メナシへの遙かなまなざし -2

ラッコが招いた北方の脅威

夏の羅臼国後展望塔からの風景。千島列島は霧のかなた

千島列島は、ロシア帝国にとっては日本へのおあつらえ向きのアプローチだった。ベーリング海峡の「発見」からカムチャッカ半島、アリューシャン列島、そして新大陸へと怒濤の東進を続ける帝国は、ついに千島にたどり着く。目的の中心には、ラッコがいた。
谷口雅春-text&photo

18世紀初頭から始まっていたロシアの日本研究

千島列島を最初に見た西洋人は、1643年にエトロフ島に上陸したオランダ探検船の指揮官、マルテン・フリースらとされる。彼らは大陸と北海道や樺太、そして千島の地図を描こうとしたが、正確な調査には至れなかった。
前回ふれたように、ロシアが千島列島や日本列島のようすを具体的に知ったのは、フリースらの探検の半世紀あとになる17世紀末。大坂の船乗り伝兵衛らが、難破してカムチャッカ半島の西海岸オパラ河口に流れ着いてイテリメン族の村に保護されていた状況に、シベリア探検で東進してきたウラジミール・アトラソフが出くわしたのだ(1697年)。伝兵衛はやがてモスクワに連行され(1701年)、ピョートル大帝に謁見。大帝は臣下に、伝兵衛にロシア語を教え、その上でロシア人男児に日本語を指導させよ、と命じる。伝兵衛のあとにも何人かの日本人が、難破してロシア人に助けられるという同じ境遇でロシア人に日本語や日本のことを教えることになった。
時代が下って18世紀末から19世紀初頭にかけて、ロシア使節アダム・ラクスマンや露米会社(国策による毛皮交易商社)のニコライ・レザノフが通商を求めて日本に来航したが、彼らにはこうした伝統の上に、日本や蝦夷地に関する基礎的な知識があったのだ。このときラクスマンは、航海中に遭難してアリューシャン列島に流れ着いていた、伊勢の船頭大黒屋光太夫ら3人の日本人を連れていた。光太夫らもシベリアを横断し時のロシア皇帝エカチェリーナ2世に謁見している。

千島列島は、ロシアではクリル諸島と呼ばれ、クリルとは、カムチャッカ半島に暮らすイテリメン族(カムチャダール)の言葉「kur(人)」などがもとになっているという。この島々についてロシアがまとめた最初期の文献に、1785年の『クリル諸島誌』がある(『クリル諸島の文献学的研究』村山七郎)。ここでは、列島22番目の島としてマツマイ島(松前島・北海道)が出てくる。大きな土地で、島であるのか大陸なのかがよくわかっていない。中国との国境もわからないが、南端にはマツマイという町があって長官がいる。そして中国人にも日本人にも属していないクリル人が島を領有して、独自の法律をもっている。全体の統治のための統治者がいるかどうかはわからない、といった解説がある。日本では天明の飢饉で東北を中心に人々が苦しんでいたこのころ、ロシアは千島列島とその南にある日本列島を強く意識するようになっていた。ふたつの列島の結び目だったのが蝦夷ヶ島(北海道)だ。一方で、幕府老中の田沼意次が蝦夷地の開拓を志向したのもこの1780年代だった。


 

ラッコが世界史を動かす

時代を少しもどろう。
1728年、ユーラシア大陸と北米大陸の境界域を探検してベーリング海峡の存在を確かめたロシア海軍のヴィトゥス・ベーリングは、1740年の2回目の探検でアリューシャン列島と北米大陸北西岸にまで到達した。しかし北洋の暴風に飲み込まれた77人のベーリング隊は、ベーリング隊長を含む31人が命を落とすという壮絶な痛みの果てに帰還する。そして彼らが命からがら持ち帰ったラッコの毛皮が、宮廷や貴族たちの中で大評判となる。
北洋の冷たい海に生息するラッコにとっては、自らの毛皮がもっとも大切な防寒具。だから柔らかい毛がとびきり高密度に、しかも毛並みを作らずに生えていて、その肌ざわりはそれまでヨーロッパ人が手にしていたどんな毛皮よりもゴージャスだった。

