幕末からの濃密な時間がしみ込んだ書簡。

イギリス領事館文書

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写真提供/市立函館博物館

上)英国領事ユースデン宛榎本釜次郎・松平太郎書翰
蝦夷嶋総裁・副総裁連名で英国領事に宛てたもので、五稜郭や弁天岬台場への立入禁止を告げている。

以書翰致啓上候、然者当時之

形勢亀田五稜郭を始め、其外處々之砲台我兵隊并要用之人数、外者外國人・日本人立入候事堅禁止致置候間、此旨貴國人民之此地ニ住し、又者逗留する者江不漏様御布告有之度候、後日法を犯す者ある時の為め、此段申進置候、以上
 二月十五日

蝦夷嶋総裁  榎本釜次郎(花押)
同副総裁   松平 太郎(花押)

不列顛國岡士箱館在留
 イウスデン・エスクウアイル江

下)英国領事ユースデン宛永井玄蕃・榎本釜次郎書翰
土地と建物の税金の取り扱いに関するもの。

以書簡啓上いたし候、然者我等貴国岡士所并建物之税ニ付、去月廿七日附之貴簡落手し、左ニ回答

右税者次の理ニ基つき払ひ戻す也、右所謂之税者昨年我等當地ニ来る前之税たるを勘考し、且過日対話之節申述られたる如く、方今之事件決定申候ハヾ、君之役所ニ預り置くべき約束を以なり、拝具謹言
三月廿日

箱館奉行  永井 玄蕃(花押)
蝦夷嶋総裁 榎本釜次郎(花押)

 不列顛国岡士
  アル・ユーテン尊下

旧幕府軍の人物の幕府での階級は、老中を補佐する若年寄の永井玄蕃が最も高く、榎本は軍艦頭で、松平は陸軍奉行並。箱館で陸軍奉行並を務めた土方歳三は、主家もない浪士にすぎなかった。この軍はいろいろな集団の寄せ集めだったので、それらを組織としてまとめる必要から、蝦夷地での役職は士官以上による入れ札(公選)で決められたのだった。しかし一方で入れ札の過程を詳しく調べると、箱館の総裁となった榎本の先に永井の名がある文書もあり、徳川幕府での位が意識されていたこともわかっている。さらに幹部たちには、総裁職にはいずれ徳川家の誰かに就いてもらう意志があったという。

箱館にイギリス領事館が開設されたのは1859(安政6)年。横浜、長崎とともに、このまちが日本初の国際貿易港として開港された年だ。ユースデンの赴任は1861(文久元)年で、一度帰国したあと1867(慶応3)年に再び箱館へ。以後明治13年まで、彼は英国人として、激動の日本史をその内側で体験した。
ユースデン夫妻は親日家となり、まちの経済人などとも深くまじわった。金森赤レンガ倉庫の創業者渡邊熊四郎(初代)らに、病人に病院が必要であるように都市にはパブリックな公園が必要だと説いたのも名高いエピソード。これがもとになり、政財界や市民を巻き込んで函館公園が作られた。開園は1879(明治12)年で、日本で最初期の都市公園だ。資金不足を打開するために、造成には市民や近郊の農民がボランティアで参加したという。
公園開園と同時に設けられた文化施設が、市立函館博物館の源流となる開拓使函館仮博物場だ。

当初ハリストス正教会近くにあった領事館は、火事で焼失した後、現在地付近に移転。1913(大正2)年に現在地(元町33-14)に現在の建物が竣工した。領事館の機能は1934(昭和9)年で終了し、幾多の変遷をへて現在は、「函館市旧イギリス領事館」として箱館開港をテーマにしたミュージアムになっている。

谷口雅春-text

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