永山武四郎と旭川-2

「永山」の地名に宿る、人々の誇り~武四郎の足跡をたどって旭川を歩く

旭川に永山武四郎の名が刻まれた地名がある。上川地方で最初に拓かれた永山地区。武四郎ゆかりの史料や逸話は今も残っているのだろうか。いまは旭川市に合併されている旧永山村を歩いてみた。
井上由美-text 伊藤留美子-photo

武四郎は永山人の誇り

国道39号沿いに大型量販店がひしめく永山地区。上川原野の開拓はここから始まっている。1891(明治24)年に永山、翌年に旭川、翌々年に当麻、それぞれ400戸の屯田兵が入植して開墾された。
「私の子どものころはあたり一面水田でしたよ」と話すのは、郷土歴史家の齋藤和さん、85歳。永山村に生まれ育ち、屯田兵3世の齋藤勝さんと結婚。ずっと永山に暮らし続けてきた。
「主人の祖父が屯田兵として入植したのですが、日露戦争で負傷。早くに没したそうです。義父は農地を人に貸し、苦学して、後に永山村長を務めました。その義父が永山の歴史を後世に残したいという願いを果たせず亡くなったので、私は夫とともにその遺志を継ごうと活動してきたのです」
仲間とともに永山郷土資料収集懇話会の事務局を担いつつ、これまで『楡は見ていた』『のこそうよ、永山の歴史』『永山神社史』など、何冊もの郷土史料の編纂に関わってきた。

「武四郎は質実剛健で公明正大な方だったのではないでしょうか」と齋藤和さん


「永山は樹林の少ない平地で、開墾に時間がかからなかったそうです。屯田兵は1町5反の原野を開墾するとさらに3町5反が給与される仕組みでした。永山は条件がよかったので、全員揃って5町歩の地主になれた。内地では5反百姓という言葉があったくらいですから、5町となると10倍です。本州では考えられないことだったでしょう」
過酷な生活ばかり強調される屯田兵だが、広大な土地を自ら所有できるというインセンティブは、どんなにか魅力だったことだろう。
「先人が苦労して切り拓いた土地は今やすっかり住宅街になりました。それでもやはり永山武四郎は地域の誇りです。私が小学生のころには学校の運動場に武四郎の写真が掲げられていて、朝礼で頭を下げて拝んでいたんですよ。神のような存在だったんです」
ちょうど尋常小学校から国民学校へと変わる軍国主義の時代、将軍の名を与えられた地域に暮らすことは、住民にとってなにより誇らしかったに違いない。

 

開村30周年、守護神となった武四郎

実際、武四郎は「神」になった。上川で最も長い歴史を誇る永山神社の宮司、太田覚さんはこう話す。
「当時、神社を管理していたのは永山村ですが、開村30年の大正9年、永山武四郎将軍をご祭神としてお迎えしたいと政府に出願して許可され、合祀したと聞いております」
新しい社殿が完成した1921(大正10)年には、将軍愛用の軍刀・軍帽・指揮刀が武四郎の息子、武敏さんによって奉納されている。

永山神社5代目宮司の太田覚さんは、永山生まれ永山育ちの66歳。田んぼが広がっていた永山を覚えている

神社隣の永山屯田公園には、武四郎の孫で、元松竹会長の永山武臣さん(故人)が揮毫した永山屯田百拾年記念碑もある。
「武臣さんは松竹の社長や会長職でいらしたときも、忙しい合間を縫って毎年のように顔を見せてくださって、平成5年の社殿の建て替えのときもご浄財を賜りました」と太田さん。
そういえば前出の斎藤和さんもこんな話を教えてくれた。
「永山武臣さんは永山神社を『うちの神社』と呼んでいらっしゃいましたよ。社務所の畳が傷んでいると、帰りがけに『これで畳を新しくしなさい』とさりげなく寄付を置いていかれるような方でした」

永山武四郎将軍の銅像は1994(平成6)年の建立。
神社の創祀100年を記念して、地域の方の協力で建立された

永山では2年後の2020年に開村130年を迎える。記念事業を行う奉賛会が設立され、神社でも駐車場の拡張と社務所の建て替えを検討中だ。
「新しい社務所には武四郎の軍刀など社宝を展示する資料室をつくりたいと考えています。永山の風景がどんどんと変わるなか、この神社を地域のよりどころとして守っていきたい」
それが太田さんの願いである。