東方には、こんな夢のような毛皮の産地がある。そのことを知ったロシアの政商たちは勢いづいた。一攫千金を夢見る男たちは危険を顧みずにシベリアを横断して、極東の拠点であるオホーツク(北緯59度東経143度)をめざした。オホーツク海という地名のもとになり、ウラジオストクが開発されるまでロシア東征の最前線となったまちだ。ベーリング隊も本拠をここに置いていた。彼らは周辺の森から伐りだした木材で帆船を作り、つぎつぎにアリューシャン列島をめざす。
いざ北洋の荒海に乗り出すと多くの船が難破したが、あきらめて引き返すという選択肢はない。彼らはカムチャッカ半島の東にまわり、まず、かつて難破したベーリング隊が漂着したコマンドル諸島でラッコを見つけ、襲いかかる。たちまちのようにそこを獲りつくすと、アリューシャン列島に進出。アリューシャンには先住民アリュート族がいた。アリュートはクジラの骨やアザラシの皮でつくったシーカヤック(ロシア語でバイダルカ)を使いこなす。アリューシャンの島々は強い海流によって隔てられているが、彼らはこのカヤックで一帯を自在に行き交い海獣を獲って暮らしていたのだが、ロシア人たちは銃を手に彼らを力で制圧してラッコ猟を強いた。ラッコの毛皮を税として徴収する仕組みを作ったのだ。アリュートたちは否応なく、帝国の経済システムの最下層に繰り込まれていった。
アリューシャン列島や北米大陸沿岸に拠点を築いたロシア人たちは血道を上げてラッコを獲り、膨大な利益を上げていく。やがて18世紀末にいたると皇帝や貴族が中心になって露米会社という毛皮の交易商社が立ち上がり、この会社が動かす荒くれ者たちがいっそうの乱獲に突き進んでいく。一帯はロシアのひとり舞台で、事実上ロシア領となっていくのだった。

無尽蔵にあると思われたラッコの資源も、こうした桁外れの狩猟圧を受けて見る間に減少していく。しまいにアリューシャン海域の限界が見えてくると彼らは、アリュート人を強いて北米大陸西岸を南下。その内陸にはビーバーやキツネ、ミンクなどがいたが、こちらでは先住民の勢力も強く思い通りにはいかない。一方でカリフォルニアを北上してきたスペイン人たちはやがてロシア勢力と接触することになった。スペイン人は航海術でも先住民への懐柔策でもロシア人にまさり、百年以上つづいたロシアの猛烈な東進は、現在のカナダ北西岸でついにストップを強いられた。
一方で、南氷洋から北洋までを巡航した大探検家、イギリスのジェームス・クックも、最後となった三回目の航海でベーリング海峡に到達して(1777年)、イギリスにもラッコの産地が知られていった。ロシア人たちは清との交易を拡大して局面を打開しようとする。清にラッコを売り、清からは絹や砂糖を手に入れるビジネスを回し出した。

地図データ©2019 Google, SK telecom、 赤い部分をカイが書き込み

千島列島からロシアが迫る

アリューシャン列島に見切りをつけたロシア人たちがつぎに見出したのが、千島列島のラッコ資源だった。しかも千島のラッコはさらに上質だった。1760年代になるとロシア勢は、アリュートたちを北千島に強制移住させ、ほどなく中部千島のウルップ島やシムシル島にまで進出してラッコ猟に従事させていた。獲物を運ぶ効率を求めてバイダルカは大型化され、3人乗りタイプが登場(この実物の1艘は市立函館博物館に収蔵されている)。こうなると当然、列島に先住していたアイヌたちと衝突することになる。アイヌにとってもラッコの毛皮は松前藩との価値の高い交易品だったが、アイヌが銛や弓で狩るのに対してロシア勢が使うのは銃だから、勝負にならない。アリュートたちはときにエトロフ島にまで出猟するようになった。

松前藩がクナシリ島に場所(交易拠点)を開設したのはロシア人の本格的南下に先立つ1754(宝暦4)年。蝦夷地本島との航路も開発されたが、その時点でロシアの脅威はいよいよ目前に迫っていた。ロシア人たちは北千島のアイヌコタンにも進出して、銃を手にアイヌからラッコなどの毛皮を税として強制的に徴収するようになる。加えて、ロシア正教や飲酒の習慣も押しつけた。そして母港オホーツクを離れた地での物資の補給のために、日本との接触を求めていく。
さらに風雲急を告げる事態が起こる。1789(寛政元)年。松前藩の請負商人飛騨屋のもとで漁労者となっていたクナシリ島や根室地方のアイヌが日ごろの不満と怒りを爆発させた、「クナシリ・メナシの戦い」だ。アイヌの近世最後の武力闘争とも呼ばれるこのいきさつについてはさまざまな背景や与件があるので、稿をあらためよう。

1792(寛政4)年。ロシアの使節アダム・ラクスマンが通商を求めて千島列島を南下してついに根室に来航。前述したようにラクスマンは、伊勢の船頭大黒屋光太夫ら、難破してアリューシャン列島に流れ着いた日本人を連れていた。ロシアは光太夫を通して日本との通商の糸口をつかもうとしたが、幕府はこれを拒絶する。その数年後にはイギリスの海軍士官ウィリアム・ロバート・ブロートン率いる探検船が噴火湾に入り、アブタ(現・虻田)で兵を上陸させた。ブロートンはエトモ(現・室蘭)にも寄港して、円い湾を囲んで火山活動の噴煙をあげる駒ヶ岳や有珠山、樽前山を前に、ここは「volcano bay(火山の湾)」だと記録している。これが噴火湾という地名の由来だ。
こうした情勢を受けて幕府は、近藤重蔵率いる百数十名に及ぶ大規模な蝦夷地調査団を派遣。それまではニシンやサケ漁などをめぐって沿岸部を結ぶ線に限られていた蝦夷地の情報だが、内陸部の地形や気候、アイヌの存在と暮らしが、幕府にもようやく明らかになっていった。そして1799(寛政11)年。幕府は、千島からのロシアの南下が差し迫った東蝦夷地(蝦夷地の太平洋側)を直轄。1804(文化元)年には盛岡、弘前の両藩に、南下をうかがうロシアに対する東蝦夷地の警固が命じられた。

