドンの西太平洋商会の本社で、アドヴァイスを受けていたことだが、シベリアを横断し、ニコライエフスクを視察した今、意向は固まっている。製材業を行なおうと思ったのである。

ブラキストン肖像(提供:函館市中央図書館)

新天地・箱館では、西太平洋商会の現地支店代表として海運・貿易業や日本初の蒸気機関による機械製材業に乗り出す。1867(慶応3)年には、友人とブラキストン・マル商会を設立して独立した。妻エミリーはこの地になじめず帰国するが、ブラキストンは手広く事業をこなす傍ら、少年時代から関心を持っていた鳥類の採集・研究、気象観測などを行い、現地日本人にも多くの影響を与えた。
箱館戦争がぼっ発すると、ブラキストンは海戦の帰趨を見届けようと、周囲の止めるのもきかず海岸の自邸に留まる。

ブラキストン邸を直撃した砲弾は、二階の架廊(コリドー)で弾んでから、客間の天井を突き破って、屋内へ落ちてきた。そこから、台所(キッチン)へ抜けて、テーブルクロスを引っかけて、壁をぶち破り、牛舎へ飛び込んだのである。(中略)ブラキストンは、落ち着きはらっている。砲兵士官だったブラキストンには、弾丸の到達距離が読めていたのだ。

ブラキストン邸(提供:函館市中央図書館)

戦争は1869(明治2)年5月まで続いた。戦後になると、所有船の沈没や未収金の増加などで商会の資金繰りが悪化し、打開策として函館-青森間の連絡船運航などを始めるが、開拓使の妨害により挫折する。
そんな中の1883(明治16)年2月、ブラキストンは20年間の函館暮らしの間に研究した成果―青函海峡を境にして本州と北海道では棲息する動物分布を異にしているという新学説を発表した。

東京築地の商業会議所でにおいて、『日本アジア協会』の定例総会が開かれた。(中略)パークス公使の紹介によって、トーマス・ブラキストンが登壇した。(中略)「わたしは、ここに自説を述べる機会を与えてくださった関係者各位に、感謝するものであります」

聴衆は水を打ったように静まり、話に聞き入った。ブラキストンが降壇すると、まだ拍手が鳴りやまない中、工部大学教授ジョン・ミルンが登壇し、これを「ブラキストン・ライン」と名付けようと提案した。とたんに会場から、ひときわ大きな拍手が沸き起こった。

ブラキストンは、誰からも好かれるというタイプの人物ではなく、自分にも他人にも厳しかった。だが、いったん気を許すと、親しみやすく飾らない性格だった。多くの市民から“西洋木挽きさん”と呼ばれたのも、そのあらわれであろう。
晩年は米国に渡り、エドウィン・ダンの姉・アンメアリーと再婚して2児をもうけ、幸せに暮らした。しかし、1891(明治24)年、カリフォルニア州サンディエゴを旅行していたとき、にわかに肺炎を発病し、58歳でこの世を去った。
函館山山頂にある「ブラキストンの碑」を見ながら、著者が本に記しているように、もっと国内外で広く知られてよい、貴重な存在だと思った。

ブラキストン碑(提供:市立函館博物館)

※引用箇所の原文ルビは、漢字の後ろに括弧書きで代用しています。


豊田有恒(とよだ・ありつね)

1938年群馬県生まれ。1962年SF小説『火星で最期の…』でデビュー。SF、古代史、ノンフィクションなど幅広い分野で活躍。日本SF作家クラブ会員。代表作に『異次元神話』、『ヤマトタケル』シリーズ、『聖徳太子の悲劇』など。
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