列車の車窓からオホーツク海を眺める旅
1983(昭和58)年3月21日、筆者と『小説新潮』の編集者である藍孝夫の2人は、上野から電車と新幹線と特急を乗り継ぎ、青森まで行った。(当時、東北新幹線は盛岡まで)そして、青森から青函連絡船と函館本線(海線)で札幌まで行き、夜遅くに到着。近くのホテルに1泊した。
翌朝早く札幌から石北本線の特急に乗り、遠軽に到着。そこから、3両編成のディーゼル車両の名寄本線に乗り継いだ。先頭の車両が途中の興部で切り離されて、真中の車両が興浜南線の終点の雄武まで直通運転のために、2人はその車両に乗った。
遠軽から20分ほどで、湧網線との接続駅の中湧別に到着する。湧網線は能取湖やサロマ湖の岸を走る路線だ。40分走って紋別へ。ここを発車後にオホーツク海が見えたので、筆者は腰を浮かして窓を見た。
オホーツク海は白一色。せめぎ合い、砕けながら押し寄せた氷塊群が視界のかぎりを埋めていた。どこまで続いているのか、水平線と雲とが溶け合って定かでない。渺々、茫洋としている。
(中略)
よく見ると、後ろから押してくる氷と前に立ちはだかる陸地との挟みうちにあって居場所がなくなったのであろう、氷原の上に乗り上げた氷塊がある。二つの氷片が∧字型に取っ組み合っているのもある。しかし、いずれも、その姿勢のままで動きを止め、凍結している。横腹を見せた氷塊や氷片は、やや青味を帯びている。
遠軽から2時間弱で興部に到着。ここから終点の雄武までは1両だけの興浜南線となる。30分ほどかけて到着。北見枝幸までの54kmは鉄道路線が無いため、宗谷バスに乗り換えた。
バスはオホーツク海岸に沿って、国道238号線を北上した。右窓からはオホーツク海や番小屋、左窓からは工事中止のまま放置された鉄道の路盤が見えた。1時間あまりかけて枝幸バスターミナルに到着。ここから北見枝幸駅まで徒歩で移動する。待ち時間を利用して、駅前の食堂「一級食堂」でラーメンを食べた。ここから浜頓別まで興浜北線に乗った。北見山地の北端が、海に迫ってくる。
「ウスタイベ千畳岩」というのが現れる。地殻変動で海面下から隆起した礫岩が広いテラスをつくっている。黒い岩と白い流氷との対照が鮮やかだ。
ディーゼルカーは岩礁の海岸を走る。岬をめぐるときは線路が高くなり、流氷を上から見下ろす。
すでに流氷は、雄武あたりで見たような厳しく凝結したものではなく、海面に浮かぶ大小の氷板群に変っている。穏やかで優しい流氷である。
50分足らずで、浜頓別に到着。ここから天北線に乗り継ぎ、夕暮れの頓別原野を西北に走り、目的地の稚内に着いた。札幌から稚内まで列車5回、バス1回乗継いだオホーツク海を望む旅は、終わった。
興浜北線と興浜南線は、未着工の北見枝幸と雄武間を結んで「興浜線」として工事を進めていた。しかし、オホーツク沿岸の入植計画が停滞し、離農者が相次ぎ人口が減少したため、1979(昭和54)年に工事は中断した。国鉄分割民営化が叫ばれる中で、2つの路線を接続して第三セクターでの営業を模索も、赤字が予想されることから、路線の存続を断念。北線は1985(昭和60)年7月1日、南線は2週間後の15日に廃止になった。もし未着工区間を完成させていたならば、網走から南稚内までが鉄道路線として結ばれ「オホーツク海縦貫線」として、沿線住民や全国の鉄道ファンを喜ばせたであろう。地元住民は、流氷を中心とした観光需要が掘り出されたかもしれないだけに、工事中止を残念に思った。
今回の旅で筆者は、雄武駅前で着工できないままの区間を、次のように嘆いた。
小さな終着駅のホームに立って前方を眺めると、トンネルが見える。興浜南線という線名から察せられるように、線路を北へ延ばして興浜北線と手を結び、晴れて「興浜線」になりたいと願って掘ったトンネルである。もし戦争による工事中断がなく、全線が通じていれば、オホーツク海と流氷の眺めを満喫させる線として脚光を浴びただろう。
1987(昭和62)年3月20日に、湧網線が廃止になった。それを追うように、1989(平成元年)5月1日には天北線と名寄本線も廃止となった。鉄路からオホーツク海を眺める区間は、石北本線や釧網本線の一部区間だけとなった。
※表紙画像は、『乗りつぎ乗りかえ流氷の海』が収録されている『旅の終りは個室寝台車』の表紙