水銀に翻弄された「水飲み」一族と鉱山技師
1938(昭和13)年に辺気沼の近くの山麓(当時は常呂郡留辺蘂町)で、札幌の鉱山技師である那須野寿一は辰砂(硫化水銀の塊)を見つけた。詳細な調査をした結果、近隣の山で自然水銀の鉱脈を突きとめた。そこで那須野は、辺気沼に住む老爺に水銀の発掘を提案した。
「水銀鉱床の探査を手伝ってもらえませんか。謝礼は出します(中略)
土地のことは皆さんのほうがよく知っているはずだ。どうか力を貸してください。この山は日本一、東洋一の水銀鉱山になる。自然水銀が採れる山なんて他にない。この山に眠る水銀が必要なんです、我が国には」
この願いに老爺は反対したが、那須野は諦めなかった。そして数カ月後に、同じ集落の住民である薊多蔓に出会い、発掘の協力を取り付けた。水銀鉱山は高島財閥の援助で経営に乗り出し、那須野が高島鉱業フレシラ鉱業所の所長に就任。多蔓は実子の十草と八葉、養子の榊芦弥の4人で、鉱夫となった。多蔓をはじめとする「水飲み」一族は百年以上も昔から、和人(日本人)とも、アイヌ人とも隔絶した生活を営んできた。実は一族は先祖代々に渡り、辺気沼の水銀を直接飲むことができる異常な体質を受け継いだ。このため、多くの鉱夫は水銀の発掘が原因で体調を崩す一方で、4人の鉱夫は汞毒症(水銀中毒)に罹患しないため、倍の給金で働いた。
しかし4年後、十草は落盤で死んだ。これを恨んだ芦弥はダイナマイトを使って所長を脅して待遇改善を要求し、会社側は受け入れた。戦時中の活気に沸いた鉱山も、終戦直後に所長の息子源一が入社した時から水銀の需要が減ったので、翳りが出始めた。
芦弥は貧しいながらも本妻の山本光子との間に忠樹を授かり、その一方で「水飲み」一族の血を絶やさないために、同じ一族で妾の萩実苗との間に藤吾と保枝の2児を儲けて、3人の父親になった。
戦後の労働組合の発足に伴い、芦弥は組合の派閥抗争に巻き込まれ、名ばかりの組合長となり、人員整理や賃金カットなどで会社側との交渉にあたった。
数年後に、本妻光子と離婚し、妾と再婚した。光子は別の男性と結婚して、忠樹と一緒に熊本へと移った。芦弥の再婚から数カ月後、那須野所長の失踪、多蔓夫婦の焼死など、不可解な事件が頻発。ほぼ同時期に、水銀に関する奇病(水俣病)が熊本で発生した。
1963(昭和38)年、芦弥の前に熊本大学医学部の学生になっていた忠樹が、鉱業所の閉鎖を主張するために現われた。彼は大学の水俣病研究班の一員でもあった。
「水銀鉱山に生まれた者として、この状況を見過ごすことはできない。ただ、国や世間はなかなか動かない。私にできることを考えた結果が、フレシラの閉鎖要求です。この町のことは多少なりとも知っている。他の人が言うより、私が訴えたほうが効果はある。もしフレシラが閉鎖すれば、この国の水銀産業は大きく変わる」
芦弥の家族は、鉱山を潰そうとする忠樹を疎ましく思った。翌年、藤吾は再び調査に来た忠樹を殺害して、死体を水銀のある洞窟に埋めた。1週間後、芦弥は死体を埋めた場所を確認するために行ったところ、偶然にも洞窟の中で八葉に会った。そこで、彼から一連の不可解な事件の真相を聞いた。そこへ、洞窟の中に入ってきた警官によって2人は逮捕。その後、これまでの事件に関わった人物も逮捕され、事件は解決した。
4年後の1968(昭和43)年、芦弥は出所し鉱山に向かった。高島鉱業は企業としての責任を追及され、閉山を決定。鉱業所は営業最終日を迎えた。
「今日限りで鉱業所は解散する」
挨拶をするのは所長の源一だった。
(中略)
最盛期で千人の鉱夫が働き、年間二百トンに迫る水銀を産出していた〈東洋一の水銀鉱山〉の最期 が、これほどあっけないものだとは想像もしなかった。
鉱山は30年で役目を終えた。閉山後の芦弥と源一は「もうひとつのフレシラ」を求め、新たな水銀鉱床を見つけるために行動を共にしたが、それぞれ悲劇的な最期を遂げた。
本作品のモデルとなったイトムカ鉱山は、閉山後、日本で唯一の水銀含有廃棄物の処理、リサイクル工場に変わり、操業を続けている。工場は、JR留辺蘂駅から車で約45分のアクセスである。イトムカ鉱業所内にある選鉱場は北見市の登録文化財に指定されているが、一般の観光客には公開されていない。