小出大和守秀実とアイヌ墳墓盗掘事件
1865(慶応元)年7月13日、英国人3人と英国領事館の小使(今の用務員)が、森村にやって来た。目的は、アイヌの人骨を盗掘する事だった。ここで、4体の人骨を発掘して莚包みにし、領事館に戻った。そして、箱館から船に乗せて上海経由で英国に送った。
3カ月後の10月21日、同じ英国人3人と領事館の別の小使2人の計5人で山越郡落部村へ行き、13体のアイヌの人骨を盗掘し領事館へ戻った。この様子を、地元在住の男が目撃していた。翌朝、このことをアイヌの子供達に告げた。
子供達は墓地に走り、盗掘の様子を確認した後、アイヌの大人2人に連絡。さらに、山籠もりをしているアイヌ達全員に知らせた。アイヌ達は嘆き悲しみ、盗掘を公訴するためにアイヌのヘイジロウら3人は、箱館奉行所へ行った。
ヘイジロウが「落部村ヘイジロウでございます。火急なことで書付を持参しておりません。お奉行様にぢかに申し上げます」と門を隔てて、詞せわしくいった。(中略)
ヘイジロウは存外怯えた様子もなく落部村海辺のアイヌ人墓地盗掘の次第を述べていった。
箱館奉行の小出大和守秀実は、米国人から盗掘の事実を聞いており、下手人の名前、さらに事件の首謀者がワイス領事であることも知っていた。早速、領事館へ行き本人に正したが、このままだと盗掘が露見してしまうと考え、ワイスは28日に英国領事館内で葡萄牙、仏蘭西、米国の3カ国の領事及び各国の商人達の立ち会いの元で審議することを、小出に連絡した。
審議の冒頭で英国側は事件を否認したが、日本人の小使が盗掘の事実を裏付ける証言をした。小出は奉行所の調査で、小使が落部村へ行く途中に姿を消したことを確認し、さらに森村で起こった盗掘事件でも、盗掘したアイヌ墓地跡を探し当てた。そして、小出がワイスに言った。
「奉行所の調べと全てが符合していることがお解りになられたでしょう。(中略)なぜアイヌ人 の骸骨をほしがるのか、当初解らず迷ったが、異国の人骨を比較する学問のあることを物の本で読んだことがある。(中略)盗掘はいかなる事由があっても許されぬものです」
予想外の展開にワイスは判決を出すことに反対したため、審議の日は11月6日に運上所で行われた。ここで、目撃者である3人の証人が証言し、盗掘の事実が明らかになった。盗掘に関わった3人の日本人は逃げようとしたため、直ちに捕えられた。
その後の交渉で、落部村の人骨が引き渡された。さらに、森村の盗掘に関しても、英国側が罪を認め、後日返却することで合意した。そして、ワイスは事件に関与した3人の英国人を捕縛したが、自身の関与は認めなかった。裁判で3人の英国人は、禁固12カ月~13カ月の判決を受けた。
今回のことで、ワイスは領事を解任された。彼は3月に横浜から船に乗り、上海経由でロンドンへと帰国。直後に、ワイスは代言人(今の弁護士)に唆されて、外務省からのアイヌ人骨盗掘の件での訊問書を偽証したことで、外務省を辞職した。
新任のガール領事は、事実関係を認め謝罪。落部村の東流寺にてアイヌ人骨13体の返還、さらに親族54人に金250両を支払うことで決着した。森村の4体の遺骨は、翌年の4月に一妙寺で返還された。
江戸への出府を命ぜられた小出は、4月16日にアイヌの長老ヘイジロウら3人に別れを告げ、ヘイジロウは答えた。
「アイヌ奴はこれで目をさますこともなく静かにねむりに付くだけでございましょう」
(中略)アイヌ最後の男だな、おれのこころの底を見抜いている。おれなどの及ぶ男ではないと呟いた。
小出は英国との談判が幕府に評価され、外国奉行に任ぜられた。さらに10月、樺太国境画定交渉の遣露使節団正使として、露国との交渉にあたった。しかし1869(明治2)年6月、彼は交渉内容に不満を持った志士の一人に暗殺された。享年36。
1936(昭和10)年、北海道帝国大学(現北海道大学)医学部の児玉作左衛門教授が集落の同意を得て、落部村と森村のアイヌ墳墓を発掘して調査した。そこで、落部村の遺骨は盗掘事件で英国人に盗まれた遺骨であることが、再確認された。しかし、森村の遺骨は、大英博物館に出所不明の3体のアイヌの人骨があるため、返還したとされる遺骨は偽物であると、歴史家の阿部正己は推定した。