永山神社の絵馬とおみくじは熊がモチーフ。武四郎が詠んだ歌「熊のすむ蝦夷の荒野を国のため きりひらきてよますらをの友」に由来する

上川離宮の建設予定の影響

さて、当時の屯田兵の暮らしぶりを体感できる場所があると聞いて、旭川兵村記念館を訪ねてみた。こちらは永山の南隣、かつての旭川兵村、現在の東旭川地区にある。案内してくれたのは館長代理の中谷良弘さん。子どものころに数年間、実際に旭川屯田兵屋で暮らしたことがあるという。
「昭和30年代、私の親が屯田兵の拓いた土地を買って移り住んだのです。断熱材なんて一切ないですから、子どもごころにも恐ろしく寒い家でしたよ」

記念館内に屯田兵の兵屋の実物がまるごと移設され、当時の日用品とともに展示されている

「東旭川は樹林地。木を切り倒して開墾するのに時間がかかったようです。それでも東旭川は悪条件を克服し、いち早く水田耕作に取り組みました。当時、米づくりは気候に合わないと禁じられていましたが、自主的に研究を重ねて栽培に成功。貯蔵できる米のおかげで収入も安定しました。上川百万石の礎を築いた功績は大きいと思います」
上川で用水路が最初に造られたのも東旭川地区。記念館には屯田兵が発明したという、木製の播種機も誇らしげに陳列されていた。

館長代理の中谷(なかたに)良弘さん。「私が子どものころは屯田兵の子孫もまだ多かった」と回想する

展示室の出口に、永山、旭川、当麻、三つの屯田兵村の府県別入地者数がパネル展示されていた。
「当初、士族に限られていた屯田兵制度ですが、上川開拓からは平民も応募できるようになりました。3村とも四国の出身者が多いのは共通していますが、東旭川の特徴は京都から45戸も入地したこと。永山も当麻もゼロなのに、どうしてか不思議に思いませんか? これは永山武四郎の上申により、旭川の神楽岡に離宮ができると広まったからだといわれています」
離宮とは天皇が避暑や静養に訪れる宮殿のこと。武四郎が旭川に離宮の設置を申請し、1889(明治22)年に閣議決定され、翌年、現在の神楽岡が予定地に選定されたことから「離宮ができるようないいところなら行ってみよう」という気運が高まったと推測される。
結局、札幌などからの反発が強く、その計画はうやむやになって頓挫。上川離宮ができるはずだった神楽岡には、いまこんな碑が残るだけだ。

「上川の清き流れに身をそそぎ 神楽の岡に行幸仰がん」という武四郎の歌が刻まれている

旧陸軍初代の第七師団長であり、第2代北海道長官も務めた永山武四郎。彼が没した1904(明治37)年はロシアとの開戦の年であり、いくさの行く末が気がかりだったことだろう。

第七師団の歴史や資料は「北鎮記念館」に詳しい

永山神社の境内に建つ軍服姿の永山武四郎像は、今も指揮刀を手に北東をにらむ。かつて札幌の大通公園3丁目にあった永山武四郎の銅像は、第二次世界大戦中の金属供出で回収され、武器として鋳直されて戦地に向かったようだが、今度はいつまでもここに立ち、平和を見守り続けてほしいと思う。

【永山武四郎を知るスポット】

永山神社
北海道旭川市永山4条18丁目2-13
TEL:0166-48-1638

旭川兵村記念館
北海道旭川市東旭川南1条6丁目3−26
TEL:0166-36-2323
開館時間:9:30〜16:30
休館日:火曜(7・8月は無休、10月下旬~4月下旬は休館)
入館料:大人500円、高校・大学生400円、小学・中学生200円

北鎮記念館
北海道旭川市春光町陸上自衛隊旭川駐屯地隣
TEL:0166-51-6111(北鎮記念館呼出)
開館時間:夏期(4〜10月)9:00〜17:00、冬期(11〜3月)9:30〜16:00
休館日:月曜(祝日の場合は翌火曜)、年末年始
入館無料

上川離宮予定地
北海道旭川市神楽岡公園 上川神社境内
TEL:0166-65-3151

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