ちょうどこの時期、露米会社の総支配人ニコライ・レザノフが、ロシア皇帝アレクサンドル一世の親書を携えて日本との通商を求めるために長崎に来航した(1804年)。レザノフもまた、ラクスマン同様に通商交渉のカードとして、日本人を連れていた。石巻湊(現・石巻市)から江戸へ米を運ぶ航海で難破した4人の乗員だ。彼らもまたアリューシャン列島にまで流され、そこでロシア人たちに奇跡的に助けられたのだ。しかし今度も長崎奉行所はレザノフらに、長期間留め置いた上で通商の拒絶を告げる。屈辱にまみれたレザノフは長崎を出航して宗谷とカラフトのルータカ(現・アニワ)を経て、カムチャッカ半島に帰っていった。それからしばらくして、幕府の交渉ぶりに憤った部下たちはエトロフの松前藩の出先を襲撃した。エトロフで防備を固めていた弘前、盛岡両藩の200人ほどはなすすべもなく敗走してしまう。ロシア艦はさらに樺太や礼文島、利尻島で狼藉を働いたのだった。そこで幕府は西蝦夷地(日本海側)も、樺太を含めて直轄にせざるをえなくなる。1807(文化4)年の春のこと。それは、蝦夷地のことはすべて、もう松前藩には任せておけない、という決定だった。
幕府は箱館に出先機関である奉行所を置き、ほどなくしてそれを松前に移した(松前奉行)。一連の政策の上で、間宮林蔵らは北方の知見を得るために樺太や大陸の黒龍江下流域の探査を行う。またこの時代、幕府はロシアのキリスト教勢力に対抗する意味も込めて、将軍家ゆかりの本山からそれぞれに僧侶が派遣される官寺を東蝦夷地に整えた。蝦夷三官寺と呼ばれる、有珠善光寺、様似の等澍院、厚岸の国泰寺だ。

仙台藩伊達家ゆかりの塩竈神社(宮城県塩竈市)には、文化年間にエトロフやクナシリで北方警固を成功させた記念の燈籠が奉納されている

北方警固が蝦夷地を内国化する

レザノフの来航と彼の部下による松前藩の出先への襲撃は文化露冦と呼ばれ(1806〜07年、文化年間のロシアの攻撃)、徳川幕府の武威に大きな疑問符がついた大事件だった。これを受けて幕府は、弘前藩、盛岡藩に増兵を、そして久保田藩(秋田藩)と鶴岡藩(庄内藩)にも北方警固を命じ、つづいて仙台藩と会津藩にも出兵を命じた。さらに、松前藩は知行高を減らされ、陸奥の梁川などに移封されてしまう。
幕府の蝦夷地直轄は1821(文政4)年の暮れに終わった。ヨーロッパではナポレオン戦争後の余波でロシアの東方への関心は薄れ、一方で、松前藩の必死の復領工作もあった。中心にいたのが、家老にして絵師である蠣崎波響だ。
しかしその30余年後。蝦夷地をめぐる情勢はふたたび激動する。具体的なはじまりは、やがて日本中をゆさぶるアメリカ東インド艦隊、いわゆるペリー艦隊の来航(1853年)にあった。1854(嘉永7)年には、幕府はアメリカに開国を強いられて不平等な日米和親条約を結び、まず箱館と下田が開港されることになる。翌年にはロシアとのあいだにも日露和親条約が結ばれ、エトロフ島とウルップ島とのあいだに国境線が引かれた。つまりエトロフまでが日本領と定められたのだ(幕府は、クリル諸島とはウルップ島以北の島々だと定義する)。

さてこの時期、19世紀半ばになると、アリューシャン列島やアラスカのラッコ猟はどうなっていただろう。容易に想像できるように、資源は見るかげもなく痩せ細っていた。国際的な保護条約ができるのはまだ先の話だ。『北方動物誌』(犬飼哲夫)はこの情勢を、ロシアはここを持っていることに価値を見出さなくなっていき、ついに1867年にはアリューシャンとアラスカをアメリカに、たった720万ドル(現在の約120億円)で売ってしまった、と解説している。なるほどロシアが新興国アメリカに広大なアラスカを気前よく安売りしてしまった大きな理由は、ラッコの獲りすぎにあったのだ。

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